推定無罪の原則

moriyasu11232011-08-10

『京都教育大:集団暴行で起訴猶予 無期停学無効…京都地裁
酒に酔った女子学生に集団で性的行為をしたとして09年、無期停学処分になった京都教育大学京都市)の男子学生4人が、大学の処分の無効確認を求めた訴訟の判決が15日、京都地裁であった。男子学生らは集団準強姦(ごうかん)容疑で逮捕されて起訴猶予処分になったが、杉江佳治裁判長は「(性的行為には)女子学生の同意があった。本件は集団準強姦事件ではない」と認定。そのうえで「男子学生の言い分を考慮せず、合理性がない」と全員の処分を無効とし、1人10万円の慰謝料支払いなどを命じた。
09年2月にコンパで酔った女子学生に居酒屋で性的暴行を加えたとして、京都府警が同6月、当時3〜4年生の男子学生6人を集団準強姦容疑で逮捕した。示談が成立し、京都地検は6人を起訴猶予処分にした。
大学は女子学生から相談を受け、府警に通報せず内部調査。同3月、性的行為を問題視して6人を無期停学処分に。起訴猶予処分後の同7月には、女子学生の卒業が見込まれる11年3月末まで処分を見直さないと決めた。処分に対し4人が09年8〜11月に提訴し、2人は経済的理由などから提訴を断念した。
判決は「大学は当初から男子学生を隔離し、女子学生の修学を支援する立場を固めていた。男子学生は卒業や就職への活動が阻害されるなど著しい不利益を受けた」と大学側の対応を批判した。
判決後、磯谷昇太さん(24)▽上田拓さん(24)▽田中康雄さん(23)と、原告に加わらなかった竹田悟史さん(27)が会見。それぞれ「不適切な行為だった」と謝罪したうえで、上田さんは「集団準強姦という卑劣な行為はなかったとの判断に安堵(あんど)でいっぱい」と話した。
同大学は「判決内容を詳細に検討したうえで方針を決定する」とコメントした。【成田有佳】
(2011年7月15日 毎日新聞より)

7月29日、大学側はこの京都地裁の判決を不服として大阪高裁に控訴した。
学生側の代理人弁護士は「控訴はせず、学生に授業を受けさせるのが、教育者としてのあるべき立場だ」とコメントしているようである。
これまでの経緯の概要を以下に示す。

2009年2月25日:追い出しコンパ当日
2009年3月31日:大学側が被疑者の学生6名を無期停学、見学者3名を訓告処分
2009年4月4日:被害者とされる女性が告訴
2009年6月1日:集団準強姦容疑の疑いにより学生6名が逮捕
2009年6月22日:被害者が示談に応じたことを考慮して6名全員を処分保留で釈放
2009年6月26日:逮捕された6名全員を不起訴処分
※学生6名は、2009年4月以降、今日に至るまで無期停学中であり、大学による更生プログラムなどを受けている。

改めて大学側の素早い対応が目を惹く。
逮捕の当日、メディアはこぞって被疑者学生の実名や写真、逮捕の瞬間の映像までをも流し続けた。
その報道に先導された「大衆」は、被疑者に対して正義の鉄槌を食らわせるがごとく激しいバッシングを展開する。
想像に難くないが、事件が報道された直後から「なぜ(被疑者とされた)学生達を退学処分にしないのか」という抗議が大学に殺到していたそうである。
さらに大学側の記者会見の席上、メディア記者達も「正義」の名の下に責任者に詰め寄るというお約束の光景が繰り返し報道され、ついには被疑者を擁護した第三者までもが攻撃の対象とされていく。
もはや「教育」を標榜する「大学」という名の自治組織ですら、メディアとそれにコントロールされた大衆のパワーには抗えない。
しかし「容疑」はあくまでも「疑い・嫌疑」である。

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建前にせよ、日本は推定無罪の原則を法律に取り入れている国のはずである。たとえ、起訴された者の99.9%が有罪になるとしても、その建前を気にする一定の配慮も必要ではなかろうか。
日本は、実務上は明らかに推定有罪の国である。99.9%有罪、つまり無罪である誤差が0.1%を切っているというのは、統計的には異常値であり、人間の自然な行動(偶然)を否定し、何らかの作為的な力が働いていることを証明している。
それがマスコミを含めた刑事司法関係者の中にある推定有罪の心理である。「火のない所に煙は立たない」と言うように、日本には、推定有罪の心理を示す的確な格言まである。
推定有罪の原則が蔓延することで、大学生が逮捕されると、マスコミは大学に対して、「大学はどのような対処をするのか」と暗に厳格な処分を求めてくる。最近の大学では、教育よりも、「コンプライアンス」が重要なので、被疑者や被告人の段階で学生を退学処分にしてしまう。つまり、有罪が確定する前に、大学が有罪判決を下してしまうのである。
彼らがきちんと裁判を受けた上で有罪であれば、刑罰が科せられるべきである。しかし、マスコミは、刑罰が下される前に袋だたきにして、社会的制裁を加える。大学は、問答無用で退学にする。社会人であれば懲戒免職にする。
(by浜井浩一氏)

学生達の行為が不適切であることに違いはない。
しかし、それが「犯罪行為」であったか否かについては、十二分に吟味する必要がある。
容疑が確定するどころか、起訴される以前に一方的な処分を下すのは、それこそ人権侵害と言っても過言ではない。
被害者とされた女子学生への「配慮」は当然であるが、被疑者とされた学生やその関係者にも守られるべき人権というものがある。
昨年度まで京教大教員だった後輩の研究室に取材許可も取らずに押しかけ、非公式のやりとりの一部を揚げ足取りよろしく掲載して大学の対応を批判した京都新聞の某記者は、お膝元の地裁が下した今回の判決に対してはダンマリを決め込んでいるようである。
逮捕当日、被疑者学生の実名や写真、逮捕の瞬間映像などを流し続けた古舘伊知郎を擁する報道ステーションは、一昨年6月の不起訴処分を「10秒」ほど報じたが、おそらく今回の判決については扱われてすらないだろう。

自分の頭と身体で考える (PHP文庫)

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日本人は基本的で単純な論理を習っていないんですよ。たとえば宇宙には人間以外に人間のような生物がいるかいないか、などという話の時に、僕がいつも例で出すのは「筑波山にアゲハチョウはいるか」という話なんです。筑波山にアゲハチョウがいるということは、私が一匹捕まえてきて見せればいいんですけれど「筑波山にアゲハチョウはいない」ということは、そう簡単には言えないんですよ。
どういうことかというと、「どこどこに○○がいない」という言明は、「○○がいる」という言明とは、科学の上では等しくない、等価ではないということです。けれども、日本ではそんな単純なことを、誰も学校で教わってないんですよ。だから、「いる」という言明と「いない」という言明は、○と×のようなもので、どちらかが正しい、となるわけです。
(by養老孟司氏)

冤罪事件裁判の長期化を見るまでもなく、「なかった」ことの論証には「あった」ことの論証に倍する時間と手間、そして信念が必要となる。
犯罪行為が「あった」のか「なかった」のか。
その事実は、当事者以外の者には知る由もない。
故に、それを裁く立場の人間には最大限の配慮が求められるのである。
事件に関わりのない第三者は、言わずもがなである。

自分が暗黙のうちに、どんな馬鹿なことをやっているかということも理解していない人が多すぎる。だから、自分を「正しい」と思う人が増えてしまうんですよ。自分は悪いことなんかしたことないという顔をしているわけでしょう。冗談じゃない。大変な差別をして、大変な圧迫をしています。それが分かっていれば、多少は後ろめたいから、あんまり人をいじめないと思うのですがね。
(前掲書より抜粋)

事件後、学生達はメディアや大衆からのバッシングに晒され続け、停学や卒業取り消しなどの処分を受け、その人生設計も大きく狂ってしまった。
メディアの報道は、本当に「正義のため」になされたのであろうか。
大学側の対処は、本当に「学生のため」を思い「社会的責任」を痛感してのものであったのだろうか。

テレビの中の人たちは、テレビの問題点についてよくわかっている。おそらく私などよりもずっと明確に危機を認識しているはずだ。改善策についても、良い知恵を持っているに違いない。
が、彼らは、わかっていても、それを実行に移すことができない。なぜなら、都立の半端進学校に通う高校二年生にとって、火のついた吸殻に正面から立ち向かうことが、停学覚悟の冒険であったのと同じように、テレビを作っている人たちにとっても、自分たちの職場にある破滅の予兆を告発することは、職を辞する覚悟が無いとできない革命的行動だからだ。(…)
オープンな市場でオープンな商品を扱っている企業は、商品の流通に促される形で、組織の構造をオープンに作りかえることができる。引き比べて、情報を扱う企業は、どうしてもクローズドになる。情報自体が、脅迫的で、因習的で、感情的で、クローズドで、謀略的な商品だからだ。
(2011年7月22日 小田嶋隆のア・ピース・オブ警句「なでしこに群がったテレビの人たちの明日」より抜粋)

過去の反省や謝罪をせずに、いつの間にか責任をどこかに転嫁して自らを正当化するのは、情報を扱う組織の常套手段である。
しかし、自らの誤謬を正すことを忌避した「つけ」は、必ず自らに返ってくることを肝に銘じる必要がある。