メディアの不誠実

moriyasu11232010-06-14

『割りばし事件報道にBPO勧告 長い戦いに「一応」の区切り』
 上尾中央総合病院(耳鼻科) 根本英樹
 日本大学通信教育部法学部准教授 根本晋一
私たちは、1999年7月に起きた「杏林大割りばし事件」の時の担当医とその実兄です。本件は、男児が割りばしを口にくわえて転び、その割りばしが脳に達して亡くなった不幸な事故です。救急車で運ばれた男児の初療をし、診療の過失の有無が問われました。一連の訴訟では無罪、請求棄却となり、担当医に過失がないことが認められました。
これに関連して放送倫理・番組向上機構(BPO)は2009年10月末、TBS「みのもんたの朝ズバッ!」の本件関連報道に対し、「重大な放送倫理違反」を勧告しました。
本稿では、その経緯を紹介します。
この事件は、発生当時から様々な報道がされましたが、その内容は例外なく担当医の非難でした。とりわけ担当医批判に熱心だったのが、ある女性ジャーナリストと、このジャーナリストと深く接していたTBSでした。
ちなみに、このジャーナリストは担当医やその親族、弁護人を一度も取材していません。捜査記録を見る前から思い込みと憶測で架空の事実をつくり、担当医を中傷したのです。例えば、杏林大は患児死亡直後に異状死の届け出をしましたが、「本件は救急隊員の証言で発覚した」と、まるで同大が事故を隠蔽したかのような発言をしたほか、剖検所見を見ないと分からないはずなのに、「担当医に過失があるといってよいだろう」と断定しました。
TBSのある男性記者は、この女性ジャーナリストと連携して取材をしていました。男性記者も、「割りばしが脳に刺さったことを知っていたのではないか」「患児の両親は杏林大から謝罪がないとしているが、謝罪する考えはあるのか」など、杏林大に挑発的な取材依頼をしてきました。
杏林大は男性記者の取材事項に沿って回答しましたが、その後のTBSのニュース番組は、回答書の内容を一顧だにしない(回答した事実すら言わない)、遺族側の言い分に偏った内容でした(99年8月時点)。
私が書類送検された2000年7月、多くのテレビ局が匿名としたのに対し、TBSは実名を報道しました。TBSが執拗かつ不公平だったので、私の両親(父親は弁護士・元第二東京弁護士会人権擁護委員長・故人)は同年8月、BPOに人権侵犯救済を申し立てました。この際、BPOは解決の仲介をしましたが、TBSは申立人らの話を聞くだけで解決策を示しませんでした。
一方、女性ジャーナリストや市民団体関係者に対しては、05年に名誉毀損で提訴しました。結果は4件の訴訟のうち3件が和解、1件は敗訴。裁判所は和解の際に女性ジャーナリストに「今後は資料をよく調べてから十分注意して書くこと」という条件を付しました。
その後、刑事・民事訴訟で担当医の無罪や請求棄却が決定し、今度こそ正確に報道されると期待していたところ、TBSはまたも「みのもんたの朝ズバッ!」で私たちを取材せず、計2回(06年3月の刑事第一審判決時、08年2月の民事第一審判決時)、問題の女性ジャーナリストを専門家に招き、みの氏と2人で誹謗中傷を繰り広げました。
みの氏は、「(杏林は真面目に)取り組んでいないから、こういう事故が起きて(患児は)死んじゃったんじゃないか!杏林の姿勢を僕は疑う」「素人でも脳に損傷があると考える」などと発言し、女性ジャーナリストも、「この程度の医療水準で許されるのなら、真剣に頑張っている多くの医師はプライドを傷付けられる」などと語り、判決を読んでいるとは到底思えない、事実誤認の無責任トークを展開しました。
無実なのにまだ言うのかと、その執拗さと内容のずさんさに呆れ、私たちは09年5月に再びBPOに人権侵犯救済を申し立てました。BPOも今度は審理に乗り出しました。ところが、TBSは私たちの申し立てに対し、「医療機関には最善の注意を尽くしてもらいたいという思いで放送した」「客観的事実を超えた思いがあることが分かった」など、人権感覚に欠けた責任感のない答弁に終始しました。
半年間の審理の後、BPOはTBSに「重大な放送倫理違反」があることを認めました。この決定は、ADR裁判外紛争解決手続)としてのBPOの審理規定で最も責任が重い勧告です。これにより、私たちの社会的評価が直ちに回復するわけではありませんが、不正確な報道に反論する機会となり、その結果がBPOの記者会見という形で周知された意義は大きいでしょう。私たちは、マスコミとの長い苦しい戦いに「一応」の区切りをつけられました。理不尽な報道に疑問を呈して他界した亡父も喜んでいると思います。
(Nikkei Medical 2010年1月号)

新恭(あらたきょう)氏は、「これでいいのか石川議員手帳メモ誤報の後始末(5月17日)」と題して、マスメディアが自らの誤謬を通りいっぺんの訂正記事で末梢している不誠実な姿勢を批判している。
さらに5月26日には、この「割りばし事件」の担当医であった根本医師の恩師である長谷川誠氏(元・杏林大学耳鼻咽喉科教授)から上記の内容に賛同する旨のメールを受け取ったことが紹介されている。
マスメディアが正しく伝えていない「割りばし事件」とは一体何だったのか。

平成11年7月10日に、その不幸な出来事は起きた。
4歳の男の子が綿あめをくわえて走っていて前のめりに倒れた。その弾みで割りばしが男児の喉に突き刺さった。
男児は救急車で杏林大学救命救急センターに運ばれた。A医師はまず救命士からそれまでの経過を聞いた。
「転倒し割りばしがのどに刺さったが、こども自ら抜いたようだ」、「搬送中に一回、嘔吐した」という話だった。男児の意識ははっきりしていた。
A医師は男児の口の中を視診し、さらに傷を綿棒で触診した。割りばしは見当たらず、傷も小さくすでに血は止まっていた。周囲の変化もなかった。
このため、傷口を消毒し、抗生剤軟膏を塗ったうえ、抗生剤と抗炎症剤を処方し、2日後に来院するよう母親に告げた。
男児は翌日の午前6時ごろまでは大きな変化はなかったが、その後、容態が急変、杏林大学病院救命救急センターで午前9時過ぎ、亡くなった。
このあと、病院は割りばしの残存を疑ってCT検査をしたが、その有無は判明せず、異状死として警察に届け出た。
検視の結果、異物は発見されなかったが、司法解剖で初めて割りばしの破片が喉の奥から小脳まで深く突き刺さっていたことがわかった。
警視庁はA医師を業務上過失致死などの容疑で書類送検し、検察は在宅起訴した。両親は民事訴訟を起こした。(…)
この事件の刑事裁判は、2006年3月の第一審判決で、医師の過失を認めながらも死亡との因果関係を否定してA医師を無罪とした。2008年11月の第二審判決では、過失もなかったとし、全面的にA医師の主張が認められて無罪となった。
民事では、2008年2月の第一審、2009年4月の第二審ともに、A医師に過失はないとする判決が下された。
(2010年5月26日 永田町異聞「メディアの不誠実がつくる医療崩壊」より抜粋)

この経緯を「ど素人(byみのもんた後述)」の私がみる限り、担当医の処置に重大な過失があったとは思えない。
しかしマスメディア(特にTBS)は、この裁判過程で担当医の過失を印象づけるような報道を繰り返していたという。
そしてその急先鋒は、 いつもの彼らだったようである(嘆息)。

2008年2月13日の「みのもんたの朝ズバッ!」はその最も悪質な例といえる。民事の第一審で原告の請求が棄却された直後の放送である。
この放送内容については、A医師とその家族が名誉と信用を毀損され、精神的被害を被ったとして「放送倫理・番組向上機構」(BPO)に申し立てを行い、BPOは2009年10月30日、重大な放送倫理違反があると判断、TBSにしかるべき措置をとるよう勧告した。
筆者がこのBPO勧告の長文の資料を読んで感じたのは、反対意見を排し、一方的にターゲットを叩くという「みのもんたの朝ズバッ!」という番組の特徴が如実にあらわれていることである。
少なくとも裁判で争われているような問題の場合、コメンテーターの人選は、中立的であるか、対立する意見を有する複数の専門家や識者を並べるよう配慮して、公平なスタジオトークをするべきだ。
ところが、その日、この問題についてのゲストコメンテーターは、A医師から名誉毀損で提訴された経緯のある医療ジャーナリスト、油井香代子氏だった。
みのもんた氏は油井氏とこのような会話を続けた。
みの「ちょっと乱暴じゃないかと思う判決、原告の請求を棄却。さあいかがですか」
油井「一般的に考えてちょっと不思議だなと思う、そういう判決でしたね」「非常に厳しい救急医療の現場で頑張っているドクターたちのプライドを傷つけるんじゃないかと」
みの「私みたいな、ど素人が考えても『刺さっちゃったんです。怪我してる。ああ、この角度で、そういう状態で、脳に損傷ないのかな』、素人でも考えますよね」
本来ならここで、専門医の冷静な見解を聞かなければ、公平な報道とはいえない。
ところが、A医師が、みの氏の言う「ど素人でも考えつくあたりまえの治療」をしなかったかのような印象を視聴者に与えたまま終わっている。
頭蓋底は厚く硬い骨である。割り箸が貫通するとはふつう考えない。もしそんなことがあれば、脳幹部損傷ではほとんどの場合、即死か、助かっても高度の意識障害四肢麻痺が起こる。
A医師が診察したさい、この患児は高度の意識障害もなく四肢麻痺もなかった。
専門家の言葉を借りれば、この男児の場合、割りばしが脳幹部ではなく「頚静脈孔」を通って小脳を損傷したという、世界でも前例がないケースだった。
喉に割り箸が刺さって死にいたることもある。それが、この事件で初めて証明されたのである。
A医師の診察、治療は、当時の医学の常識から見て、通常の判断のもとにおこなわれたといえる。だからこそ、裁判所は過失なしと認めたのだ。
BPOの勧告を受け、みのもんた氏は番組内で、これまた通りいっぺんの謝罪をした。
しかし、ほんの一瞬で終わってしまう形ばかりの謝罪が視聴者の記憶に刻まれるとは思えない。A医師の人権と名誉はいぜん、毀損されたままといえるだろう。
(2010年5月26日 永田町異聞「メディアの不誠実がつくる医療崩壊」より抜粋)

実子を亡くしたご両親・ご親族の心中は、察するにあまりある。
しかし、被害者の「客観的事実を超えた思い(by TBS)」をどれほど慮ったとしても、「容疑者」とされた医師やその家族にも守られるべき「人権」があることに変わりはない。
マスメディアの象徴としての「古舘伊知郎的なもの」や「みのもんた的なもの」に対しては、過去にも批判の目を向けてきた。
もちろん、責任の全てをマスメディアや彼ら個人に帰するつもりは毛頭ない(だから「的なもの」と書いた)。
警察や検察のリーク情報のみをネタに、視聴者が食いつきそうな過激な事件として仕立て上げ、「容疑者」の実名や写真を公表し、逮捕の瞬間の映像などを流し続け、その報道に先導された「大衆」は犯人と確定したわけではない「容疑者」に対して「正義の鉄槌」を食らわせるがごとく激しいバッシングを展開する。
幾度となく、うんざりするほどに見せつけられてきた光景である。
もちろんその光景のなかに、我々自身が包含された社会全体としての「共犯関係」が存在していることは自明である。
しかし、自らの誤謬について一顧だにしないマスメディアの蛮行には、ひとこと苦言を呈しておく必要があるだろう(屁の突っ張りにもならないが…)。
根本医師の声明文にもあるように、BPOはTBSに「重大な放送倫理違反」があったことを認めており、しかもこの決定はBPOの審理規定で最も責任が重い勧告とされている。
TBSは、根本医師側の申し立てに対して「医療機関には最善の注意を尽くしてもらいたいという思いで放送した(by TBS)」などと嘯いているようだが、それならばまず自らが「最善の注意を尽くして報道する」という姿勢を見せるべきではないのか。
容疑者側を一度も取材していないという「やり方」は、果たして「最善の注意を尽くした報道」と呼べるのか。
「まず自分のやるべき事をやってから、やりたいことをやりなさい」
子ども達に、繰り返し言い続けている言葉である(込自戒)。

自分の頭と身体で考える (PHP文庫)

自分の頭と身体で考える (PHP文庫)

日本人は基本的で単純な論理を習っていないんですよ。たとえば宇宙には人間以外に人間のような生物がいるかいないか、などという話の時に、僕がいつも例で出すのは「筑波山にアゲハチョウはいるか」という話なんです。筑波山にアゲハチョウがいるということは、私が一匹捕まえてきて見せればいいんですけれど「筑波山にアゲハチョウはいない」ということは、そう簡単には言えないんですよ。
どういうことかというと、「どこどこに○○がいない」という言明は、「○○がいる」という言明とは、科学の上では等しくない、等価ではないということです。けれども、日本ではそんな単純なことを、誰も学校で教わってないんですよ。だから、「いる」という言明と「いない」という言明は、○と×のようなもので、どちらかが正しい、となるわけです。
(by養老孟司氏)

医療過誤(過失)」があったのか、なかったのか。
冤罪事件裁判の長期化を見るまでもなく、「なかった」ことの論証には「あった」ことの論証に倍する時間と手間と信念が必要となる。
確かに、割り箸は子どもの喉に刺さり、それを診察した医師が存在し、不幸にもその子どもは命を失った。
しかし「生命」というものが、まさに人智の及ばざるところにあるのもまた事実である。
故に、医療行為の妥当性や正当性を判断するための医療裁判というものが存在し、10年もの歳月を経て「過失なし」に結論したのである。
そのことを、マスメディアは重く受け止めるべきであろう。
新氏は、この「割りばし事件」が、この国の医療が崩れ始めるきっかけになっていると指摘する。
この事件は、「善意の医療行為」の是非について、捜査当局が刑事責任を問うという前例のない事態を引き起こした。
そしてマスメディアは、いつものようにさしたる検証もなく、警察や検察の発表を頼りに担当医を「悪」と決めつけ、センセーショナルな報道を繰り返していく。
報道に触れた一般大衆は、医療に対して不信感を抱き、それが医師と患者の関係を悪化させ、医療行為に多大なるリスクを感じた医師が次々と現場から去っていく。
結果、病院には医師が不足し、残った医師は激務を強いられて、慢性的に疲労した中での医療行為というリスクを背負わされる。
この「リスク」は、単に医療サイドが抱える「リスク」だけに終わらないのである。

自分が暗黙のうちに、どんな馬鹿なことをやっているかということも理解していない人が多すぎる。だから、自分を「正しい」と思う人が増えてしまうんですよ。自分は悪いことなんかしたことないという顔をしているわけでしょう。冗談じゃない。大変な差別をして、大変な圧迫をしています。それが分かっていれば、多少は後ろめたいから、あんまり人をいじめないと思うのですがね。
(前掲書より抜粋)

事件後、根本医師はメディアバッシングに晒され続け、大学での仕事にもプレッシャーを感じて病院を転じたが、大学で専門医資格を取るという人生設計は大きく狂ってしまった。
恩師である長谷川氏には、常に事件の担当医として周囲に見られ続けるという不安感や、10年もの長い間に受け続けた精神的なトラウマから少しでも逃れるため、耳鼻科をやめてほかの診療科に変わりたいと漏らしていたという。
マスメディアは、本当に「正義」のためにこの事件を報道したのだろうか。
あるいは何か別の、自らの欲望の赴くところに「正義」が転がっていたといったら言い過ぎだろうか。
人間は、誰しも自身の欲望と無縁ではいられないだろうし、同時にこの欲望それ自体は、正義や悪とは無関係の次元に存在する。
彼らに足りないのは、自分が逆の立場にあったときに、どのような状況に陥る可能性(危険性)があるのかということへのイマジネーションである。
『あらためてこの事件の事実を正確に知らせる番組をつくることが、テレビメディアの信頼を高めるうえでも大切なことであろう。決して、自らの間違いを正すことを恥と考えてはならない。(by新氏)』
自らの誤謬を正すことを忌避した「つけ」は、必ず自分に返ってくることを忘れてはならない。