自己責任論の欺瞞1

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

大佛次郎論壇賞湯浅誠氏「反貧困」が受賞
 第8回大佛次郎論壇賞朝日新聞社主催)は湯浅誠さんの「反貧困−『すべり台社会』からの脱出」(岩波新書)に決まった。湯浅さんは1969年生まれ。現在、「反貧困ネットワーク」事務局長。賞金200万円。贈呈式は09年1月28日、東京・日比谷の帝国ホテルで。
(12月14日 毎日新聞

湯浅誠氏は、武蔵高校から東大法学部〜同大学院法学政治学研究科博士課程に進学、大学院在学中の1995年からホームレス支援などに関わり、現在は反貧困ネットワークほか数多くのNPO団体の代表として東奔西走している。また、閣僚時代の竹中平蔵氏による「日本に絶対的な意味での貧困は存在しない」という発言に反論する論文を雑誌に掲載したことを契機に、著述や講演活動にも精力的に取り組んでいる。
湯浅氏の存在を始めて知ったのは2007年の9月。神保哲生氏と宮台真司氏がナビゲートするビデオニュースサイトで「貧困問題」を扱ったディスカッションを視聴したときであった。
その後、フリーターの赤木智弘氏が、右派・左派の論客をバッタバッタと論破した下記の書籍を読了し、遅まきながらこの問題の根深さに気づかされたという体たらくである(すまん)。
若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か

若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か

湯浅氏は、線の細い見た目の印象とは裏腹に、その言葉には強固な意志が感じられ、早晩「貧困問題」に関する運動のリーダーになるだろうと予想したが、この半年間は頻繁にメディアにも登場し、特に年末年始の「年越し派遣村」の村長として茶の間の有名人になった。
この問題に関しては、舛添厚生労働大臣が「(製造業の)日雇い派遣の原則禁止が望ましい」、河村官房長官が「企業は内部留保の活用を」とコメントするなど、国もいつになく敏感に反応している。年末年始の厚労省講堂開放などは、みえみえの選挙対策パフォーマンスという見方が妥当なところだが、貧困者の待遇改善に繋がるなら甘んじて歓迎すべきであろう。
しかし一方で、金融危機による派遣職員の大量首切りが始まり、貧困の問題は世論と逆行するように状況を悪化させている。また、秋葉原の無差別殺人事件に端を発した様々な暴行・強盗事件をきっかけとして、非正規雇用労働者の過酷な勤務状況も浮き彫りになってきている。
急な解雇で寮を追われ、ネットカフェで寝泊まりしながら職探しを続けたものの手元に一銭もなくなり、繁華街のゴミ箱をあさって餓えを凌ぎ、毛布一枚にくるまり公園のベンチで夜を明かす。
このような、憲法25条で保証されているはずの「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」すら保証されない人が数万人という単位で存在する一方、相変わらず「企業もグローバル経済の厳しい競争に生き残らなくてはならない」「企業も倒産するわけにはいかない」などという聞き飽きた常套句を無神経に並べる経営者や政治家も後を絶たない。
日本の大企業は、このような派遣労働者のお陰で大儲けしている。
トヨタを例に挙げるならば、2006年度の連結決算では、営業利益が前年と比較して19.2%多い2兆2386億8300万円と6年連続で過去最高を記録、さらに日本企業としては初の「営業利益2兆円超」を達成した。純利益は1兆6440億3200万円といずれも前年比10%以上の伸び率であった。
この、金庫の中にしまってあるはずの内部留保財務省データでは240兆円)は、一体どこに消えてしまったのか。直近の業績はたしかに悪化しているが、そのような超短期的な悪化が解雇理由になるのだろうか。真っ先に派遣労働者の大量解雇を行った大企業で、倒産の危機に瀕している会社はどれほどあるのか。
同じグローバル市場で競争している欧州の企業でも、例えばドイツの自動車メーカーであるダイムラー社は、従業員に給与を保障して一時帰休などで凌いでいる。欧州の企業より分厚い内部留保を持つトヨタやキャノンのような世界に冠たる「エクセレント」カンパニーが、「解雇」という最終最悪の合理化手段を避けられないはずがない。
件の主役とも言うべき竹中氏が、年末年始とテレビに出まくり、口角沫を飛ばしていた。
元旦のNHKスペシャル『激論2009』では、金子勝氏、山口二郎氏、斎藤貴男氏といった左派の論客を向こうに回して自己弁護に躍起になっていた。
竹中氏は得意のディベートスキルを駆使し、討論の場では常にすり替えと誤魔化しで応酬し、不利な立場からの逆転を仕掛けていた(目は泳いでいたが…)。市場原理主義の問題で攻め込まれると、「現実問題をどう克服するかという政策を議論しなければいけない」「犯人探しでなく…」などの論法で争点を巧妙にすり替えていた。これはディベートにおける詭弁のテクニックであり、まさに彼の上司であった小泉元首相お得意の常套手段とも言える。
「現実問題」が惹き起こされた原因は、過去の「失政」にあるのは自明である。
非正規労働の割合が増え、派遣切りが横行する残酷な格差社会が現実化したのは、構造改革路線によって労働法制の規制緩和が法制化された結果に他ならない。
国は、この路線の牽引者の一人であった中谷巌氏を見習い、従来の構造改革路線が誤りだったと明確に認め、早急に政策転換する必要がある。こうしている間も、派遣労働者が非人的な扱いを受けている状況は続いており、もはや待ったなしの状況にあるといえる。
貧困者のサポートを手がけるボランティアのもとには、以前から「通り魔になりたい」「みんな殺してやる」というような物騒なメールが多く寄せられていたらしく、秋葉原事件の報を聞いた時「ついにやったか…と感じた」と漏らしている人も少なくない。
製造業で寮生活を送る人は、一度派遣として働きはじめたら、過酷な労働条件で働き続けるか、それともホームレスになるかというギリギリの状況に追い込まれやすい。実際、派遣労働者は時給制のため、特に賃金の低い地方では、長時間の残業をしてやっと生活ができるだけの報酬を得ることができるのが実情だ。また、派遣先の都合で突然解雇されるのは日常茶飯事で、1年に数カ所の職場を転々とすることもままある。
さらに過酷な条件を強いられているのが「日雇い派遣」の人たちである。
毎夜メールで派遣先を提示され、翌朝指定の場所に集まる。1日ごとに職場が転々と変わる上に、翌日仕事にありつけるか分からないため毎日の予定も立てられない。ケガや病気をしたら収入が途絶え、簡単にホームレス化してしまう。
このような絶望的な雇用環境に追い込まれる背景には、派遣法の過度な規制緩和がある。86年の人材派遣法の施行当初は、非正規雇用の対象となる業種は限られていたが、99年の派遣法改正で原則無制限となり、04年に製造業も解禁となると、多くの企業がコスト削減のために正社員から派遣社員に置き換えるようになった。
このような労働市場規制緩和の一方で、国が生活保護や健康保険などのセーフティネット整備を怠ったため、派遣社員が非人間的な扱いを受けるケースが後を絶たない。
米国は別として、日本のような労働法制を容認するような国は、世界中探しても見あたらない。欧州や韓国でも、日本よりはるかに手厚く派遣労働者の保護措置を法的に義務付けている。
これは「毎日1000人が自殺に走る国がまともなはずがない」という清水康之氏(NPO法人ライフリンク代表)の主張にも通底する。
一億総中流社会と言われて久しい日本だが、すでにOECD諸国の中では、米国に次ぐ格差社会に変質している現実が明らかになってきている。米国流の新自由主義的な経済政策を導入し、民営化と自由化を進めた結果、米国同様に中流家庭が没落し、貧富の格差が拡がっていることは疑うべくもない。
しかし、相変わらず財界などを中心に「格差を容認しないと国力が落ちる」という理由から「貧困は自己責任」と主張する向きも根強い。
お茶の間を思考停止に陥れる天才みのもんたは、1月5日の「朝ズバ」の中でこう宣っている。
「(政府も)努力をしなければいけないでしょうけれど、派遣を切られたりとか、職が無いとか、と言う方たちも何か努力しなきゃいけないですよね。権利だけを主張して、住むところ、暖かいところ、食い物をって(言うけれど)、ハローワークの方も、仕事はあると言うんですよね。そんなにあるんだったら、とりあえず仕事をしたらどうなのかと思うことがある」
要するに、派遣村の路上生活者たちは、仕事をする意欲のない怠け者だと言っているのである。
みのもんたは、昨今の有効求人倍率を知っているのだろうか。
昨年11月は0.76倍で、100人の求職者のうち24人は確実にあぶれることが分かる。北海道では0.43倍で、12月は0.4倍を切った。また、この数字は職安で受け付けた求職者数が分母になっていて、実際には職探しを断念する人が多いため、失業状況はずっと深刻だと言われている。
確かにハローワークには求職が来ているが、板金とか、経理とか、フォークリフト運転など、技能や資格や免許を必要とするものが多く、そうした条件の求職が求人倍率の分子にプラスされているのである。
みのもんたは、この現実を正しく理解しているのだろうか。
日本が思想信条や言論の自由を保障された国である以上、彼個人が何を考え何を言おうが自由であるが、その発言の場は公共の電波を使ったテレビ放送の報道番組である。
放送法第3条「放送番組の編集に関する通則規定」には「報道は事実をまげないですること」とある。彼の誹謗発言は、事実を歪曲し、失業者や路上生活者を侮辱し、その基本的人権を踏みにじるものではないのか。
こうした風潮に対して湯浅氏は、貧困に陥った人には「教育課程からの排除(親世代の貧困)」、「企業福祉からの排除(雇用ネットからの排除)」、「家庭福祉からの排除(頼れる親類縁者がいない)」、「公的福祉からの排除(生活保護行政からの排除)」、そして自分自身を大切に思えない状態にまで追い込まれる「自分自身からの排除」という5つの排除が複合的に作用しているため、そこから立ち直ることが極めて困難であるとしたうえで、「(私たちは)労働基準法生活保護法、そして憲法。それらの基本的な法を守ってもらいたいと言っているに過ぎない。普通に暮らせる社会にしたいと願っているに過ぎない。それをも「甘え」や「怠惰」の証だと言って私たちの社会の“溜め”を奪い続けるのであれば、いつか必ず社会の地盤沈下となって我が身に返って来るであろう」と述べている。
湯浅氏のいう“溜め”とは、端的に言うと「溜め池」のことである。大きな溜め池を持っていれば、多少雨が降らなくても慌てることはない。逆に溜め池が小さければ、少々日照りが続くだけで田畑が干上がり、深刻なダメージを受けてしまう。つまり“溜め”とは、外界からの衝撃を吸収してくれるクッションであり、かつそこからエネルギーを汲み出す諸力の源泉なのである。
今、困っている人を支えるはずの、個人や社会の“溜め池”が干からびつつある。
そしてこの問題は、我々一人ひとりに突きつけらているのである。

なぜ貧困が「あってはならない」のか。それは貧困状態にある人たちが「保護に値する」かわいそうで、立派な人たちだからではない。貧困状態にまで追い込まれた人たちの中には、立派な人もいれば、立派でない人もいる。それは、資産家の中に立派な人もいれば、唾棄すべき人間がいるのと同じだ。立派でもなく、かわいくもない人たちは「保護に値しない」のなら、それはもう人権ではない。生を値踏みするすべきではない。貧困が「あってはならない」のは、それが社会全体の弱体化の証だからに他ならない。
(前掲書「反貧困」より抜粋)

貧困が大量に生み出されるような社会は弱い。ちょうど我々が、弱いものいじめをする人を「強い人間」とは思わないのと同じである。
貧困の最大の特徴は「見えない」ことであり、最大の敵は「無関心」であると湯浅氏は言う。軍事力やGDPでは評価できない、ほんとうに強い社会を目指すために、この問題に関する「関心」だけは常に持ち続けたいと思う。