体育・スポーツの今日的課題(その2)

moriyasu11232011-10-24

前回からの続きで、「体育・スポーツの今日的課題」について。
研究プロジェクトの1年目は、これまでの嘉納治五郎氏(以下、嘉納)に関連する主な著作や研究論文等をレビューしながら、嘉納の柔道観および体育・スポーツ観の特徴に迫りつつ、国民体育やオリンピック(競技スポーツ)に対する考え方を明らかにするとともに、それらが日本体育協会(日体協)創成期における体育・スポーツをめぐる課題とどのように結びついているのかについて探ろうとするものであったといえる。
その議論の中で、班員から「第一次史料の検証が不十分のままに行われていく論議は、歴史的な実態との乖離を招く危険性がある」との指摘があった。
これに対して、研究班長菊幸一氏は、ミルズ(Charles Wright Mills)の「社会学的想像力(sociological imagination)」を援用しつつ、「“事実”は必ず理論負荷性を持っており、その理論やフレームが使える根拠を明示することが重要」であり、「これを第一次史料によって担保しようとする歴史学的な帰納的方法論だけでなく、理論を前提とした演繹的方法論によって担保しようとする社会科学の認識論的視点からの“想像力”が極めて重要」であること、したがって「今日的な課題意識の明示と本研究の目的に対する我々の共通理解を都度確認しながら、歴史的文脈の捉え方およびとその根拠や理論に対して、帰納的、あるいは演繹的、双方の方法論から多様にアプローチされるべき」と返答された。

社会学的想像力

社会学的想像力

こんにち、人びとはしばしば自分たちの私的な生活には、一連の罠が仕掛けられていると感じている。(…)というのは、普通の人間が自分で直接知っていること、あるいは自分でやってみようとすることは、それぞれの個人的な生活環境によって制約されているし、かれらの意志や勢力の及ぶ範囲は、職場や家庭や近隣のような身近なところに、いわばクローズ・アップ・シーンだけに限られていて、そのほかのシーンでは、かれらは代役として動きまわり、観客の立場にとどまっているからである。自分たちの最も身近な日常生活を超越するような野望や脅威に気付けば気付くほど、かれらはいよいよ罠にかけられていると感じるようになるであろう。
人が罠に掛けられているという感じをもつのは、自分の意志でしているつもりの生活が、実は個人の力ではいかんともしがたい全体社会の構造そのものに生じる、さまざまの変化によって支配されているからである。すなわち、個々の人びとの成功と失敗にかんする事実が、同時に現代史の事実であるといえるのである。一つの社会が産業化されるとき、農民は労働者となり、封建領主は破産したり企業家になったりする。(…)戦争がおこると、保険のセールスマンはロケット発射兵になり、商店の店員はレーダー兵になり、妻はひとり暮らしを始め、子供は父親なしで育っていく。一人の人間の生活と、一つの社会の歴史とは、両者をともに理解することなしには、そのどちらの一つをも理解することができない。
(byミルズ氏)

状況の判断において重要なのは、「自分が何をしらないか」ということに対する「自覚」である。
どんな専門家の知見をもってしても、事実を知り尽くすということなどできはしない。
所謂「専門家」と呼ばれる人間がしばしば陥るピットフォールは、「素人」の知らない事情に精通していることや、一次資料(現場)にあたってきたという経験の蓄積が、状況判断や将来に対する推論において「素人」に卓越しているということを意味していないどころか、その専門性ゆえにしばしば固定観念に囚われたり、知見によるバイアスによって判断を誤る危険性を孕んでいることに対する「自覚の欠如」である(込自戒)。
体育・スポーツの今日的課題を明らかにするためには、これまでの歴史をいわば文化相対主義的な視点で捉えつつ、そこに「社会学的想像力(byミルズ)」を働かせる必要があるだろう。
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日本の軍国主義化と軌を一にする「規律訓練型/兵式体操/スウェーデン体操」に対抗して、国民目線からの「教育/普通体操/遊戯(スポーツ)」の重要性を「国民体育」として普及させようとした嘉納の考え方は、この対立や対抗が意味する今日の我が国の体育・スポーツ状況の理解なくしては十分に理解し得ないし、これに対する今日の組織的状況の評価も十分にはなし得ない。
なぜなら、嘉納が対抗しようとした「規律訓練型の体育・スポーツ」は、今なお根強くこの国の「ヒドゥン(隠れた)カリキュラム」ともいうべき効力を発揮し続けているからである。
このことは、日本のみならず世界の体育学やスポーツ科学にとって、まさに懸案であり続けてきた「体育」と「スポーツ」という両者の概念理解に関わる問題でもある。
本稿で用いている「体育・スポーツ」という併記も、両者の概念区分の曖昧性を象徴しているといえるが、少なくとも斯界では、両者を何らかの点で区別すべきと考えるのが多数派であり、事実、両者の区分原理が様々に提案されている。

第1は、体育とスポーツとを、一方が他方に包含される「包摂関係」において区別しようとする提案である。ここには、体育を上位概念とし、スポーツを体育の手段の一部と言うことで下位概念におく立場と、逆にスポーツが教育を超えた文化的・社会的事象であるという理由でこれを上位概念とし、教育の一部である体育を下位概念とする立場が並立している。第2は、「目的」を区分原理とする提案で、例えば、体育は教育的効果を目的として実施されるが、スポーツは自己目的的な活動である、とする議論がそれである。第3は、学校の内か外かを区分原理とする提案で、学校内で実施される身体活動が「体育」で、学校以外の一般社会で実施される身体活動が「スポーツ」である、とするのである。
(佐藤臣彦『「体育・スポーツ」から「体育」と「スポーツ」への概念的分離独立 ─スポーツ科学体系化への重点としての概念的検討─』体育の科学41巻10号(1991)より抜粋)

佐藤氏は、これらの区分原理に基づく議論では、「体育」と「スポーツ」の両概念を論理的に区別することはできないと前提としたうえで、体育概念の教育論的考察およびスポーツ概念の文化論的考察を踏まえて、両者は全く別種の「隔離概念」としてそれぞれ独自・別途に考究されなければならないと結論する。

スポーツ基本法(抜粋)』
スポーツは、世界共通の人類の文化である。
スポーツは、心身の健全な発達、健康及び体力の保持増進、精神的な充足感の獲得、自律心その他の精神の涵(かん)養等のために個人又は集団で行われる運動競技その他の身体活動であり、今日、国民が生涯にわたり心身ともに健康で文化的な生活を営む上で不可欠のものとなっている。

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スポーツ宣言日本 〜21世紀におけるスポーツの使命〜(抜粋)』
スポーツは、自発的な運動の楽しみを基調とする人類共通の文化である。スポーツのこの文化的特性が十分に尊重されるとき、個人的にも社会的にもその豊かな意義と価値を望むことができる。とりわけ、現代社会におけるスポーツは、暮らしの中の楽しみとして、青少年の教育として、人々の交流を促し健康を維持増進するものとして、更には生きがいとして、多くの人々に親しまれている。スポーツは、幸福を追求し健康で文化的な生活を営む上で不可欠なものとなったのである。

スポーツ基本法における「スポーツは…のために行われ…」という定義は、スポーツ振興法における「体育」的な定義と同様の「スポーツ手段論」のとらえ方になっており、それは「スポーツは世界共通の人類の“文化”である」という言葉と矛盾するだけでなく、「スポーツの自由・自治・自立」にとっても望ましいことではない、というスポーツ目的論的立場からの批判は首肯できるものである。
しかし、この常に批判の矢面に立つ「体育」が、長らく、そして深くこの国に根づいて(しまって)いる「広義の文化」とも言うべきものであることや、国がこのような前文の作成を余儀なくされた背景にも思い巡らせる必要があるだろう。
すなわち、近代国民国家と体育・スポーツというマクロな視点から、特に戦後の体育やスポーツの自己反省の欠如という歴史社会的な構造的限界を指摘することが必要となるのである。
したがって、嘉納による「体育」や「スポーツ」に対する思想を比較対照しながら、教育というカテゴリーにおける体育・スポーツとインター・ナショナルな競技スポーツの葛藤や矛盾を明らかにするとともに、これに対応する組織的な在り方が歴史社会的にみてどのように評価されるのかを明らかにすることが、まずもっての課題となる。
今日的かつ喫緊の課題となっている「体育 or スポーツ」という名称問題についても、このようなレベルでの議論の延長線上において問われるべきものなのである。
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嘉納の「国民体育」振興について、「競争を取り入れたほうが興味をもつので普及しやすいと考えられたがゆえに、オリンピック大会に参加することで国民体育の普及を図ることができる」と解釈されるという見解は、競技スポーツにおける競技力向上とその普及・振興とを矛盾なく支えるという今日に通じる基本的な考え方を示したという点で貴重である。
しかしながら、依然として競争の結果として頂点をめざすことと国民体育の普及とが具体的にどのような関係や矛盾を伴うものであり、それは調和のとれた健全な国民体育の普及と競技スポーツの発展をもたらすものであるのかについては明らかにされていない。
嘉納による柔道の普及や発展に対する考え方は、競技化する柔道のさまざまな弊害を克服しながら、理想とする柔道を体現し、これを国民体育と結びつける一つの方向性を示そうとしたものといえるが、裏を返せば、すでに嘉納の時代においても競技の高度化とその二極化の弊害を課題としていたとも考えられる。
このことは、我が国以上にこの二極化が進んでいるアジアの隣国が抱える問題でもある。

ある高校野球関係者から聞いた話によると、このところ韓国や台湾のメディアによる甲子園大会ほかの取材が急増しており、今年6月には韓国の国家人権委員会の調査団までもが視察に訪れたとのこと。
彼の国の「児童生徒の勉強をする権利を強化する法律」改正を見据えた視察であるらしいが、オリンピックで多くのメダルを獲得する国においても、スポーツを取り巻く問題の根は浅からぬところにあるのである。
(2010年8月16日 拙稿「発掘・育成のヒント」より抜粋)

生涯スポーツ(大衆化)」と「競技力向上(高度化)」を両輪とするスポーツ振興が叫ばれて久しいが、我が国においても、一方では日体協と日本オリンピック委員会JOC)の再統合論を展開しながら、他方で国民体育大会の競技化批判がなされるなど、その矛盾や錯綜に無自覚な批判が散見され、スポーツの大衆化と高度化とをどのように関連づけていくべきか(または切り離すべきか)についての本質的な検討はほとんどなされていないのが現状である。
したがって、日体協創成期において国民体育の普及とオリンピック参加が何故に「楽観的に」結び付けられたのかについて、その後の嘉納の考え方の変遷を追いつつ、両者の関係における組織的対応の在り方やその発展と矛盾をどのように捉えるべきかという課題の今日性を考えてみる必要もあるだろう。
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日本国内における柔術のスタンダード化(柔道:ナショナル化)が、三育主義、合理(科学)主義、功利主義等の近代的思考/枠組によって進められたことは、一方でその後の柔道の欧米への普及(インター・ナショナル化≠グローバル化)を可能にしたが、他方で柔道の教育の範疇を超えたスポーツ化(娯楽化と勝利至上主義化)を余儀なくされ、結果的に「ローカル性の喪失」という現象に見舞われたともいえる。
しかしながら、このような柔道の普及にみる可能性と限界は、柔道を単に体育やスポーツの範疇に留めるのではなく、社会に対して果たし得る「柔道」の意義や価値を一つの社会的なミッションとしてとらえようとする考え方を提供することにも通じるものであり、体育やスポーツの概念への応用可能性を含めた、今日のグローバル社会におけるスポーツミッションの重要性とも関連する歴史社会的視点を提供しているように思われる。
したがって、嘉納が取り組んだ<柔術−柔道>の海外普及における身体的スタンダードの社会的性格とその可能性及び限界を<ローカリティ>−<ナショナリティ>−<インター・ナショナリティ>の概念から整理しつつ、「ナショナリズムを超越してローカリズムの重要性をむしろ際立たせる」という今日的な意味でのグローバリズムとの違いを明らかにすることが求められるといえるだろう。
その上で、「講道館全日本柔道連盟」、「日体協:JOC」というそれぞれの組織における歴史的文脈のみならず、その関係の同質性にも注目しながら、互いに一線を画す組織体であるべきか否かを含めて、その理念や方向性および組織の在り方に関する提言資料を示す必要がある。

教養については、学校や学歴がどうだということとは全然関係ないよ、と思います。今の現実と、昔の現実をよく考えあわせられる人、そういう人がいたら、それが教養のある人です。(…)
今の知識人がダメなのは、どちらか一方がないからです。一方しかない、ということは、それじゃ全部もない、というふうになります。
知識がある人はたくさんいるし、専門家というのもたくさんいます。その人はある分野についてよく知っていることはわかりますが、それは、日本の社会の全体や大多数がどうなっていて、どう展開し、どうなっていくかをわかる人でしょうか。昔はどうだったのかということについて、その場にいたに近いぐらい正確に言える人でしょうか。
今と昔をできるだけ正確に心得ている人を探せといったら、そんなにいないと思います。だから、教養のある人というのは、なかなかいません。
だからべつに東京大学の先生だから、教養があるかというとそれは全然違うことなんです。
東大の先生は、知識はあるに決まっているわけで、それは「専門的に」あるということです。
教養があることとは、違います。
まず、今のことを知ることです。そして、専門的なことをその場にいるかのように知ることです。
えらい人が埋葬されるときに生き埋めになっている人がいた時代に自分を置いて、その場にいたらどう思うかということと、それから今の場所から、「ひどく野蛮なことをやっていたものだ」ということの両方がちゃんと見えるということが必要なのです。
ほぼ日刊イトイ新聞吉本隆明のふたつの目 ─ほんとうの考えを探し出す─(距離を超えた時代。)」より抜粋)

スポーツ基本法とスポーツ宣言日本のスポーツ定義に共通しているのは、「世界共通(人類共通)の文化」と「健康で文化的な生活を営む上で不可欠のもの」という記述である。
確かに、スポーツを「文化」と位置づけて、「健康で文化的な生活を営む上で不可欠のもの」という共通了解から出発することは、体育・スポーツの「内部」における二元論的錯綜を超克するための端緒となるだろう。
しかしながら、体育・スポーツの「外部」においては、我々が不可欠なものと位置づけている「スポーツ」に依拠することなく「健康」で「文化的」に暮らしている御仁は数多おられる(し、スポーツをしているが故にストレスフルな毎日を過ごしている御仁も…)という事実についても十二分に認識しておく必要がある。
畢竟、吉本氏の言う「今の現実と、昔の現実をよく考えあわせる」ことはもちろん、「自分に見えている世界(現実)と、他人に見えているであろう世界(現実)をよく考えあわせる」ということなしには、国民の体力も、地域スポーツクラブの定着も、オリンピックのメダル獲得も、招致活動への支持率も…なんもかんも、およそ斯界が望む方向には向かわないと思われるのである。