相対主義と普遍主義

moriyasu11232012-04-10

認知心理学者の佐伯胖氏は、「知識を吸収し面白いことを頭に入れる」という古い学習観は1970 年代に終焉を迎えており、近年は「文化の中で生きて働くということの中に学習がある」という考え方に変化していると指摘する。
これは認知科学における「状況論革命」ともいわれており、「学習科学」という新分野が創設されるなど、精力的に研究が進められているようである。
この「学習科学」は、人類学や社会学の知見をもとに、学習を社会的・文化的な文脈の中で考えるというものであるという。
佐伯氏がよく引く例に、マイケル・コール(Michael Cole)が行った「クペル族研究」の成果がある。
1960年代後半のアメリカでは、所謂開発途上国に対して「我々の優れた知識や文化を伝えてあげて、学校も作ってあげて、西欧社会の高度な科学技術を普及させてあげよう」という「上から目線」の使命感をもっており、世界中に心理学や教育学の研究者を派遣する動きが盛んであったという。
まさに「お節介大国」の真骨頂である(援助と称した「草刈り場」の検索を兼ねていたのは言うまでもないが…)。
その一環として、アフリカ原住民の知能測定を実施する。

【実験1】
3つの箱があって、すべてのフタを閉めておく。
A のフタを開けて、ボタンを押すとビー玉がでる。
C のフタだけをあけてボタンを押すと、鉄の玉がでてくる。
B のフタだけをあけて、ビー玉を入れるとキャンディが出るが、鉄の玉を入れても何も出ないことを試してみせる。
最後にすべてのフタを閉めて「フタをあけてキャンディを取り出すにはどうしたらよいか」を問う。

クペル族の大人達は、キャンディを取り出すために箱を押したり振ったりするが、最初の2つの経験を用いようとはしない。
そこで測定者は、クペル族の大人は西欧社会で5歳程度の子どもができる論理的な思考ができない、すなわち「知能が低い」と結論する。
しかし、下記のような問題を出題すると、彼らは難なく正答する。

【実験2】
「タテ縞のマッチ箱には白い鍵が入っています」といって見せてからしまう。
「ヨコ縞のマッチ箱には黒い鍵が入っています」といって見せてからしまう。
「金庫は黒い鍵でしか開きません」といって試してみせる。
その後で「マッチ箱から鍵を取り出して金庫を開けるにはどうすればよいか」と問う。

そもそもクペル族の大人達は、土地の権利をめぐる争いを仲裁したり、様々な道具や生産物を作成しながら生活しており、論理的思考ができないはずがない。
鍵をマッチ箱に入れるという行為は、実は彼らの文化の中で日常的に行われているものであり、問われた内容に馴染みがあれば論理的な推論が可能になるというわけである。
つまり推論の能力は、その地域の文化と深く強く結びついていると考えるべきなのである。
『「わかる」というのは、「分かること」の意味がわかること(by佐伯氏)』
コールは、彼らの論理的思考が自分たちが考えているものと根源的に異なるのではないかと考えるが、その端緒はアレクサンドル・ルリア(Alexander Romanovich Luria)のところへ留学していた時のエピソードにあるようだ。
ルリアは、中央アジアの農民の知的能力の調査において、シェルという名の60 歳の非識字者に、『「ハンマー」「のこぎり」「丸太」「なた」の4 つの言葉を何らかの形で分類する』という問題を出す。
以下、ルリアとシェルのやり取り。

シェル:この4 つは、みんないっしょにできる!「のこぎり」は「丸太」をひくのに使うし、「なた」は叩き切るのに使うけれど、よく切るためには「ハンマー」が必要だ! だからどれも取り除くことはできない。そこには余分なものはない。全部が1つのまとまりになる。
ルリア:ある人は「丸太」はここに似つかわしくないと言っていますが…
シェル:なぜその人はそんなことをしたのかね? 似ていないものが置かれているというふうに言って、それをワキにどけたら間違いを犯すことになるよ。それらはすべて「丸太」にとって必要なんだから!だから「丸太」がなくなるのは変じゃないか。

私たちは、のこぎり、鉈、ハンマーが「道具」で、丸太は「材料」であることを当たり前の「概念」だと考えているが、彼らは、日々の具体的な活動の中に「役割」や「意味」があり、それらは相互に関連しあっていると考える。
私たちは、これらを整理したり、保管したり、検索したり、売買するなどの文化に即して「道具」や「材料」という概念を生み出したが、クペル族は「道具」と「材料」は、常に身の回りにあって渾然一体をなすのものと考えているのである。
「道具」や「材料」などの抽象的なカテゴライズが有効なのは、西欧文化の中にそのような概念を扱う商業や産業などの活動があるからに過ぎない。
・ ・ ・
私たちは、言葉の正確な意味や定義を知らなくても、それを様々な場面や事物、そして他者との会話に用いることができる。
例えば「ゲーム」という言葉。
球技、カード遊び、投資、そして人生など、様々領域や文脈で「ゲーム」という言葉が用いられるが、私たちができるのは「ゲーム」という言葉の「本質」を見出すことではなく、その言葉が様々な場面で使用されているという事実を指摘することだけである。
一方で、「ゲーム」という言葉は、何にでも適用できるわけではない。
例えば、粒子と反粒子が衝突してエネルギーや他の粒子に変換される現象を「ゲーム」とは呼ばないし、重病患者の手術をしている医師や回復を祈っている家族の行為を「ゲーム」と呼ぶことには誰しも拒否反応を示すだろう。
「ゲーム」という言葉は、多様に用いられるものの共通の本質を持つものとまではいえない。しかし、明確な境界線は存在しないとはいえ、おおよそ妥当と思われている使用領域があるとはいえそうである。
ヴィトゲンシュタイン(Ludwig J. J. Wittgenstein)は、このように物事が似ている/似ていないということで、家族のように部分部分で関係しあったまとまりがあると考えることを「家族的類似性(family resemblance)」という言葉で表現した。
無論、すべての概念(言葉)の用法が、家族的類似性によって決定されるわけではない。
精密科学においては、概念(言葉)が用いられる領域を家族的類似性などという曖昧な繋がりで規定することはできない。
現実世界にある事象を言語化した概念(言葉)は、多分に「多義性・曖昧性」を有しているので、客観的で反証可能性もった所謂「科学研究」を行うためには「操作的定義(operational definition)」が必要となる。
しかし、現実の社会を見渡せば、本質や定義と呼べるような明確な基礎をもった概念(言葉)や記号はごく僅かであり、その大多数は家族的類似性に基づく広がりを持っているといえる。
私たちは、そういう社会で他者と交錯し、協力し、生産し、消費しながら暮らしているがゆえに、社会を理解する上で「家族的類似性」という観点は極めて有意義なものとなりうるのである。
そしてそのことは、私たち人間が社会や文化の中で思考する生き物であり、その歴史はまさに文化に根ざした思考を高めてきた(あるいは衰退させてきた)というプロセスに生きていることを顕在化させるのである。

文化人類学的なものの見方・考え方を身につけることは、他の学問とはすこし異なるところがあります。文化人類学的なものの見方・考え方は、あるひとつの社会(ある時代・ある文化)における当たり前の見方・考え方を当たり前ではなくすることを目的としています。いいかえれば、個別の文化としての自文化の相対化です。
そして、それを可能にしているのは、文化人類学に含まれている、ある意味では分裂した二つの視点です。すなわち、人類学は、人類の各社会(各文化・各時代)はそれぞれ独自だけれどもそれぞれ合理的なものの見方をもっていて、その合理性の違いは優劣ではないという視点(文化相対主義的視点)と、人類の各文化には、数万年かけて人間が人間になった過程を共有していることからくる、普遍的な共通性があるという視点(人類文化の普遍性という視点)という二つの視点です。
この相対主義と普遍主義は対立しているように言われますが、現代の人類学では対立するものではありません。というのも、人類学が目指しているのは、個別文化としての自文化の相対化を通して、人類文化の普遍性を探ることだからです。(…)私がそれを説明するときによく挙げる例が、私たちの社会に見られる、外から帰宅したときすぐに手を洗うという習慣です。(…)大貫恵美子さんという、アメリカ合衆国で活躍している日本人の文化人類学者は、『日本人の病気観』(岩波書店、1985年)という本の中で、外から帰宅したときに手を洗うという習慣について、「日本人一般に受け入れられている説明法は、「外にはたくさんばい菌がいるからだ」というものだ」と書いています。つまり、そのような習慣を自分たちでは、「黴菌=病原菌」という科学的用語を使って説明して、あたかもその習慣には合理的な根拠があるかのように思っているわけです。
しかし、この習慣は、ヨーロッパやアメリカやアフリカなど、他の文化にはほとんど見られない珍しい習慣なのです。他の文化にはないと聞かされても、それは日本人には衛生観念が発達している証拠と思ってしまう人もいるでしょう。少なくとも、その行為がいわゆる「迷信」と考えられている観念によるものとは思わないでしょう。「迷信」というラベリング=レッテル貼りは、他者や他の文化に用いるもので、自分たちのやっていることを「迷信」とは呼ばないものです。しかし、衛生学的に見れば、「外にはバイキンがたくさんいるから帰宅後すぐ手を洗う」ということに合理的な根拠はありません。というのも、バイキンの数は家の外と内では変わらないからです(というより、バイキンには家の外と内の区別はできません)。そうなると、帰宅後すぐ手を洗うという、私たちには当たり前のことが実は不思議なことなのだと思えてきます。
そのような習慣に合理的根拠がないとなると、近代人のもうひとつの反応は、そんな「迷信」による習慣はやめてしまえというものです。こういった態度もよく見られるものです(こんなことをしているのは日本だけだ、いますぐやめるべきだといったことをテレビのコメンテーターはよく言います)。では、この「帰宅後の手洗い」という習慣は、捨て去るべき迷信なのでしょうか。
そのことを考えるために、私たちが迷信というレッテルを貼るような他者の(異文化の)習慣と並べてみましょう。とりあげるのは、イングランドをキャラバン・カー(彼らは「トレーラー」と呼ぶ。以前は馬車)で移動しているジプシーと呼ばれている人々の慣習です。(…)
ジュディス・オークリーによれば、イングランドのジプシーたちは、ジプシーの言語であるロマニ語でモカーディという《穢れ》の概念をもっています。これは、たんなる汚れという概念(ロマニ語でチクリ)とは区別されていて、からだの内部にきたないものが入る状態を指す概念です。チクリの状態、たとえば服やからだの表面がほこりまみれであったり、油よごれがついていたりしても、身体の内部が清浄なら何の害もないとされますが、モカーディの状態は端的に危険で害のある状態とされます。では、どうなるとモカーディとなるのかというと、オークリーのまとめによれば、身体から出たものや剥がれ落ちたものが、身体の内部に再び入ってくるような場合です。つまり、垢や剥がれたかさぶたや抜けた髪の毛、そして排泄物が口などのからだの穴を通して、からだの中に入ってくることがあれば、非常に危険な穢れた状態となるとされ、考えるだけでもおぞましいこととされるのです。(…)
したがって、ジプシーの人々にとって、まずなによりも、身体の中に入るものを洗うことと身体の外部を洗うことの区別・分離が大切になります。体を洗う桶や洗濯用の桶は、彼らの住居である「トレーラー」の外に置かれ、食器洗いの桶はトレーラーの中に置かれています。食べ物や食器、それにそれを拭くためのふきんを洗う桶と場所は、手や他の体の部分や衣類を洗う桶と場所とは区別し切り離しておかなければならないのです。(…)
このような洗濯と炊事の区分にも現れているように、身体の内部と外部の象徴的区分は、空間的な内部/外部の区分、すなわち居住空間であるトレーラーの内部の領域とトレーラーの外部の領域との空間区分に関係しています。すでに述べたように、トレーラーの内部では体を洗ったり洗濯したり排泄する行為が禁止されています。衣類の洗濯、排便や放尿は外の、少し離れた所でしなければならないのです。(…)イングランド政府や地方自治体の当局は、ジプシーの人々がトレーラーに便所を備え付けないことや、設備の整った公立のキャンプ・サイトを提供しているのにちゃんと使わないことで文句を言いますが、ジプシーたちは、台所のそばに便所や浴室のあるサイトの家屋など、不潔で住めないと言います。たとえ目に見えるところに糞便が落ちていても、ゴールジョとはちがって、ジプシーにとってはショッキングなことではないが、しかしそれが食べ物や台所に近くにあるのは(たとえトイレによって被い隠されていても)ショッキングなことだというわけです。(…)
ここで、最初に挙げた日本社会で外から帰宅後にすぐ手を洗うという習慣と、ジプシーたちの外で体を洗ったり排泄したりするという習慣を並べてみてみましょう。表面的にはまったく異なる習慣のように見えます。けれども、その意味を考えると、この日本人の奇妙な習慣も、ジプシーたちの慣習と非常に似ていることに気づきます。(…)つまり、私たちは「バイキン」という概念と「外にはバイキンがたくさんいるから、外から帰ってきたら手を洗う」という行為によって、家の外と内との区分をしています。それに対して、ジプシーたちは、モカーディという概念とトレーラーの外で体を洗ったり洗濯したり排泄したりするという習慣によって、居住空間の内部と外部とを区分するということをしているわけです。(…)
さて、家の外から帰ってきたとき手を洗うという日本の習慣も、トレーラーの外で排泄したり体を洗うという英国のジプシーの習慣も、居住空間の内と外とを象徴的に区切るものだということを見てきましたが、それらは、合理的根拠のない「迷信」などではなく、空間を区切るという「表現行為」なのであり、自分たちの環境をそのように区切って表現しつつ、自分たちの世界そのものを作り上げていく行為なのです。したがって、その世界の区切り方に根拠がないからといって、それは「迷信」だからやめるべきだということにはなりません。(…)そうではなく、同じように根拠がないのに、自分たちの区切り方や世界の作り方は合理的な根拠があると思い込み(上の例で言えば、帰宅して手を洗うのは衛生学的な根拠があることだと思い込み)、そのようには世界を表現しない文化や人びとに対して、「迷信」に囚われた人びとだとか衛生観念がない不潔な人びととラベリングをすることこそ、「迷信」に囚われていることだということに気づくこと、これが大事なのです。
そして、そのことが、最初に述べた、個別文化としての自文化を相対化することを通して人類文化の普遍性(共通性)を探るということなのです。その普遍性=共通性は、同じことをする、同じ普遍的な文化をもつということではありません。帰宅後に手を洗うという習慣を捨て去らなくても、また、ジプシーの人々が外で排泄したり体を洗ったりするという習慣を維持していたとしても、そこには共通性が見て取れるのです。そのような違いの中の共通性にあることに気づくことが、個別文化の違いを通して人類文化の普遍性を探るということなのです。
異文化理解というと、異文化の見慣れぬ奇妙な慣習や事象を不思議なことではなくすることと考えられています。けれども、人類学的な異文化の研究において、それ以上に重要なのは、自分たちが当たり前のことと思っている自文化の規範や観念が見慣れないもの・不思議なことにみえてくるような視点を作り出すということなのです。つまり、異文化の見慣れない奇妙な習慣が自分たちの習慣と連続していることに気づくと同時に、自分たちの習慣がすこし奇妙なものだというように見えてくる、そのような視点を獲得することこそ、ひとつの社会での思い込みを相対化して得られる、文化人類学的な「ものの見方」であり、そこでは、異文化理解は自文化理解と同時になされるものとなっているのです。
(2007年4月14日 小田亮の研究ホームページ「なぜ帰宅後にすぐ手を洗うのか――文化人類学の効用」より抜粋)

それぞれの社会や文化、そしてそれぞれの時代がもっている「ものの見方」の相違は、あくまでも相違であって優劣ではないという「文化相対主義的」な視点。
それぞれの文化には、数万年かけてサルから人間に至る過程を共有していることに由来した、普遍的な共通性があるという「人類文化の普遍性」という視点。
この一見対立するようにみえる「相対主義」と「普遍主義」は、個別文化としての自文化の相対化を通して人類文化の普遍性を探るという意味で、ともに不可欠な視点であるといえる。
「自分の習慣ではないものを人は野蛮と呼ぶ(byモンテーニュ)」
畢竟、人間が「学び知る」というのは、情報を収集し脳に知識を溜め込むことではなく、「モノ、人、コトの中でモノになったり、人の身になったり、コトの世界に我が身を放り込んだりして、そこでどういう事態が起こっていくかを全身で実感しながら納得する(by佐伯氏)」ことに尽きると思われるのである。