スポーツ「文化」再考

moriyasu11232010-12-01

今を遡ること約550年前、16世紀ネーデルランド美術史を代表する画家であるピーテル・ブリューゲルによって描かれた『子供の遊戯』。
ウィーン美術史美術館に所蔵されているこの作品は、ブリューゲルの傑作『ネーデルランドの諺』同様、画面内に様々な人々の様子を描き出す「群集構図」の一作例である。
当時の遊戯を網羅した百科事典的な性格を併せ持つ本作には、260人余りの子ども達が約90種類もの遊びに興じる場面が描かれている。
よくみるとこれらは、そのほとんどが現代まで伝承されている(はずの)「遊び」である。

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

プレイは、生活一般の伴奏となり,補充となり、その一部となる。それは、生活を飾り、充実させ、その効果によって欠くべからざるものとなる。個人に対しては生物学的機能として欠くべからざるものであり、共同体に対しては、遊びの中に含まれた意義、その重要性、それの表現としての価値、それが生み出す精神的社会的きずな、つまり簡単に言えば文化機能のおかげで欠くべからざるものとなる。それは表現することと共同生活することの二つの理想を満足させる。それは、食物摂取、繁殖、保育といったような純生物学的過程の領域を越えたより高い世界に属している。
(byホイジンガ氏)

「純生物学的過程の領域を越えたより高い世界」に属するものが「プレイ(遊び)」であり、文化は「プレイ」の中に始まり、文化は原初から「プレイ」されるものであったというのがホイジンガの指摘である。
なるほど。
つまり「遊び」は「文化」に先発しているということである。
この指摘は、人類学的研究の成果によっても支持されている。

レヴィ=ストロース講義 (平凡社ライブラリー)

レヴィ=ストロース講義 (平凡社ライブラリー)

人類の歴史のおそらく九十九パーセントにあたる期間、そして地理的に言えば地球上で人の住む空間の四分の三で、ごく最近まで人びとがどのように暮らしてきたかを理解するには、これら「未開」と呼ばれる社会が唯一のモデルになるということです。
したがって私たちが学ぶべきことは、これらの社会が私たちの遠い過去の諸段階を表しているらしいということではありません。そうではなく、人間のありかたの一般的状況、共通の分母(公分母)というべきものを示している、ということなのです。この視点から見ると、西洋および東洋の高度に発達した文明こそ、むしろ例外なのです。
(byレヴィ=ストロース氏)

経済人類学者であるマーシャル・サーリンズは、「採集狩猟」という獲得経済が500万年にも及ぶ人類史の99.9%以上を占めるに至った理由について、「狩猟採集があまりにも安定した経済形態であったから」という従来とは逆のロジックでの説明を試みている。
サーリンズは、狩猟採集民族のフィールドワークによって、成人の男女が1日に費やす食料集めの時間は平均2〜3時間であり、集められた食料のカロリー数を非労働家族(乳幼児や老人)も含めて平均した値は一人当たり1日2,300カロリーにもなることを明らかにしている。
さらに、主に男性が行う狩りの位置づけは相対的に低く(食料の7割が植物性、3割が動物性)、日々の生活はもっぱら女性の採集活動に支えられていたことから、この社会を「初めの豊かな社会」と名づけた。
なにしろ、栄養は満たされ、1日24時間から労働のための2〜3時間を差し引いた残りはまるまる自由時間となるのだから、そう名づけたくなるのも無理からぬところである。
人類史上、最も余暇時間に恵まれていたとされる人々は、その時間を何に費やしていたのだろうか。

スポーツ史講義

スポーツ史講義

人類は「初めの豊かな社会」にどれほどのスポーツを開発していたのであろうか。
今日の研究では、動物スポーツとモータースポーツを除けば、あとはすべて出そろっていたとされる。
動物スポーツとは、競馬やポロや流鏑馬あるいは闘牛や闘鶏など、動物を生かしたまま人間の楽しみのために利用するスポーツのことで、したがって、動物飼育の原理つまり家畜文化の存在を前提にしている。こうした文化は、古代文明に至ってはじめて現れるのである。また、モータースポーツは周知のごとく近代産業革命の産物である。つまり、今日われわれが享受するスポーツは、その太い根をすでに未開社会に深くおろしていたのである。
(寒川恒夫「未開社会のスポーツ(第2部 スポーツ史概説 Lecture1)」より抜粋)

未開社会(無文字社会)では、スポーツが行われていたという直接的な証拠に乏しい(文字がないので記録がない)。
しかし、フランス、アフリカ、オーストラリアなどには、3万年以上前の先史時代の洞窟壁画があり、これらの遺跡からスポーツに類似した何らかの活動があったと推察されている。
また、生活活動における有用性から最も縁遠い「ボール」が、未開社会において多種多様に存在することもその推論を後押ししている。
素材や作成工程の精度には差異があるものの、ただ一つの技術(鋳物、例えばボーリングのボールのようなもの)を除けば、未開人のボール作成技術(ふくらませる、磨き上げる、詰める、編む、切り出す)は、ほとんどが今日に至るまでまで受け継がれているものなのである。
当然、それらを用いた様々な「球技」が展開されていたことは言を俟たない。
また、陸上競技に相当する走(リレー競技の原型を含む)・跳・投型や、ダイビング、トランポリン、スキー、水泳、ボート競技、サーフィンの原型となるスポーツが世界各地の民族によって行われていたことも明らかになっている。
さらに、相撲やレスリング、ボクシング、さらには武器を使った「格闘技系スポーツ」の原型もほとんど存在していた。
他にも、古代以前の人類史において、綱引きや棒倒しなどの全身を用いた力くらべから、コマまわし、竹馬、けん玉、サイコロ遊び、あやとりやお手玉に至るまでが既に知られていたという。
みんな「必死(必至)」に「遊んでいた」のである。
冒頭写真のブリューゲルによって描かれた『子供の遊戯』も、「初めの豊かな社会」から受け継がれた「遊び」の一形態であり、このような歴史的文脈を参照すれば、「文化はプレイの中に始まる」というホイジンガの指摘も頷ける。
では「文化」とはいったい何なのか。

スポーツ文化と教育―人間とスポーツの新たな関わりを求めて

スポーツ文化と教育―人間とスポーツの新たな関わりを求めて

文化というものの定義づけは多くの人たちによってなされているが、多様さが広がりをみせる一方明確な定義は難しい。しかし、次に挙げる点については概ね異論のないところとされている。
文化とは、「人間が単なる生物的存在(being)以上のものとして生の営みをよりよきもの(well-being)とするために創造し、習得した行動と行動の諸結果との総合体であって、その構成要素が所与の社会のメンバーによって分有され、伝搬されているものである」と捉えられている。
文化は所与の社会において、世代から世代へ創造的発展的にあるいは変容されて受け継がれるもので、学習によって後天的に獲得される行動様式(way of life)の総体であり、人間の自然的本能的行動や習性ではない。
(島崎仁「第1章 ホモルーデンスとしての人間とプレイ・スポーツ・文化」より抜粋)

人間の本能的行動や習性にのみ基づく営為は、他の動物に比して極めて脆弱であるとされている。
しかし人間は、「文化」をもつことによって自らの生の営みをより豊かに発展させることができるようになり、またそのこと自体が人間を他の動物と区別する特質として「文化」をもつといわれる所以でもある。
「ホモ・ファーベル(作る人)」よりも「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」が先んじている、すなわち「遊びは文化よりも古い」と喝破したホイジンガは、先達のスポーツに関する様々な努力の結果、「古代以来のプレイ(遊戯)的因子は滅び去り、スポーツは、結局共同社会とのつながり、すなわち文化機能を失ってしまった」と喝破する。
もちろん「文化論」として原理的に追究するにあたっては、多くの時代考証や歴史的文脈の参照が必須である。
しかし、ここで問われるべきことは、我々が「純生物学的過程の領域を越えたより高い世界に属するものがプレイであり、文化は原初からプレイされるものであった(byホイジンガ)」という指摘の文脈を参照することなく、「文化」という言葉を盲目的に「素晴らしいもの」と鵜呑みにして思考停止に陥ってはいないか、またそういう幻想を抱かせるような装置として「文化」を機能させようとしてはいないか、ということであろう。
そもそも「スポーツは文化である」ことが自明と理解されているなら、わざわざ「スポーツ文化」などと声高に主張する必要はない。
「スポーツ文化」という名称の登場には、“文化”のイデオロギー性が深く関わっているのである。

1980年代以降、盛んに「スポーツ文化」という語が巷に登場してきた背景には、スポーツや体育を他の美術や音楽や、いわゆる知的な教科との並列を目指した経緯があった。(…)
スポーツを扱う体育を知的領域に含め、より一般的に「社会的に価値あるもの」としてスポーツを受け入れる仕掛けとして、“文化”であることを強調する戦略をとったといえる。(…)
また、オリンピックなどの世界的規模の大会は国が支援するに値するスポーツであるとしながらも、競技会が伴わない趣味や楽しみ目的に行われている仲間うちでのスポーツは、学校等の施設の使用許可すら得ることが難しい状況を生み出している。つまり、スポーツ文化を価値あるものとして謳うことで、実は価値あるスポーツとそうでないものとに区分されるきっかけを創り出しているのである。(…)
「大人─子ども」「スポーツ─遊び」が「価値あるもの(価値付けする側)─価値のないもの(価値付けられる側)」といった価値の優劣を伴って顕在化しているのである。
(田里千代『「スポーツ立国戦略」が描く「新たなスポーツ文化」とは何か』体育科教育58巻2号より抜粋)

田里氏は、「文化勲章を受賞した文化人が暮らす文化住宅には、文化鍋やら文化包丁がある」という文章を「受勲するにふさわしい知識を備えた人が暮らす近代的な家には、洗練された西洋風の鍋や万能包丁などがある」と言い換えながら、“文化”を冠すれば、人が「凡人とは違う、平凡ではない、普通ではなくそれ以上の人や物、事象」として何の迷いもなく認識・理解する「思考停止」に警鐘を鳴らしている。
このような「文化」の無批判な受容という我々の態度は、一体どのように内面化されてきたのだろうか。
そもそも日本語の「文化」は、古代中国の政治理念から借用した標記であり、年号としても使われていたのは周知の通りである。
現在のような「文化」の意味づけは、福澤諭吉明治8年(1875年)に著した『文明論之概略』の中で、幕末から明治期に入ってきたフランス語の「civilization」を「文明(開化)」と訳したことに端を発するといわれている。
その後、大正期に「文明」に取って代わったドイツ語の「文化(kultur)」や、戦後に英語の「文化(culture)」などが時期やルートを異にして流入したため、結果的に日本における「文化」の解釈と用法に混乱を来したという指摘もある。
いずれにせよ、このような解釈や用法の問題と並行して、単に西洋の文化・風俗を模倣したものから、それらの文化や風俗を手本としながら日本の既存文化との融合を図ったもの、さらには既存文化を西洋風にアレンジしたものなどなど多岐に渡る「文化」なるものが、過渡期的には熱病のごとき流行となって様々な社会階層に受け入れられていったのである。
そのような歴史的経緯が、我々の「文化」という言葉に対する「思考停止」の端緒になっているといったら言い過ぎだろうか。
フランス語の「civilization」を「文明」と翻訳した福澤が、その言葉に込めた思いとは何だったのか。

福澤は晩年にいたるまで「東洋になきものは、有形において数理学、無形において独立心」と書いていた。
では、そんな東洋の、そのまた一隅の日本において、一身独立するにはどうするか。福澤は私の「徳義」を捨てて公の「智恵」を選ぶことを決断する。(…)個人の智恵ではなく社会的な智恵をつくるしかないのではないかという見解なのだ。ということは、徳義も私徳にとどまるようなものではあってはならないということになる。
一身独立にあたって公智を養う。
これは個に至って類に及ぶというなかなかの難題である。
しかし、福澤が考えつづけた「文明」とは、結局はその一点の確立に行きついて初めて獲得できるものだった。難しかろうが、従来の日本がそうでなかろうが、それ以外の方法はない。そう、福澤は確信した。その一点の確立を見定めるならば、福澤はそこから「自由」というものが日本にも得られるはずだというわけである。一人ずつの独立が公の自由をつくり、その公智が戻ってきて個を自在にするという論法なのだ。(…)
これでだいたいの察しがつくだろうとおもうが、福澤が『文明論之概略』において「文明」という言葉をつかうのは、日本の独立のことを年頭においてのことだったのである。誰よりも早く、誰よりも独自に「文明としての日本」を議論してみること、それが福澤が本書の執筆を通して自身に背負った課題だった。
けれども、その文明の独立に進む日本は、上からの権力でつくられるべきではなく、あくまで個人の公智にもとづくものであってほしかった。
福澤が国政にも自由民権運動にもかかわらなかった理由が、ここにある。
(2001年11月5日 松岡正剛の千夜千冊「文明論之概略(福澤諭吉)」より抜粋)

松岡氏の福澤批評を「スポーツ文化」という問題に援用するならば、「一身独立にあたって公智を養う。これは個に至って類に及ぶというなかなかの難題である。しかし「スポーツ文化」とは、結局はその一点の確立に行きついて初めて獲得できるものだった。難しかろうが、従来の日本のスポーツがそうでなかろうが、それ以外の方法はない」ということになるだろうか。
さらに言えば「スポーツ文化の独立は、あくまで個人の公智にもとづくものとしてつくられるべき」というメッセージとしても受け止めることができるだろう。

交叉する身体と遊び―あいまいさの文化社会学

交叉する身体と遊び―あいまいさの文化社会学

ポスト近代の問題としてこうしてやってくる「身体の倫理」という問いは、けれどもなかなかやっかいな問題だ。ただ、近代という時代が偏狭なまでに身体を対象化することを意志し、あるいはそれに意味を求めたことを考えると、「その後」の時代とは、むしろ新しい枠組みでさらに意味を希求したり、反意味という形で意味の幽霊と化すよりも、そういう「意味」を求める作業から開放された「ほっ」とした気分、あるいは本来「意味」があるかどうかさえもわからない「身体として生きる」ということに対して、背伸びせずそのままに向き合える、もっとそういう問題として描かれてもよいのではなかったか。
もちろんそのことは、禁欲的に悟って生きる身体をイメージするものではない。また「だらしない身体」にまどろむのでもない。そうではなくて、生きるエネルギーにそのまま過不足なく等身大に向き合う身体、たとえていえば「遊びの中にある身体」のイメージである。
(by松田恵示氏)

スポーツの歴史は、おそらく人類の歴史と同じくらい古い。
だとすれば、どんな「文化」についても、そこに「遊び」の要素を発見できさえすれば、「文化とは何か」ということを解きほぐすことが可能になるのではないか。
畢竟、「遊び」としての「スポーツ」の歴史を通して、人間社会の変化やスポーツの本質について多くのことを知ることができるはずなのである。

遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそ動(ゆる)がるれ
(「梁塵秘抄」より抜粋)

スポーツがその本質属性として、プレイ(遊び)の性格を有するもの、あるいはプレイの一形態としての競争的・表現的身体活動ととらえられるものとされるとき、我々は人類文化という視点に立って、スポーツと人間の関わりについてより一層深い理解を求められることになる。
およそ800年前の平安時代末期に編まれた歌謡集である「梁塵秘抄」の一首は、そのことを我々に伝えようとしていると思えてならない。