自発性と内発性

moriyasu11232015-10-02

(´-`).。oO(最後のエントリーはゴールデンウィーク明けか…とりあえずいつもの再掲で切り抜けるか…)

人間という種の特性を『Homo Ludens(ホモ・ルーデンス、遊戯する存在)』と評したオランダの文化史家であるヨハン・ホイジンガは、『遊びとは、あるはっきり定められた時間・空間の範囲内で行われる自発的行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの行為の目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またそれは〈日常生活〉とは〈別のもの〉という意識に裏づけられている』(ボールド筆者)と指摘する。
そして、遊びとは遊び以外の何ものでもなく、その遊びそのものの中に緊張、歓び、面白さがあるが、とりわけ重要なのは“面白さ”であり、この“面白さ”こそ遊びの本質に他ならないと続ける。
ホイジンガ以前の遊び(プレイ)論のほとんどは、遊びは遊び以外の何かに役立つものという手段的な意味づけ(外在的価値)や生物学的観点から離れられなかったが、彼の功績は、人間を遊びに誘い込み、虜にさせるものは“面白さ”であるという遊びの本質的かつ人間的価値(内在的価値)を見いだし、遊びという行為を人間の欲求充足のための自己目的的な活動と捉えることによって、それまでの観点を反転させたことにあるといえる。
本研究において、運動遊びがもたらす心理社会的効果に影響を与える媒介変数とされている「プレイフルネス」は、「より楽しくおもしろい状況に変える、またはそのような環境を作り出す個人の能力」「陽気にふざけ遊ぶ心」などと定義され、その内部要素として、行動の自己決定・自発性、楽しさ、没頭などが挙げられているが、これらはホイジンガが提示した遊びの本質(内在的価値)とも重なり合うものである。
ホイジンガの遊びの定義やプレイフルネスに共通する「自発」とは何か。
広辞苑(第五版)では「【自発】自ら進んで行うこと、自然に起ること」とされているが、社会学者の宮台真司氏は、「自発性」は限定された枠内のルールや課題などが与えられた人為的環境のなかで主体的に動くことであり、「内発性」は人為的環境に左右されずに主体的に動くことを指す、すなわち、自発性は環境に依存しているが、内発性は環境から自立しているとして両語を区別する。そして、内発性は唐突に生まれるものではなく、自発性に基づいた活動の継続によって涵養されるものだというのである。
本報告書の序文では、子どもたちに運動遊びを提供し、楽しそうに遊んでいる様子に満足している指導者が、終了後に子ども達から「(この後)遊んでもいい?」と質問されたというエピソードが紹介されている。遊びの本質について考えさせられるエピソードではあるが、「遊んでもいい?」という(自発的な)問いを原初的な内発性の現れと捉えれば、指導者の働きかけは奏功しているといえるのかもしれない。したがって、内在的価値(プレイフルネス)を重視する目的論と外在的価値を重視する手段論とを対立的に捉えるのではなく、状況に応じて両者のバランスをとりながら、子どもたちの運動遊びに対する自発性を引き出すことが喫緊の課題であるといえるだろう。
換言すれば、ホイジンガが提示した『遊びの面白さは、どんな分析も、どんな論理的解釈も受け入れない』という遊びの本質を再度反転させつつ、子どもたちの運動(スポーツ)遊びに対する自発性を引き出し、それを内発性へと昇華させることが求められているともいえるのである。
(拙稿「子どもたちが内発的に行う運動遊びとは?─手段論と目的論の二元論を超えて─」 平成26年日本体育協会スポーツ医・科学研究報告『心理社会的側面の強化を意図した運動・スポーツ遊びプログラムの開発および普及啓発─第2報─』より)

幼児版アクティブ・チャイルド・プログラム

moriyasu11232015-05-11

最後の更新から約4ヶ月。
相変わらず書き下ろす時間をつくる能力がない状況が続いているが、新たに「幼児期からのアクティブ・チャイルド・プログラム」教材がリリースされたことを記念?して、今年度で三巡目に入った弊社ジャーナル(Sports Japan)に掲載された拙稿を再掲する。

人類はいつから“遊び”はじめたのか?
文化人類学者のサーリンズは、現存する採集・狩猟民族の生活を丹念に調査し、成人男女が1日に費やす労働(食料収集)時間が2〜3時間であり、集められた食料はひとり当たり2,300カロリーにも及ぶことを明らかにしています。この人類史上、最も自由時間に恵まれていたと考えられる人たちは、その時間をいったい何に費やしていたのでしょうか。実は様々な調査から、コマまわし、けん玉、あやとりやお手玉などの遊びや、つな引きや棒たおしなどの力くらべ、さらには陸上競技、水泳競技、球技や格闘技といった類のスポーツの原型までもが、すでにこの時代に存在していたことがわかってきています。
一般に「文化」とは、「人間が、単なる生物的存在以上のものとして、生の営みをよりよきものとするために、世代から世代へ創造的・発展的に受け継がれる行動様式の総体」であると定義されています。上記の人類学的エビデンスは、様々な遊びやスポーツが、宗教的儀式、身体(労働)能力の訓練、人間同士や集団間の親交・交流ツール、さらには世俗的な娯楽としてなど、多様な目的に結びつけられながらも、私たちの「生の営みをよりよきもの」にするために欠かせない「文化」として、今日に至るまで継承されてきたことを示唆しているといえるでしょう。
幼児期運動指針の策定
文部科学省の調査では、1週間の総運動時間(通学や体育授業を除く)が60分未満の児童・生徒の割合は、男子で約10%、女子では20〜30%にのぼることが示されていますが、子どもの運動(スポーツ)実施の二極化傾向は、すでに幼児期から始まっているといわれています。平成19〜21年度に実施された幼児を対象とする調査では、外遊び時間が一日60分未満の幼児が4割を超えており、その背景にある「体を動かす機会の減少」、「活発に体を動かす遊び(以下、運動遊び)の減少」、「自発的な運動の機会の減少」による「体の操作が未熟な幼児の増加」といった問題点が挙げられています。一方、同調査では、身体活動・運動の増強に積極的に取り組んだ幼稚園・保育所(園)とそれ以外の園を卒園した子どもたちを追跡調査し、前者の子どもたちは卒園後(小学1年生時)の運動の頻度、運動部(スポーツクラブ)の加入率および新体力テストの総合得点が後者に比べて高い傾向にあったことも示されています。
これらのエビデンスを踏まえて、文部科学省は、平成24年3月に「幼児はさまざまな遊びを中心に、毎日、合計60分以上、楽しく体を動かすことが大切です」という幼児期の運動指針を策定し、以下の3つのポイントを提示しています。
1)多様な動きが経験できるように様々な遊びを取り入れること:幼児期は運動機能が急速に発達し、基本的な動きを身につけやすい時期であることから、楽しく体を動かすことを通して、多様な動きを経験させることが大切です。
2)体を動かして遊ぶ時間を確保すること:多様な動きの獲得を目指すためには、身体活動量(時間)の確保も大切です。保育がない休日でも幼児が楽しく体を動かせるよう、保育者だけでなく保護者も共に体を動かす時間の確保が望まれます。
3)発達の特性に応じた遊びを提供すること:幼児の発達に応じて身体諸機能を十分に動かし、活動意欲を満足させることは、体を動かすことへの積極性を引き出すだけでなく、自己効力感(自身の向上可能性への期待感や信頼感、有能感)を育むことにつながります。
体を動かして遊ぶことは、体力・運動能力の向上をはじめ、健康的な体や意欲的な心の育成、社会適応力や認知的能力の発達などの恩恵をもたらすといわれていますが、幼児期運動指針では、これらの恩恵は「自発的に遊びを楽しむ」ことを通して得られるものであることが強調されています。したがって、幼児期には、子どもたちの興味や関心、意欲などを十分に考慮しながら、「楽しい」と「またやりたい」の循環に導く運動(遊び)習慣づくりが求められているといえるでしょう。
スポーツ少年団への幼児加入に向けて
トップアスリートのスポーツ歴に関する研究は国内外で盛んに行われていますが、例えば、スウェーデンの男子テニス選手の競技歴を競技レベル別に比較した研究では、世界レベルの選手には幼少年期にのどかな指導で伸び伸びと練習した地方出身者が多く、国内レベルの選手のほとんどが早期から専門的な指導を受けている都市部出身であったことが報告されています。また、この種の研究では、幼少年期に「楽しみ」の要素を重視しながら運動遊びや複数のスポーツを経験させておくことが、後に遭遇する失敗や困難、あるいは厳しいトレーニングに対して「きっとできる」という確信(自己効力感)を持って乗り越えることにつながるだけでなく、ドロップアウト燃え尽き症候群)やケガのリスクの低下につながる可能性も指摘されています。したがって、幼少年期に体を動かすことを「楽しむ(遊び)」経験を積んでおくことは、競技力向上を含めたあらゆる運動・スポーツ活動の礎を築くためにも重要であるといえそうです。
日本体育協会・日本スポーツ少年団では、幼児期の団員加入を進めるための環境整備の一環として「幼児期からのアクティブ・チャイルド・プログラム」を作成しました。本プログラムは、幼児期のうちに体を動かすことの楽しさや喜びを伝え、ひとりでも多くの運動・スポーツ好きの子どもを育んでいきたいという思いを込めて作成されたものです。なお、本プログラムの詳細については、本連載にてご紹介していく予定です。
運動しない子=運動ぎらい!?
およそ800年前に編まれたといわれる「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の『遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動がるれ』という一首はよく知られていますが、いまどきの公園には「ボール遊び禁止」、「大声禁止」、「自転車乗り入れ禁止」などの看板や張り紙を見かけることも少なくありません。実は、前述した1週間の総運動時間が60分未満の児童の約7割が、運動やスポーツをすることが「好き(やや好き)」と答え、半数以上が「もっとしたいと思う(やや思う)」と回答しているのです。これらのことは、「運動しない子=運動ぎらい」という単純な図式が成り立たないことだけでなく、先史以来の歴史をもつ運動遊びやスポーツが「文化」として継承されているとは言い難いことを示唆しているのかもしれません。
体を動かす時間、空間、仲間という「三間(サンマ)の減少」といわれて久しいですが、このサンマに、大人が子どもに対してかけるべき「手間」を加えた「四間(ヨンマ)」の減少が問題であるという指摘もあります。今以上にサンマを確保することが容易でないとすれば、目の前にある限られたサンマのなかで工夫する(手間をかける)ことによって、活動の質を高めていくことが喫緊の課題であることは言うまでもありません。
そして何よりも大切なことは、子どもたちが、様々な運動遊びやスポーツと関わる過程で、どうすればそれを「好き」になり、どのようなプロセスを経てそれが「大切」なものになるのか、さらにはそれが「豊かな社会」の構築にどのように寄与するのかについてリアルに問い続けることにあります。実はそれは、私たち大人の運動やスポーツへの関わり方が問われているということでもあるのです。
(2014年11月10日 拙稿『なぜ幼児期に体を動かして遊ぶことが大切なのか?』 Sports Japan 2015年5・6月号(vol.19)より抜粋)

「年(度)記」にならないよう鋭意努力しますので、今後ともよろしくお願いします。

2020東京オリンピックプロジェクト

moriyasu11232015-01-30

昨年の11月に行われた「U19オリンピック育成競技者指導者研修会」の内容の一部が、陸上競技マガジンにて紹介された。

タレント・トランスファーの充実
昨年、2020年のオリンピックが東京に決まったあと、日本陸連では「2020東京オリンピック特別対策プロジェクトチーム」を発足させた。主導するのは、強化育成部長の山崎一彦氏。
「一歩踏み出そう」をスローガンに、ジュニア年代から長いスパンでの強化を図るのが目的である。「指導者が国際的指導力を付けなくてはいけない」と山崎氏。プロジェクトの第一弾として、例年この時期に国立スポーツ科学センターで実施している「U-19オリンピック育成競技者」の測定合宿と同時に、その選手たちが所属する学校の指導者に向けて、レクチャーや研修を行った。
この規模でジュニア世代の指導者が全国から集まるのは初の試み。参加者は50名以上にのぼり、「招待したほとんどの指導者が参加してくれました」と山崎氏は感謝の言葉を述べた。
初日に公開されたテーマは、『2020年へ向けての活動および強化育成方針の考え方』。山崎氏が壇上に上がり、スクリーンを使って講義を行った。東京オリンピックでの目標として、「金メダル1、メダル総数5、入賞者数7」を掲げ、プレイシングテーブル(インターハイの学校対抗のように順位による点数化)10位以内を目指すという。ただ、「厳しいことは分かっていますし、これは夢です」と山崎氏。それに向かっての強化対策を行っていく。
現在、陸上界の課題とされている問題点の多くは、1960年ローマ五輪後に大島鎌吉氏(選手強化対策本部長)が発表した敗因と変わっていないという。
例えば、「科学研究と現場の結び付きの弱さ」「選手育成の一貫性・計画性に欠ける」「指導者の人数・指導力が十分でない」ことが挙げられていた。その後の1964年東京オリンピックを機に、実業団システムや少年団チームの構築など、一定の強化体制は整った。だが、自立型競技者を推奨することと引き換えに、ハイパフォーマンスコーチの不足が浮き彫りになり、国際大会での最後の詰めが甘くなる傾向にあると山崎氏は指摘する。
「タレントは発掘するのではなく、拡充・育成していきたい」と山崎氏。つまり、発掘といういわゆる“宝探し”ではなく、まずはプールの拡大、そして全員がタレントだと認識し、そのなかから育成していくための環境(タレント・トランスファー)が大切だということだ。
そのために、
Change(育成):指導者育成、情報発信、指導力の向上
Challenge(発掘):他種目への挑戦、タレントマネージャーの設置など
Contact(普及):プロモーション、かけっこ教室、強化委員会との連携など
を進めていくという。
山崎氏は研修で何度も「国際的な選手・指導者を」と話ししている。2010年から強化育成部(U-19、23)が継続して取り組んでいるのが海外合宿や海外競技会への転機の支援だ。リオ五輪育成競技者のなかからも山本聖途トヨタ自動車)、戸辺直人(千葉陸協)、新井涼平スズキ浜松AC)らがダイヤモンド・リーグに参戦した。
また、桐生祥秀東洋大)や加藤修也(早大)らはオーストラリアで合宿を実施。現地のスーパーマーケットで食材を買って自炊し、現地のチームで練習を積んだ。若年層から海外での試合・生活を行うことで、シニアに移行し世界大会に出場したとしても気後れすることはない。山崎氏は「今後も継続し、よりたくさんの海外経験を積んでもらいたい」と、一層の支援を約束した。
タレントマネージャーの設置 タレント育成の課題とは?
今回、新プロジェクトには「タレントマネージャー」が新設された。日本陸連が依頼した指導者が全都道府県におり、現在それほど全国区で活躍していなくても将来性が見込まれる選手を推薦するというもの。タレントマネージャーで推薦された選手たちも、積極性に海外進出させる方針だ。「将来性を見ることは、一番難しいことなのは理解しています。やみくもに連れてくるわけにはいきません」と山崎氏。
スムーズなタレント育成のためには、もちろん課題もある。1つは、所属チーム指導者、中高体連、学連らとの協力体制だ。ハードルや投てきの規格の違いや学校対抗戦の存在もあり、国際大会と並行できない現状もある。だが、山崎氏は東京五輪決定が良い影響を及ぼしていると言い、「敦賀高の北川貴理選手のように、世界ジュニア帰国後、即インターハイ優勝などの例もあります。今年は世界大会にたくさんの選手が出てくれました。今回集まっていただいた指導者陣にも理解していただいているのだと思います。今後も、連携をより密にしていきたい」と述べた。
次に、これまであまり分析されてこなかった部分のデータ化を進めなくてはいけないという点。それが、2日目に「2020東京オリンピック特別対策プロジェクトチーム」のタレント・トランスファー担当リーダーである、日本体育協会の森丘保典氏が行った「タレント・トランスファーの考え方について」の講義だ。
「これまで、『中学のトップ選手が大人になったら活躍できない、短距離は才能で長距離は努力』などといわれてきたが、本当にそうなのか。それを、アンケート、インタビュー調査、日本と世界とのデータ解析などで分析していきます」と山崎氏は言う。
森丘氏が紹介した、2012年の小学生陸上、全日中、インターハイ、インカレ、日本選手権の各大会出場者、および世界大会出場者の生まれ月の分布を見ると、全日中くらいまでは早生まれ(1月〜3月)の選手の割合は少なく、インターハイレベルでもその影響が残る傾向にあることが分かる。だが、代表選手にはほとんどその差は見られなくなるという。
また、現在50歳以下の世界大会出場者の104人に実施したアンケート結果を分析すると、中学時代に陸上を始めた選手は8割いるものの、6割が全国大会に出場していないこと、そして、高校から専門的に陸上を開始した選手が約3割いることが分かった。高校になると、8割が全国大会に出場しており、6割が入賞していることなども示していた。
「発育・発達の差が大きい小学校、中学校年代に自己効力感(自身の向上可能性への期待感や信頼感、有能感)を得ることができず、競技をやめている選手も少なくないのではないか」と森丘氏は指摘。競技変更などもあるため単純な比較はできないが、中学生の競技人口が約20万人でありながら、高校になると半数の10万人に減少している現状とも無関係ではないだろう。
一方で、早期に高いレベルに到達したいわゆる“早熟型”の選手のドロップアウトにも配慮する必要があると強調し、「調査結果を踏まえ、すべてのジュニア層がタレント候補であるという認識を共有してプールを拡充し、育成環境を充実させていくことが大切」だと述べた。
また、海外選手との比較も紹介。400mHの選手においては、海外選手はピーク・パフォーマンスに到達する年齢が日本人選手(約24歳)よりも2年ほど遅い(約26歳)ことや、「海外の選手は、ジュニア期まで400mHを走らず、20代で転向することも少なくない」と話し、種目選択のタイミングやジュニア種目の負荷(距離)設定などの工夫も課題に挙げていた。
「今後も年に1回は開催し、情報共有をしていきたい」と山崎氏は総括した。
より明確化されたジュニア世代からシニアに向けたタレント育成の道筋。まだまだ課題は残されているが、2020年の東京、そしてその先に向けた強化体制に今後も注目したい。
(2014年12月13日 陸上競技マガジン『U-19オリンピック育成競技者指導者研修会を初開催(by向永拓史氏)』より抜粋)

「遺産(レガシー)過多」に留意しつつ、地に足を付けて「今やるべきこと・やれること」を粛々と。

オリジナリティーとは?

moriyasu11232014-12-17

一般社団法人日本体育学会は、体育・スポーツ科学研究領域における国内最大の学術研究団体であるが、現在この学会の会長は大学院時代のボスがお務めになっている。

ごあいさつ
日本体育学会会長 阿江 通良

日本体育学会のホームページ(HP)がリニューアルされました。本学会のHPは、これまでもかなり充実しており、特に日本の体育・スポーツに関する学術面でリードしてきた「体育学研究」と国際誌である「International Journal of Sport and Health Sciences」の論文検索が容易にできることは内外の多くの研究者から好評を得ています。
「体育」は狭義と広義にとらえることができます。後者の場合には、身体を中心におきながら、身体(的)活動・運動やスポーツを介して身心の能力の向上・維持・低下の防止を図る営みであり、体育学は体育・スポーツ現象を科学的に裏付けるとともに、研究から得られた知見を実践に応用することをねらいとしています。
また体育・スポーツ、特にスポーツは楽しみを(ときには苦しみも)人々にもたらすことは承知の通りですが、最近では、人々に感動や勇気、生きる喜びを与えるなど、計り知れない力を持っていることが社会的にも強く認識されるようになりました。このようなとき、2020年に東京でオリンピック・パラリンピック大会(東京OP)が開催されることになりました。このことは、本学会と会員が2020年に向かってはもちろんですが、それ以上に東京OP後にも日本独自の体育・スポーツがもつ価値を、理論と実践の両面で世界に発信し続ける大きな役割を担うことになったことを意味しています。そのためには、本来の科学研究の遂行、人材育成に加え、世界との交流をさらに深める必要があります。
新ホームページが、本来の体育学に関する科学研究の推進と学術水準の向上をサポートするとともに、幅広い会員の交流の場、世界や社会への窓口になることを期待します。
(日本体育学会ホームページ(トップページ)より抜粋)

小生は現在、上記でも触れられている「体育学研究 」の編集委員会の末席を汚している。
若かりし頃(今も若いけど)、このジャーナルに初めて拙稿が掲載されたときの喜びは今も忘れられないが、このたび菊幸一編集委員長のご推薦により、編集後記の執筆という栄に浴することとなった。
思えば遠くへ来たもんだ(遠い目)。
というわけで、拙稿を(先走り)再掲する。

1950年2月、日本体育学会は、新制大学発足に伴う正課体育必修化の流れを受け、体育に関係する諸科学の研究者の英知を結集することを目的として誕生しました。本誌創刊号(第1巻1号)に掲載された第1回学会大会の抄録タイトルには、体育哲学・思想、遊戯、スポーツ、社会体育、健康意識、精神的練習、運動学習、運動技能、体力、エクササイズ、トレーニング、エネルギー代謝、スポーツ傷害などのキーワードが散見されますが、これらは今日においてもなお「体育学」の研究における中心的なテーマであり、その学問的射程を網羅的に示しているといえます。
この創刊号の序文は、『この度わが体育も、他の科学と同様に、大学で研究されることになり、その上、全日本的な機構の下に立派な体育学会をもつことができて、お陰でこれまでわが体育が背負わされていたハンディキャップの一つは除かれたのであります。いま一つの大きな時間的なハンディーを縮めるためには、長期に亘る不断の努力を必要とするわけで、それは、問学諸賢の真摯な研究をもってはじめて可能となるものであると信じます。』(大谷武一理事長)と結ばれています。
大谷理事長の期待は、「体育学」を志す研究者の「長期に亘る不断の努力(真摯な研究)」による「オリジナリティー(originality)」創出にあったのではないでしょうか。
オリジナリティーという言葉は、「独創性・創意」などの意味で用いられることも多いですが、そもそも「origin」とは「原点・起源」を意味する言葉であり、社会的空間や歴史的時間から切り離された独創性などあり得ません。
本誌は、創刊以来60年以上にもおよぶ歴史の中で、本号掲載分を含む1381編の「原著論文(Original article)」を世に送り出してきました。この地層のように積み重ねられてきた研究の履歴(レガシー)に真摯に向き合い、これらを「故きを温ねて新しきを知る(温故知新)」という広義の科学的態度によって継承していくことによってのみ、「体育学」の専門的・方法論的なオリジナリティー(独自性)を見出すことが可能になるといえるでしょう。
本誌には、温故と知新の循環と積み重ねによって質の高いエビデンスを生み出す、という学術的機能を豊かに発揮しているかが問われていることを肝に銘じておきたいと思います。
(2014年12月1日 拙稿「編集後記」体育学研究59巻2号より)

今年も残すところあと僅か。
なかなか更新もままなりませんが、来年もご笑覧のほどよろしくお願いします。m(__)m
冬来たりなば春遠からじ。
よいお年をお迎えください。

スポーツの才能(タレント)とは?

moriyasu11232014-11-12

最後のエントリーは約半年前。
ブログの編集もままならない浦島太郎状態に陥っている。
ともあれ、今年度で二巡目に入った弊社ジャーナル(Sports Japan)の連載「最新スポーツ科学情報」に掲載された拙稿を再掲する。

「相対的年齢効果」とは?
本の学校教育法は、満6歳に達した後の最初の4月1日から子どもを小学校に通わせることを保護者に義務づけています。「誕生日の前日終了時に年齢が加算される」のが満年齢の考え方なので、4月1日生まれの子どもは6歳ちょうどで小学校に入学することになりますが、翌4月2日に生まれた子どもは満7歳になる直前の4月1日が入学日となるため、実質的には同じ学年の中に1歳違いの子どもが存在することになります。
このような「実年齢」の違いが、学業やスポーツの成績などに与える影響のことを「相対的年齢効果」と呼びます。相対的年齢効果は、年齢を重ねるにしたがって小さくなり、最後は消失すると考えられていますが、小中学生の学業成績や4年制大卒者の比率などにおいて、4〜6月生まれと1〜3月生まれとの間に差がみられることも示されています(川口と森、2007)。
上記の研究では、早生まれ(1〜3月生まれ)の子どもの潜在能力が他の子どもよりも劣っているわけではないことを強調するとともに、学年という制度上の枠組みが不利な条件での競争を強いている可能性を指摘し、幼少年期の“些細な”成績差による能力評価や選抜(セレクション)についても警鐘を鳴らしています。
スポーツにおける相対的年齢効果
スポーツにおいても、サッカーのJユース所属選手や高校野球の甲子園出場選手において相対的年齢効果が顕著に認められることや、その影響がシニア(プロ)世代まで残存する傾向にあることなどが指摘されています(図1「朝日新聞デジタル:早生まれ、選手に不利?プロ野球もJ1も2月が最少(2013年4月10日)」より)。

心理学の研究では、子どもの学業やスポーツの成績が、教師や指導者から「君ならきっとできる」と期待されることで上がり(ピグマリオン効果)、期待されなければ下がる(ゴーレム効果)という傾向も明らかになっています。精神的・身体的発達の差が大きい幼少年期の体験や評価が、子ども達の「自己効力感(自分の能力や行動に対する信頼感)」を左右し、スポーツを続けるか否かの判断(動機づけ)にも影響を与えていることは想像に難くありません。また、発達レベルが近い子ども同士で集団を形成しやすい傾向にあることや、精神的・身体的発達の差が埋まる前にセレクションが行われることにより、子ども達が享受できる「ピア効果(意欲や能力の高い集団内に生じる互いを高め合う効果)」に差が生まれてしまうことも見過ごせない問題です。

陸上競技の年代別全国大会出場者の比率をみても、特に小中学校期において相対的年齢効果が大きいことがわかります(図2)。この結果は、年度の下半期生まれの子ども達の自己効力感が育ちにくい状況にあることや、将来性のある才能を見過ごしている(早期にドロップアウトしてしまっている)可能性などを示唆しているといえます。しかし同時に、この図からは、年齢を重ねるにつれて相対的年齢効果が小さくなり、日本代表レベルではほぼ消失していることも見てとれます。
50歳未満のオリンピック・世界陸上の日本代表選手(男子67名、女子37名の計104名)を対象とする調査では、中学から陸上競技を始めた選手が約8割いるものの全国大会出場者は4割程度に留まること、高校ではほぼ全員が陸上競技を実施しており約8割が全国大会に出場していることなどがわかりました(表1)。

これらの結果は、陸上選手としての将来性の予測は高校以降でないと難しいことを示唆しているといえますが、残念ながら運動部活動(陸上競技)登録者数は中学から高校への進学時におおよそ半減、すなわち二人に一人がやめてしまっているのが現状です。
以上のことを踏まえて、日本陸連では、小中学校期における「運動有能感を高める指導」や「多様な種目の経験」をベースとする「タレントプール(実施者数)の拡充」、「タレント育成(指導者養成)の充実」、「タレント・トランスファー(競技・種目変更)への発展」を普及・育成の中心的課題に位置づけています。
相対的年齢効果は、単に幼少年期の発育発達の遅速が招く一過性の現象ではなく、競技者育成全般に関わると考えられます。近年、小学校期の子ども達をターゲットとするタレント発掘・育成事業が全国的に展開されておりますが、優れた人材を求めるためのセレクションが、優れた人材を排除してしまうとすれば本末転倒です。したがって、事業の実施にあたっては、子ども時代のセレクションに含まれるリスクについての十分な理解と配慮はもちろん、事業の妥当性や有効性についての科学的な検証が必要であると言えるでしょう。
子どもたちが生涯にわたってスポーツを楽しむために
スポーツに限らず、その道の熟練者になるためには「10年以上継続して1万時間を超える科学的・合理的な“質の高い”トレーニング」が必要であるといわれています。そのためには、まず人間に行動を起こさせ、それを継続へと向かわせることが必須であることから、最大のスポーツ適性は「動機づけ」であると言うこともできます。
人間のもつ才能や人間的な成熟を評価する指標は、様々な仕方でセットされ、様々な機会を通じて吟味されなければなりません。その時々の成績(勝敗や記録など)に一喜一憂することなく、一人でも多くの子どもが、少しでも長くスポーツを続けたいと思えるよう導いていくことが、スポーツの「普及」のみならず「競技力向上(選手強化)」にとっても重要な課題であり、私たち大人の責務でもあることを肝に銘じておきたいと思います。
(2014年11月10日 拙稿『スポーツの才能(タレント)とは?』Sports Japan 2014年11-12月号(vol.16)より抜粋)

「年記」にならないよう鋭意努力しますので、今後ともよろしくお願いします。

子どもの身体に起きていること

moriyasu11232014-05-30

今月発刊された「コーチング・クリニック(2014年7月号)」は記念すべき300号(おめでとうございます!パチパチ)。
巻頭言は、93年10月号から250回にわたり一度の休載もなく『ボールの転がるままに』を連載されている浅見俊雄先生。
浅見先生は、創刊号(1987年発刊:あたくし高3時)にも「スポーツをより良い形で実践するためには科学のバックアップが必要であるが、科学と実践の間にはギャップがあることも事実である。本誌はそのギャップを埋めるために科学的研究・知識を現場に分かりやすい形で紹介するものである」という推薦文を寄せられているとのこと。
この30年近い歳月の間に、どのくらい科学と実践のギャップが埋まったのだろうか…そもそもギャップとは何を指していて、その埋まり具合?はどのように評価される(できる)ものなのだろうか…などなど思いを巡らせてみる(詳細はコチラ1コチラ2)。
閑話休題
この300号の発刊を記念?して、前号、即ち299号の特集「子どもの体力・運動能力向上プロジェクト」に掲載された拙稿を再掲する。

人類の身体活動・運動の歴史
近年、子どもの体力・運動能力(以下、体力)の低下が問題視されており、その向上は文部科学省(以下、文科省)の施策の柱のひとつに位置づけられています。
しかし、私たちに、どのような体力がどのくらい必要かと問われたときに、即座にその答えを出せる人はいないでしょう。なぜなら、「必要な体力」は、人間の生活環境によって変化し、また「望ましい体力」も個人の生き方や価値観によって異なると考えられるからです。
そのような時代や社会の差異を超えた、人間にとって共通に必要かつ不変な「体力」は、果たして存在するのでしょうか。
人類学者のアイクシュテットは、20世紀初頭に「(人間の)自己家畜化」という概念を提唱しました。人間が、「人工環境の中でしか生きられない」「食料を自力でとらなくてよい」「天敵や気候変化から守られている」など家畜化の条件に当てはまる文化的・社会的環境を築き上げて自らを管理しながら、同時に「(身体を含む)自然」を破壊する能力をもってしまった結果、気候変化や環境破壊がもたらされ、身体の抵抗力(免疫力)の低下、心身症生活習慣病、そして体力低下などの問題が引き起こされている、という指摘です。
生活生存のために多くの身体活動・運動(以下、運動)を必要とする「採集・狩猟」という生活様式は、我々の祖先が地球上に誕生して以来およそ300万年という長きにわたって人類の進化史を支えてきました。一方、定住を可能にした「農耕・牧畜」という約1万年の都市文明の歴史は、長い人類史からみれば僅か1%にも満たない時間に過ぎません。人間も「動物」である以上、他の動物と同様に行動の基となる「遺伝子プログラム」をもつと考えられますが、「農耕・牧畜」以降の1万年という時間が、300万年かけて培われた「採集・狩猟」時代のプログラムを変化させるのに十分な時間とは言い難いでしょう。
ひょっとすると私たちは、1万年前の「運動が必要な身体(遺伝子プログラム)」のまま「運動を必要としない社会環境」に「適応している」のではなく「耐えている」のかもしれません。
文化人類学者のサーリンズは、現存する採集・狩猟民族の生活を丹念に調査し、成人男女が1日に費やす食料収集(労働)の時間が2〜3時間であり、集められた食料はひとり当たり2,300カロリーにも及ぶことを示唆しています。生きるために必要な栄養は満たされ、20時間以上の自由時間をもつ社会のことを、サーリンズは“初めの豊かな社会”と名づけていますが、既にこの時代に、コマまわし、竹馬、けん玉、あやとりやお手玉などの「遊び」から、つな引きや棒たおしなどの力くらべ、さらには陸上競技や水泳・水中競技、格闘技や球技に類するスポーツの原型が存在していたことも指摘されています。
これらのことは、私たちの祖先が、運動遊びやスポーツを、宗教的儀式、身体(労働)能力の訓練、人間同士や集団間の親交・交流ツール、さらには世俗的な娯楽としてなど、多様な目的に結びつけながらも、日常(社会)生活に欠かせない営みに位置づけていたことを示唆しているといえるでしょう。
アイクシュテットやサーリンズの指摘は、私たち人間にとって必要なものが「運動」であり、「体力」は運動の結果に過ぎないという当たり前のことに改めて気づかせてくれます。スポーツ科学者のカルポビッチは、哲学者デカルトの『われ思う、故にわれ在り』に対して、『われ思い、われ動くが故にわれ在り』を提唱しています。私たち人間が、動くこと(運動)によって意思を表し、目的を果たし、発達していく動物であることを考えれば、カルポビッチの主張はデカルトのそれ以上に重要な意味を帯びてくると思われます。先に述べた「自己家畜化」の進行を防ぐためのポイントとして、「動物としての人間がもつナチュラルさの回復」、「自らの身体や他者の身体との対話」、「意外性を受け止める感性の涵養」などが挙げられていることからも、個人的および社会的な生活の質(Quality of Life)の向上に「運動」が果たすべき役割は大きいといえるでしょう。
体力観と子ども観
毎年、体育の日には、文科省から、「子ども達の“体格”は親世代(約30年前)を上回るものの、“体力(特に運動能力)”は多くの項目で親の世代を下回っている」という調査結果が公表されるのが通例です。しかし、「人間の生存と活動の基礎をなす身体的および精神的能力である」という広義の体力定義に照らしてみれば、いわゆる「体力テスト」は、「体力」のなかの「身体的要素」のなかの「行動体力」のなかの「機能(作業能力)」のごく一部を測定しているに過ぎません。
広義の「体力」を海面に浮かぶ氷山に見立てれば、海面上に姿を現している「見える(測りやすい)体力」と、水没している「見えない(測りにくい)体力」に分けることができます。体力テストの結果のように数量的な測定によって優劣(向上・低下)が評価できるものは前者に位置づけられ、数量的な測定・評価が難しい「運動技能(スキル)」や「意志、判断、意欲(動機づけ)」などは後者に分類されるといえるでしょう。
私たちは、様々な方法を用いて子どもの「体力」の観察や分析を試みますが、分析とは、ある部分に“焦点化”するために他の部分を“無視”する営みでもあるため、分析結果をそのまま「氷山全体としての体力」に還元することはできません。なぜなら、氷山の一角として「見える(測りやすい)体力」の変化には、それを支えている土台としての「見えない(測りにくい)体力」の変化が影響している可能性もあるからです。
巷間、ボール投げが下手だといわれる今時の子どもは、昔の子ども(親世代)に比べて(比べられませんが)ボールキックは上手かもしれません。また、持久走記録の低下には、持久走に対する「意欲(動機づけ)」の低下が影響している可能性もあります。したがって、氷山の一角にも土台にもそれぞれに意味があり、かつ相互に関わりあっていることを認識しておくことが大切です。
また、私たちは、自分たちが子どもを観察・分析するときにかける「メガネ(まなざし)」についても、十分に意識しておく必要があります。
昭和54〜56年にかけて、当時の文部省(現文科省)は、子育てに関わる保護者向けのガイドブックとして「子育ての中の基礎体力つくり(全3集)」を発刊しました。このガイドブックは、第1集が「乳幼児」、第2集が「小学1〜4年生」、そして第3集が「小学5年〜中学3年生」を対象としていますが、それぞれの前書きに共通するのは『最近、子供に対する親の期待感が変わってきたことや社会環境、生活様式等の変化などにより、子供の基礎体力つくりについていろいろな問題が出てきており、このことが今日、青少年の体力つくりの強調されている所以です。』という記述です。
なにやら既視感のあるテクストですが、ここで注目していただきたいのは、このガイドブックが発刊された昭和54〜56年は、子どもの体力テストの結果が最も高かった時期と重なるという点です。仮に、様々な取り組みの結果、体力テストの成績が30数年前のレベルにまで戻ったとして、そのとき私たちは子ども達に対してどのような「まなざし」を向けるのでしょうか。
「近頃の若者は…」と何千年も昔の粘土板にくさび形文字で書かれているという“伝説”も耳にしますが、30数年前のガイドブックのテクストは、私たち大人が常に子どもを「能力が不足した教育の対象」と見なしているという「子ども観」の現れともいえるのではないでしょうか。
いずれにせよ、私たちは、かけているメガネの存在や性能を意識しながら、子どもの「体力問題」の本質を読み解いていく必要があるでしょう。
自発的な運動の楽しみを味わうために
昨今、1週間の総運動時間が60分未満(通学や体育授業を除く)の児童・生徒が、男子で約10%、女子では20〜30%を占めることが報告されており、運動を「する子」と「しない子」の二極化傾向が指摘されています(文科省調査より)。この運動を「しない子」へのアプローチは喫緊の課題ですが、「する子」にも問題がないとはいえません。子どものスポーツを取り巻く環境においては、国内外の大会の高度化・低年齢化、競技団体や都道府県レベルでのタレント発掘・育成事業の実施などに伴い、指導者や保護者、そして子ども達自身の競技志(指)向化による身体的、心理的、環境的負荷の増加が懸念されています。運動「時間」の二極化傾向には、運動「内容」の二極化傾向をも孕んでいるという問題意識をもつ必要もありそうです。
2011年7月、日本体育協会日本オリンピック委員会が発表した『スポーツ宣言日本〜21世紀におけるスポーツの使命〜』には、『スポーツは自発的な運動の楽しみを基調とする人類共通の<文化>である』と謳われており、『スポーツのこの<文化的特性>が十分に尊重されるとき、個人的にも社会的にもその豊かな意義と価値を望むことができる』と続けられています(<>は筆者)。
一般に「文化」とは、「人間が単なる生物的存在以上のものとして生の営みをよりよきものとするために、所与の社会において世代から世代へ創造的・発展的にあるいは変容されて受け継がれる行動様式の総体」と考えられます。先に述べた1週間の総運動時間が60分未満の児童・生徒の7割近くが、運動・スポーツが「好き or やや好き」と答え、半数以上がもっとしたいと「思う or やや思う」と回答しているという結果は、子ども達の「自発的な運動の楽しみ」への欲求が十分に満たされていないこと、言いかえれば、採集・狩猟時代に端を発する「(運動遊びやスポーツを含めた)運動」が、私たちの「生の営みをよりよきもの」にする「文化」たりえていないことを示唆しているといったら飛躍でしょうか。
おわりに
子どもの「運動(体力)」が「必要」であるという考え方は「強制」に向かいやすく、「欲求」に任せればよいという考え方は「放任」に流れやすくなります。重要なことは、子どもが様々な「運動」と関わる過程で、どうしたら「運動」が「自由な需要(好き)」になり、どのようなプロセスを経て「運動」が「人生の価値(大切)」になっていくのかについて、リアルに問い続けることであるといえます。
巷間、「子は親(大人)の背中を見て育つ」と言われますが、我々は自分自身の背中を見ることはできません。そして「子は親(大人)の鏡」、すなわち自分の背中を見るために必要な「鏡」とは他ならぬ子ども達である、ということも忘れてはなりません。
本稿のタイトルは、「今、子どもの身体に何が起きているのか」ですが、実は私たち大人を含めた「人間の身体」に何が起きているのか、言いかえれば、私たち大人にとって「運動」が「好き」かつ「大切」なものになっているのかが問われている、ともいえるでしょう。
(拙稿「今、子どもの身体に何が起きているのか」コーチング・クリニック(2014年6月号)より抜粋)

というわけで…ブログ更新…がむばります…。

現状打破!

moriyasu11232014-01-22

年明け早々、地元(埼玉)陸協から会報が送られてきた。
会報の第四面は、恒例?となっている川内優輝選手(埼玉県庁)の手記である。
手記のタイトルは『サブテンを達成して世界へ出よう!』。
この手記を読んで、昨夏の日刊スポーツ紙面に掲載された下記の記事のことを思い出した。

2年前、川内君が勤務する春日部高校の文化祭で初めて話す機会があった。実業団に属さず、公務員として走っているという肩書の物珍しさの方が先行している存在だった。僕も市民ランナーとしてのバックグラウンドには興味を持ったものの、選手としての彼にはさして関心はなかった。
ところが、いざ話をすると印象は一変した。自分がなぜこういう練習方法をしているかという説明が明快で、しかも自分の頭で考えた形跡があちこちに見える。あれから2年たち、成績を出し続ける彼は陸上界にとってもはや“きわもの”ではなく、新しいスタンダードを生み出しつつある。
(2013年8月7日 日刊スポーツコム「為末大学 〜ニッカンキャンパス〜(川内はキワモノではない)」より抜粋)

大変光栄なことに、小生は記事の冒頭で触れられている二人の初対面の場に居合わせている。
諸般の事情によりぶっつけ本番となったトークショーの概要はコチラ
冒頭記事の続きである為末大氏の川内優輝考を以下に示す。

論理的思考
まず、自分で自分のやっていることを説明できる客観性を持っている。愚直、真面目、必死というイメージを持たれている彼の口から「効率的」「選択」「努力しても意味がないものはやらない」という言葉がどんどん出てくる。2年前、そのギャップに驚いた。
一見奇をてらうようなやり方をしている場合、大きく分けて2種類の選手がいる。1つは周囲の注目を集める目的で派手なことをやる選手、もう1つは常識を1回取っ払ってロジカルにつめていった結果、今までの常識から外れたものにたどり着いた選手。話をしてみると、常識外れを意識しているのではない。むしろ自身の体験から、常識からいったん離れてコツコツと考えて積み上げてきた彼にとっては、常識的なやり方だという印象を受ける。
例えば「なぜ試合にたくさん出るのか」と聞くと、「マラソンは経験の種目で、レース展開への対応、ペース配分など長くやってみなければわからないことがある。いくら実戦形式の練習をしても練習は試合になり得ないから、試合経験を重ねていくのが結局、マラソンランナーとして成熟する一番の近道」だと言う。
練習量が少ないことについては「練習量が多すぎると疲れた状態でトレーニングをすることになり、走り過ぎでバネもない。けがのリスクも高く、練習効果も低い。それぐらいだったら練習量を抑えて、それぞれの練習効果を高め、試合を練習化していった方がいい」と答える。常時そんな風に、すべての自分の行動に考えた形跡が見える。
極度な集中力
論理的であり、自分の姿を客観的に見られる一方で、いったんスイッチが入ると極端な集中状態に入るように見える。インタビュー中に自分の世界に入り、勢いよく話し続けて、ふと我に返るということがある。こういう集中状態に入る選手は時々いる。白人で唯一100メートルを9秒台で走っているフランスのルメートルも、試合前に相当な集中状態に入る。一度レース直前にグラウンドで見たことがあるが、周囲は目に入らず、まるで自分しかそこにいないという風だった。
一見すると陸上競技は身体の限界との戦いに思えるけれど、まず自分にブレーキをかけているのは脳であり、心理面だ。人間が本当に持っている力を出しすぎると危険だと脳が判断し、ブレーキをかける。禁止薬物に興奮剤やホルモン剤が含まれているのも、自分自身の脳のリミッターを切ることを目的にしている。恐れ、緊張、注意の散漫、さまざまな心理的理由でパフォーマンスは落ちる。
球技などチーム競技であればある程度、客観性が必要になり、自分自身に浸りきる訳にはいかない。だけど陸上のような個人競技なら自分の力を出し切ることが重要だ。その点において集中しきれる選手は強い。彼がレース後に興奮してまくし立てる姿を見ると、どうも自分の世界に入り込んで集中しきるという能力が高いのではないかと思う。
反骨精神
なぜ川内君は公務員ランナーというやり方を選ぶのか。実業団はおろか、プロとしても十分やっていけるほどの実力も人気もありながら、彼は公務員であり、市民ランナーである自分の立場にこだわっている。質問すると「既存の実業団中心の長距離界に対し、自分のような市民ランナーが活躍することで次の世代に新しい選択肢を作りたい」という答えが返ってきた。
実業団スポーツは、競技者がフルタイムでトレーニングしなければ戦えないというのをベースに仕組みが作られている。大体一つの駅伝チームで年間2、3億円ぐらいかかり、選手はほぼ会社の業務には関わらず、競技だけを行っている。年間の合宿も数回あり、その予算は小さくない。
ところが彼は日常の仕事の合間にトレーニングをする。合宿は休日に行い、試合に出場する時ですら有休を取る。それで並みいる実業団を抑えて代表に選ばれる。その存在自体が、強烈な陸上長距離界へのアンチテーゼになっている。
今、日本のスポーツ界にはドンキホーテは少ない。川内君のようなやり方は教科書的ではない。彼はうまくいったけれど、もちろん同じようにやって失敗する人もたくさんいるだろう。けれどもそうやって多様なやり方で挑む選手が多ければ、その中でハマった選手が世界的に活躍することがある。彼には学生の頃に「自分は主流ではなかった」という思いが強くある。そして高校で活躍できなければ箱根駅伝には出られず、箱根に出られなければ実業団に入れないという大きな流れに対し、カウンターとしての自分を強く意識している印象を持った。
独学の人
僕にとって、彼は独学の人である。公務員試験に独学で受かり、レースを中心に調整するという手法を独学で生み出した。自ら実践する人であり、自らの体験から学ぶ人である。なぜこれほど目立ち活躍できるのかという背景には、市民ランナーということもあるだろうけど、自ら学ぶ人がスポーツ界に少ないことを意味しているのではないか。
川内君のやり方が万人にとって正しい訳ではないだろう。けれど残念ながら彼のように常識を疑えて、実験をできる選手はそんなに多くない。とくに常時チームとして結果を出さなければいけない実業団では、リスクを取って冒険するよりも、既に行われてある程度成果が認められている手法を選びがちなところがある。皮肉なことに、過去に行われた手法から学べることは少なく、結果として学びは小さくなる。
常識とは何だ。本当にいいトレーニングとは何だ。自問自答しながら彼は走り続けるだろう。そしてチャレンジするたびに、何かを学んで成長していく。自ら考え学べる選手を作る。それが今スポーツ界が面しているさまざまな問題を解決する上で一番、重要な事だと思う。
(2013年8月7日 日刊スポーツコム「為末大学 〜ニッカンキャンパス〜(川内はキワモノではない)」より抜粋)

母校でのトークショーで川内選手の『(指導者から離れて)一人になって一人じゃなくなった』という名言に唸ってから約2年半の歳月が経過したが、以来今日に至るまで自分のスタイルを貫きながら“日本最強マラソンランナー”の看板を譲ることなく座右の銘である『現状打破!』に挑み続けている。
そんな川内選手が会報に寄せた手記は、いわゆる「試合負荷」を克服するためのトレーニングのあり方という、昨年末の大分出張を契機として自身のトピックスにもなっている問題関心の琴線に触れた内容である。

日本のマラソン界の常識は「世界」では通用しないことが多々ある。
例えば、スタート時間を過ぎても始まらなかったレースがあった。何の連絡もないまま数分が過ぎてから、市長の到着が遅れたことが原因だと判明した。結局スタート時間は20分遅くなった。この大会では先導がいないためコースを間違えて観客の声(英語)で慌てて戻ったり、前からロバ車が走って来たり、子供たちが自転車で追いかけてきて「ニーハオ」と話しかけてきたり、と驚きの連続だった。これはとある「AIMS公認レース」の話である。
あるレースのテクニカルミーティングではペースメーカーがハーフまで引っ張ると説明していた。しかし、誰がペースメーカーなのか主催者に尋ねてみても「スタートまでに連絡する」の一点張りで何もわからなかった。結局、スタートまでに何も連絡はなく、「チームワーク」と叫ぶケニア選手を中心に代わる代わる選手たち自身で初めからペースを作っていかなければならなかった。結果として、私も何回も先頭を引っ張ることになり、事前に想定していた戦略とは大きく異なるレースとなった。これはとある「賞金レース」での話である。
ある大会では空港から選手村までの送迎バスが上り坂の途中から異音を発し始めた。暫くすると、床から煙が上がり、頂上を過ぎるとエンジンが止まった。エンジンが切れたままの状態で何とか惰性でガソリンスタンドまでたどり着いた。結局、バスはオイル漏れを起こしており、代わりのバスで選手村に向かうことになった。さらに選手村では芝生を走っているとゴルフ客がいて「止まれ。そして戻れ」というようなことを言われた。選手村はゴルフリゾートであり、敷地のほぼすべてがゴルフ場であるにも関わらず、ゴルフ場の芝生はランニング禁止であったのである。また、選手村の蛇口を捻ると黄色い水が流れ、硫黄の匂いがし、大きいコオロギも部屋の中に出没するような衛生環境であった。これはとある種目の「世界選手権」での出来事である。
また、手荷物預かりの時間がスタートの50分前のレースもあった。ちなみに福岡国際マラソンであれば10分前でも何の問題も無い。この50分前という時間はテクニカルミーティングでの指示とも現地スタッフから聞いた話とも違う時間であった。これには日本選手同士で顔を見合わせ苦笑いするしかなかった。さらにスタートの3時間以上前に選手はホテルからスタート地点へバスで移動し、監督・コーチ・マネージャーとは別行動となった。日本の中高生によく見られるようなスタート直前まで監督・コーチ・付添のいずれかが選手の傍にいるということに慣れてしまった選手にとっては信じられないだろう。しかし、これは世界最高峰の「WMM」での出来事なのである。
日本の大会運営の正確さや繊細さには頭が下がる一方、それは「グローバルスタンダード」ではないということが「世界」に出てみるとよくわかる。国内だけに目を向け、国内の整備された環境を「グローバルスタンダード」だと思ってしまう「鎖国意識」のままでは、世界からあらゆる面で日本のマラソンは取り残されていってしまうだろう。
こうした経験から次世代のアスリートにはできるだけ早く海外へ出て「世界」を知ってほしいと思っている。選手本人も指導者もそうした気持ちで積極的な海外チャレンジを続けて欲しいと思っている。「日本人が思っている以上に世界中のマラソンが日本選手を待っている。日本人はチャンスを無駄にしている」、数多くの海外レースへ招待出場する中で、私は強くそう思っている。アフリカ勢が世界中のレースを席巻し、賞金レースや市民マラソンが世界各地でますます加熱している一方で、多くの国々がサブテンすらもできない状況になってきている。一方で、国際陸連ゴールドラベル選手の標準記録は2時間10分30秒となっている。そして、ゴールドラベル選手を5か国以上から必ず招待しなければならないため、毎年のように何人もサブテンランナーを輩出している日本は世界各地の国際マラソンにとって貴重な存在となっているのだ。
世界記録と差が開き、日本記録も10年以上更新されず、日本マラソン界の悪い面ばかりが叫ばれているように感じる。しかし、そうしたネガティブ思考に陥るのではなく、ポジティブ思考で「サブテンさえ達成すれば海外レースからオファーが来る。海外レースからオファーが来れば様々な経験を積むことができる。だから、まずはサブテンを達成しよう」と考えることの方が私は有意義であると思う。「世界記録や日本記録を狙え」、「五輪や世界陸上を狙え」と言われても多くの日本選手にとっては目標にしづらいだろう。世界記録や日本記録はそう簡単には出せないし、五輪や世界陸上は人数が限られている。しかし、サブテンであれば多くの日本選手にとって妥当な目標となりうる。人数制限もない。実現可能な目標は選手の努力や創意工夫を促すだろう。そして多くの日本選手がサブテンを達成し世界に挑戦していくことが当たり前になっていけば、世界の刺激を受けて、必ずその上の目標を設定する選手が大勢出てくるようになるだろう。そうすれば、自然と世界との差は再び縮まっていくに違いない。
「まずはサブテン」、30年前と変わらない目標なのかもしれないが、これからマラソンを志す次世代のランナーにとっては重要な合言葉であると私は思っている。
(2013年12月20日 川内優輝サブテンを達成して世界へ出よう!」埼玉陸協会報第31号より抜粋)

「試合負荷」を克服するためのトレーニングは、体調の乱れを意図的につくり出した状態で競技遂行の確実性を磨く「体調(身体)負荷トレーニング」、試合で遭遇しうるあらゆる環境条件の変化に対して競技遂行が左右されないことを目指す「環境負荷レーニング」、重要試合での競技における心理的条件(不安や緊張状態)下での競技遂行をモデル的に行う「心的負荷トレーニング」という概ね3つに分けられる(by金子明友先生)。
『マラソンは経験の種目で、レース展開への対応、ペース配分など長くやってみなければわからないことがある。いくら実戦形式の練習をしても練習は試合になり得ないから、試合経験を重ねていくのが結局、マラソンランナーとして成熟する一番の近道』と看破する川内選手の「連戦(トレーニング)」は、練習という日常と試合という非日常を往復しながら重ね合わせようとする従来の「試合負荷トレーニング」すなわち「練習は試合のように…試合は練習のように…」を超えた「心技体の相補的(試合負荷)トレーニング」といえるだろう。
『実現可能な目標は選手の努力や創意工夫を促す(by川内選手)』
上記手記の末尾には「川内選手には、福岡国際マラソン後のお忙しいなか執筆していただきました。感謝申し上げます」という編集者からのコメントが掲載されている。
福岡国際マラソンのレース当日が昨年12月1日であり、会報の発行が12月20日であることから考えても、原稿依頼から執筆までは相当タイトなスケジュールだったと思われる。

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びのプロも遊びの活動の本質を少しも変えはしない。たしかに彼は遊んでいるとはいえない。彼は仕事をしているわけだ。運動選手や俳優は、報酬と引きかえに遊びをするプロであり、楽しみしか期待していないアマチュアではないとしても、競争あるいは劇の本質は変わりはしない。〔プロとアマとの〕差異は、ただそれを行う人間だけに関わることなのである。

「遊ぶように働き…働きながら遊ぶ…」という“積極的公私混同”。
その多忙のなかから紡ぎ出された律儀なテクストには、「遊び(自由)」と「労働(拘束)」という二律背反やダブルバインドを超えた「スポーツ」というメタ・コミュニケーションの本質に真摯に向き合おうとする川内選手の姿勢が垣間見える。

日本のスポーツ環境は、アジアの隣国である中国や韓国のみならず、欧米諸国に比しても誇るべき豊穣性を有していると愚考するのであるが、一方でメディアや世論のみならず、スポーツ界自身による二律背反的な「遊び/労働」認識によってそれが侵食され、さらにはそれに封じ込まれようとしている現実もある。
それへの抵抗は、スポーツに関わる人間が「固定され押しつけられた遊び/労働の境界を臨機応変に変えたりずらしてしまう(by小田亮氏)」ような実践プロセスを経由しながら、斯界に孕む様々な二律背反に引き裂かれない「リテラシー」を獲得することによってのみ可能となることを自覚する必要があるだろう。
同時にそれは、ホイジンガが構想し、以降多くの研究者が手掛けてきた「遊びの復権」というテーマが、依然として我々の生きる現代社会の重要な課題であることの証左なのである。
(2011年3月1日 拙稿「スポーツは遊び?仕事?」より)

上記会報の編集責任者の欄に「秋元惠美(先生)」のお名前を発見。
高校時代、県の選抜合宿などでハードルブロックのコーチとしてご指導いただいた(「へたくそ」と言われた)ときの記憶が甦る。
初心忘るべからず。
本年もよろしくお願いいたします!