子どもの身体に起きていること

moriyasu11232014-05-30

今月発刊された「コーチング・クリニック(2014年7月号)」は記念すべき300号(おめでとうございます!パチパチ)。
巻頭言は、93年10月号から250回にわたり一度の休載もなく『ボールの転がるままに』を連載されている浅見俊雄先生。
浅見先生は、創刊号(1987年発刊:あたくし高3時)にも「スポーツをより良い形で実践するためには科学のバックアップが必要であるが、科学と実践の間にはギャップがあることも事実である。本誌はそのギャップを埋めるために科学的研究・知識を現場に分かりやすい形で紹介するものである」という推薦文を寄せられているとのこと。
この30年近い歳月の間に、どのくらい科学と実践のギャップが埋まったのだろうか…そもそもギャップとは何を指していて、その埋まり具合?はどのように評価される(できる)ものなのだろうか…などなど思いを巡らせてみる(詳細はコチラ1コチラ2)。
閑話休題
この300号の発刊を記念?して、前号、即ち299号の特集「子どもの体力・運動能力向上プロジェクト」に掲載された拙稿を再掲する。

人類の身体活動・運動の歴史
近年、子どもの体力・運動能力(以下、体力)の低下が問題視されており、その向上は文部科学省(以下、文科省)の施策の柱のひとつに位置づけられています。
しかし、私たちに、どのような体力がどのくらい必要かと問われたときに、即座にその答えを出せる人はいないでしょう。なぜなら、「必要な体力」は、人間の生活環境によって変化し、また「望ましい体力」も個人の生き方や価値観によって異なると考えられるからです。
そのような時代や社会の差異を超えた、人間にとって共通に必要かつ不変な「体力」は、果たして存在するのでしょうか。
人類学者のアイクシュテットは、20世紀初頭に「(人間の)自己家畜化」という概念を提唱しました。人間が、「人工環境の中でしか生きられない」「食料を自力でとらなくてよい」「天敵や気候変化から守られている」など家畜化の条件に当てはまる文化的・社会的環境を築き上げて自らを管理しながら、同時に「(身体を含む)自然」を破壊する能力をもってしまった結果、気候変化や環境破壊がもたらされ、身体の抵抗力(免疫力)の低下、心身症生活習慣病、そして体力低下などの問題が引き起こされている、という指摘です。
生活生存のために多くの身体活動・運動(以下、運動)を必要とする「採集・狩猟」という生活様式は、我々の祖先が地球上に誕生して以来およそ300万年という長きにわたって人類の進化史を支えてきました。一方、定住を可能にした「農耕・牧畜」という約1万年の都市文明の歴史は、長い人類史からみれば僅か1%にも満たない時間に過ぎません。人間も「動物」である以上、他の動物と同様に行動の基となる「遺伝子プログラム」をもつと考えられますが、「農耕・牧畜」以降の1万年という時間が、300万年かけて培われた「採集・狩猟」時代のプログラムを変化させるのに十分な時間とは言い難いでしょう。
ひょっとすると私たちは、1万年前の「運動が必要な身体(遺伝子プログラム)」のまま「運動を必要としない社会環境」に「適応している」のではなく「耐えている」のかもしれません。
文化人類学者のサーリンズは、現存する採集・狩猟民族の生活を丹念に調査し、成人男女が1日に費やす食料収集(労働)の時間が2〜3時間であり、集められた食料はひとり当たり2,300カロリーにも及ぶことを示唆しています。生きるために必要な栄養は満たされ、20時間以上の自由時間をもつ社会のことを、サーリンズは“初めの豊かな社会”と名づけていますが、既にこの時代に、コマまわし、竹馬、けん玉、あやとりやお手玉などの「遊び」から、つな引きや棒たおしなどの力くらべ、さらには陸上競技や水泳・水中競技、格闘技や球技に類するスポーツの原型が存在していたことも指摘されています。
これらのことは、私たちの祖先が、運動遊びやスポーツを、宗教的儀式、身体(労働)能力の訓練、人間同士や集団間の親交・交流ツール、さらには世俗的な娯楽としてなど、多様な目的に結びつけながらも、日常(社会)生活に欠かせない営みに位置づけていたことを示唆しているといえるでしょう。
アイクシュテットやサーリンズの指摘は、私たち人間にとって必要なものが「運動」であり、「体力」は運動の結果に過ぎないという当たり前のことに改めて気づかせてくれます。スポーツ科学者のカルポビッチは、哲学者デカルトの『われ思う、故にわれ在り』に対して、『われ思い、われ動くが故にわれ在り』を提唱しています。私たち人間が、動くこと(運動)によって意思を表し、目的を果たし、発達していく動物であることを考えれば、カルポビッチの主張はデカルトのそれ以上に重要な意味を帯びてくると思われます。先に述べた「自己家畜化」の進行を防ぐためのポイントとして、「動物としての人間がもつナチュラルさの回復」、「自らの身体や他者の身体との対話」、「意外性を受け止める感性の涵養」などが挙げられていることからも、個人的および社会的な生活の質(Quality of Life)の向上に「運動」が果たすべき役割は大きいといえるでしょう。
体力観と子ども観
毎年、体育の日には、文科省から、「子ども達の“体格”は親世代(約30年前)を上回るものの、“体力(特に運動能力)”は多くの項目で親の世代を下回っている」という調査結果が公表されるのが通例です。しかし、「人間の生存と活動の基礎をなす身体的および精神的能力である」という広義の体力定義に照らしてみれば、いわゆる「体力テスト」は、「体力」のなかの「身体的要素」のなかの「行動体力」のなかの「機能(作業能力)」のごく一部を測定しているに過ぎません。
広義の「体力」を海面に浮かぶ氷山に見立てれば、海面上に姿を現している「見える(測りやすい)体力」と、水没している「見えない(測りにくい)体力」に分けることができます。体力テストの結果のように数量的な測定によって優劣(向上・低下)が評価できるものは前者に位置づけられ、数量的な測定・評価が難しい「運動技能(スキル)」や「意志、判断、意欲(動機づけ)」などは後者に分類されるといえるでしょう。
私たちは、様々な方法を用いて子どもの「体力」の観察や分析を試みますが、分析とは、ある部分に“焦点化”するために他の部分を“無視”する営みでもあるため、分析結果をそのまま「氷山全体としての体力」に還元することはできません。なぜなら、氷山の一角として「見える(測りやすい)体力」の変化には、それを支えている土台としての「見えない(測りにくい)体力」の変化が影響している可能性もあるからです。
巷間、ボール投げが下手だといわれる今時の子どもは、昔の子ども(親世代)に比べて(比べられませんが)ボールキックは上手かもしれません。また、持久走記録の低下には、持久走に対する「意欲(動機づけ)」の低下が影響している可能性もあります。したがって、氷山の一角にも土台にもそれぞれに意味があり、かつ相互に関わりあっていることを認識しておくことが大切です。
また、私たちは、自分たちが子どもを観察・分析するときにかける「メガネ(まなざし)」についても、十分に意識しておく必要があります。
昭和54〜56年にかけて、当時の文部省(現文科省)は、子育てに関わる保護者向けのガイドブックとして「子育ての中の基礎体力つくり(全3集)」を発刊しました。このガイドブックは、第1集が「乳幼児」、第2集が「小学1〜4年生」、そして第3集が「小学5年〜中学3年生」を対象としていますが、それぞれの前書きに共通するのは『最近、子供に対する親の期待感が変わってきたことや社会環境、生活様式等の変化などにより、子供の基礎体力つくりについていろいろな問題が出てきており、このことが今日、青少年の体力つくりの強調されている所以です。』という記述です。
なにやら既視感のあるテクストですが、ここで注目していただきたいのは、このガイドブックが発刊された昭和54〜56年は、子どもの体力テストの結果が最も高かった時期と重なるという点です。仮に、様々な取り組みの結果、体力テストの成績が30数年前のレベルにまで戻ったとして、そのとき私たちは子ども達に対してどのような「まなざし」を向けるのでしょうか。
「近頃の若者は…」と何千年も昔の粘土板にくさび形文字で書かれているという“伝説”も耳にしますが、30数年前のガイドブックのテクストは、私たち大人が常に子どもを「能力が不足した教育の対象」と見なしているという「子ども観」の現れともいえるのではないでしょうか。
いずれにせよ、私たちは、かけているメガネの存在や性能を意識しながら、子どもの「体力問題」の本質を読み解いていく必要があるでしょう。
自発的な運動の楽しみを味わうために
昨今、1週間の総運動時間が60分未満(通学や体育授業を除く)の児童・生徒が、男子で約10%、女子では20〜30%を占めることが報告されており、運動を「する子」と「しない子」の二極化傾向が指摘されています(文科省調査より)。この運動を「しない子」へのアプローチは喫緊の課題ですが、「する子」にも問題がないとはいえません。子どものスポーツを取り巻く環境においては、国内外の大会の高度化・低年齢化、競技団体や都道府県レベルでのタレント発掘・育成事業の実施などに伴い、指導者や保護者、そして子ども達自身の競技志(指)向化による身体的、心理的、環境的負荷の増加が懸念されています。運動「時間」の二極化傾向には、運動「内容」の二極化傾向をも孕んでいるという問題意識をもつ必要もありそうです。
2011年7月、日本体育協会日本オリンピック委員会が発表した『スポーツ宣言日本〜21世紀におけるスポーツの使命〜』には、『スポーツは自発的な運動の楽しみを基調とする人類共通の<文化>である』と謳われており、『スポーツのこの<文化的特性>が十分に尊重されるとき、個人的にも社会的にもその豊かな意義と価値を望むことができる』と続けられています(<>は筆者)。
一般に「文化」とは、「人間が単なる生物的存在以上のものとして生の営みをよりよきものとするために、所与の社会において世代から世代へ創造的・発展的にあるいは変容されて受け継がれる行動様式の総体」と考えられます。先に述べた1週間の総運動時間が60分未満の児童・生徒の7割近くが、運動・スポーツが「好き or やや好き」と答え、半数以上がもっとしたいと「思う or やや思う」と回答しているという結果は、子ども達の「自発的な運動の楽しみ」への欲求が十分に満たされていないこと、言いかえれば、採集・狩猟時代に端を発する「(運動遊びやスポーツを含めた)運動」が、私たちの「生の営みをよりよきもの」にする「文化」たりえていないことを示唆しているといったら飛躍でしょうか。
おわりに
子どもの「運動(体力)」が「必要」であるという考え方は「強制」に向かいやすく、「欲求」に任せればよいという考え方は「放任」に流れやすくなります。重要なことは、子どもが様々な「運動」と関わる過程で、どうしたら「運動」が「自由な需要(好き)」になり、どのようなプロセスを経て「運動」が「人生の価値(大切)」になっていくのかについて、リアルに問い続けることであるといえます。
巷間、「子は親(大人)の背中を見て育つ」と言われますが、我々は自分自身の背中を見ることはできません。そして「子は親(大人)の鏡」、すなわち自分の背中を見るために必要な「鏡」とは他ならぬ子ども達である、ということも忘れてはなりません。
本稿のタイトルは、「今、子どもの身体に何が起きているのか」ですが、実は私たち大人を含めた「人間の身体」に何が起きているのか、言いかえれば、私たち大人にとって「運動」が「好き」かつ「大切」なものになっているのかが問われている、ともいえるでしょう。
(拙稿「今、子どもの身体に何が起きているのか」コーチング・クリニック(2014年6月号)より抜粋)

というわけで…ブログ更新…がむばります…。