大人モンダイ(その2)

moriyasu11232009-03-13

翌日の講演準備に追われていた夕刻、腹の虫が夕餉の欲望へといざなう。
全日空ホテルからJR大分駅方面にのんびり歩くこと7〜8分、九州本部氏に勧められた「かぶと」という店の暖簾をくぐりカウンターに座る。
壁のメニューに、ウニ丼やら刺身定食やらの見慣れたテクストと並んで「関あじ・関さば」を発見。
その下には「時価」の文字が…
おそるおそる板さんに尋ねる(もちろんお値段)。
平静を装いつつ、心の中で「ほー!(魂の叫び)そうきたかぁ…(むりやり納得?)う〜ん…(心の葛藤)」としばし逡巡した後、思い切って「関あじ御膳」を注文。
あじは、大分県大分市(旧佐賀関町)の関崎と愛媛県伊方町(旧三崎町)の佐田岬に挟まれた豊予海峡で漁獲され、佐賀関で水揚げされるアジのことをいう。
豊予海峡は、年間を通じてプランクトン等の餌が豊富にあることから、本来は回遊魚であるサバ・アジが居つくらしい。また、水温の変化が少なく潮流が速いため、生育するアジやサバの肥育がよくて身が締まっているという(確かにでかい)。魚本来の品質の高さに加え、魚を傷めない一本釣りの漁法、活けじめによる鮮度保持および厳格な品質管理が相まって、関さばとともに水産品の高級ブランドとしての地位を確立している。
「要するにトップアスリートを食しているわけですな…」という稚拙なコメントに無言で頷く板さん…(板さんすまん)
ちなみに、同じものが三崎側で水揚げされると「岬あじ・岬さば」と呼ばれ、より安価で取引されるようである。
ブランドとして認知されるにつれて偽物が出回るようになったため、漁協が商標を出願(1996年に登録)。以降、出荷する魚の尾に一匹ずつタグシール(写真参照・この関あじ君のIDは036222)を付け、料理店には特約加盟店の看板を掲示するなどブランド保護に努めているとのこと。
ちなみに、大分市内で“ホンモノ”が食べられる店は、この「かぶと」のほかに一店だけだそうである。
生ビール&板さんお勧めの芋焼酎お湯割りをお供に、刺身、焼き、肝焼き、あら汁、あぶりと生の握りを堪能する(うますぎる!)。
当然、まんぞくまんぞう(b片岡鶴太郎)で店を後にする(地球に感謝)。
閑話休題
前回の続きで「なぜ“体力(身体活動)”が必要なのか?」。
新体力テストで測られるような「(行動)体力」は、一定以上の負荷による身体活動を継続的に行った結果として得られる、または維持されるアウトカム(成果)であるということができる。
したがって、その「体力」が「必要」であると考えるならば、そもそも「なぜ身体活動が必要なのか?」という問いを立てることもできる。
子ども時代の身体活動は、子ども時代の健康に寄与するだけでなく、大人になってからの身体活動や健康への「持ち越し効果」が得られるという指摘がある。つまり、活動的で健康な子どもたちは、大人になってからも活動的かつ健康である可能性があるということだ。
これは、健康に主眼を置く行動心理学的研究などにおいて、子どもの身体活動の重要性の拠り所とされている。
我々大人の実感としても、なんとなくありそうな話ではあるが、この点については未だ科学的エビデンスにも乏しく、安易に腑に落とすべき問題ではない。
「子ども観」「体力観」の不易流行を追いつめるためには、もう少し根源的に問う必要があるだろう。
その一つのヒントに「人間の自己家畜化(Self-domestication)」という警鐘がある。
「家畜」とは、「人間が飼育し繁殖させて利用し、農業生産にも役に立つ畜類をいう。広い意味では、愛玩動物(ペット)をも含み…(by生物学事典・岩波書店)」と定義されている。
家畜(ペット)化の条件としては、「人工環境のもとに置かれる(その中でしか生きられない)」「食料が自動的に供給される(自力でとらなくてよい)」「自然の脅威から遠ざかる(天敵・気候変化から守られている)」「品種改良(人為淘汰)されていく(人間に役立つ動物化)」「繁殖を管理される(人間に都合のよい雌雄のかけ合わせ)」などが挙げられる。
この条件を満たした家畜(例えばブタやイヌ)は、その元となる野生動物(例えばイノシシやオオカミ)と比較して、口先の短縮(牙の退化)、顔面(顎骨)の縮小、脱毛・巻毛・縮毛の出現、脂肪の増加(肥満化)、椎骨数や四肢骨の変化、皮膚色素の増減、性成熟の加速化と性的異常、長寿化…といった特徴をもつが、実はこれらは全ての動物のなかで家畜と人間(ヒト)にだけみられる形質的変化なのである。
さらに言えば、高度に発達した現代文明が(身体を含んだ)自然を破壊する能力を持った結果、原子力とその廃棄物問題、自然破壊による気候変化、エネルギー消費量の増加、化学物質による環境破壊、衛生志向による抵抗力の低下(アレルギー性疾患)、過密人口や社会的・心理的ストレスによる心身症生活習慣病、体力低下etc…といった様々な社会的・身体的問題を引き起こしている。
20世紀初頭、ドイツの人類学者であるアイクシュテットは、人間が人工環境のなかで自分自身を家畜のような状態にしていると考え、その証拠として、人間(ヒト)の身体の形態に家畜と同じような独特の変化が起きていることを指摘し、これを「自己家畜化」と呼んだ。
この考え方は、ローレンツ小原秀雄氏らに受け継がれ、さらに人間の「無痛化への欲望(by森岡正博氏)」という難問に導かれていく。

無痛文明論

無痛文明論

小原氏は、この「自己家畜化」の進行を防ぐために、以下のようなポイントを挙げている。
・ 動物である人間がもつナチュラルさの回復(現代のもつ不自然さ、人間はヒトであることの自覚と環境問題(エコロジー)への意識づけ)
・ 自らの、あるいは他者の身体との対話(最も身近な自然である「身体」について知る・感じる機会や、動物の本能的欲求である「遊び」を通したふれあい)
・ 意外性を受け止める感性の涵養(形や動きの定まっていないものとの接触
・ 手探りでする「もの」づくり(マニュアル化されたものに頼らない創造・創作活動)
これらのことを勘案すると、自己家畜化の進行を抑え、ヒトという動物としての肉体(≠身体)を取り戻すという課題に対して、レジャー・レクリエーションのような身体活動の果たす役割は大きいのではないか。
というようなお話をする。
次に、「“大人目線”から“子ども目線”へ」。
「持ち越し効果」「自己家畜化」といったタームを持ち出しておいて何だが、身体活動にこのような付加価値つけて子どもに推奨するのは、「大人目線」による価値の押し付けであると言わざるを得ない。
では、どうやって子どもたちを「動機」づけるのか?
大人と子どもの学習の仕方には相違がある。
大人の学習が「必要性、意図的、体系的、系統的、領域限定的」であるのに対して、子どものそれは「興味関心、偶発的、体験的、試行錯誤的、総合的」であると言われる。
また、愛知県の高浜市が行った調査によれば、子ども(我が子)が自己肯定感をもっていると感じている大人が86%であったのに対して、実際に自己肯定感を感じている子どもは38%に過ぎなかったという。
「おとなはむか〜しのじぶんを、わすれてしまうい〜きものぉさ(by 沖田浩之氏)」。
子どもをどうにかしようと思ったら、まずは大人との相違や互いの認識のズレを意識し、常に「子どもは小さな大人ではない!」と我が身に言い聞かせる必要があるだろう。
一方で、ひとりの人間として両者に共通する部分もある。
それは、人間を何らかの活動に向かわせる「動機」の問題である。
あじ・関さばが豊富なプランクトンに「動機づけ」られて豊予海峡に留まるのと同様に、身体活動の継続を強化するためには「餌(報酬)」の存在が不可欠である。
この餌、すなわち「報酬」と「行動」の関係によって引き出される動機づけには、大きく分けて二つある。
一つは、外的な「報酬(目標)」により「行動」の意欲が引き出される「外発的動機づけ」であり、もう一つは、行動それ自体が「報酬(目標)」となり意欲を引き出すよう働く「内発的動機づけ」である。
人間は(関あじと違って)多くの欲望や関心が重なり合って「動機づけ」られており、「外発・内発」という二分法でクリアカットできるほど事は単純ではない。
しかし、子ども(大人)を動機づける究極の餌が「面白さ」であることに異を唱える人はいないはずである。
子ども(大人)がゲームにはまるのは、それ以外に、またはそれ以上に面白いものがない(または知らない)からに他ならない。
小川純生氏は、「面白さ」の5Cとして、「Catch(Sense):感知する面白さ=五感:見る、聴く、触る、嗅ぐ、味わう」「Create:創造する面白さ(秩序)←→破壊する面白さ」「Control:コントロールする面白さ:精神・肉体・道具・その他」「Communicate:コミュニケーションする面白さ:人と人、人とモノ」「Comprehend:ものごとを理解する、わかる面白さ」を挙げている。
この5Cが、先に挙げた自己家畜化の進行を防ぐポイントと共通する部分の多いことも注目に値する。
さらに、この「面白さ」を引き出すために必要不可欠なこととして、新しい、あるいは難しい課題に対して、自分自身で工夫し、全力でプレイすることによって上手にできるようになる…というループが回るような条件(環境)設定がなされているかという問題がある。
「フロー(byチクセントミハイ)」という状態がある。
「フロー」とは、時間を忘れ、集中し、わくわくする状態のことを指すが、これは自分の能力レベルと挑戦レベルのバランスが良いときに沸き起こると言われている。

(技を克服する楽しみとして)工夫するというか、新しいものをつくるというのと、人のやっているものを自分ができるようになるように工夫するということがあると思う。やっぱりできると楽しいじゃないですか。そこをもくろんで、うまくいったときは最高だよね。それが人にやらされてやったんじゃやっぱりまずい。(…)
うまい指導をされて、できるように周りをつくっていく。それで、できるのを待っている。できたときには、おれができたんだと思わせる。(…)
やったことが自分でできたんだという感覚を持てたときのものと、やらされてやったものといったら、最後になって頼り方が違う。
(平成13年度日本体育協会スポーツ医・科学研究報告『ジュニア期の効果的指導法の確立に関する基礎的研究─第2報─(体操競技・加藤澤男氏)』より抜粋

畢竟「フロー」とは、大人or子どもの別や、持っているスキルのレベルにかかわらず、好奇心や興味(面白さ)に促され、自律性(自分でやった)と有能感(自分でできた)がともに高められている状態のことを言うのであろう。
すべての子ども達の「フロー」を引き出す仕掛けが必要である。
というようなお話をした(たぶん)。
つづく…(度々すみません)