大人モンダイ(その1)

moriyasu11232009-03-10

3月7〜8日に大分大学で開催された「九州レジャー・レクリエーション学会大会」に参加。
学会理事長を務める畏友T君の計らいで、基調講演者およびシンポジウムの指定討論者としてお招きいただく。
写真は、前日に宿泊した大分全日空ホテルオアシスタワー(13階)からの眺望。
じゃらんの「初めてのお客様限定!お年玉モニタープラン」で、モデレートシングル(朝食付き)がなんと6,900円!(普通なら諭吉以上)
今回が、最初で最後の宿泊になるだろう。
閑話休題
基調講演のテーマは「“子どもの体力問題”にみる子育ちの現状とおとなの責任」。
当日の朝に「“子どもの体力”に関する信念対立の超克」という副題をつける。
ネーミングの理由についてはコチラ
講演の全体を貫く「大人が子どもの自律を妨げてはいないか?」という問題意識をベースに、以下の6つのサブテーマを掲げてお話させていただく。

  • “子どもの体力”は、ほんとうに低下しているのか?
  • “体力”という言葉の多義性
  • “体力問題”は“大人問題“
  • なぜ“体力(身体活動)”が必要なのか?
  • “大人目線”から“子ども目線”へ
  • 信念対立の超克を目指して

まず「“子どもの体力”は、ほんとうに低下しているのか?」。
改めて言うまでもないが、毎年体育の日に文科省が発表する「体力・運動能力調査結果」では、「体格(身長、体重など)は、親の世代を上回る」ものの、「体力は、昭和60年ごろから現在まで低下傾向」にあり「多くのテスト項目で親の世代(約30年前)を下まわる」という指摘がなされている。
また、この原因として「学習活動や室内遊びの増加による外遊び(スポーツ)時間の減少」「手軽な遊び場の減少(空き地や生活道路etc…)」「少子化や習いごと(塾)通いなどによる仲間の減少」という、時間、空間、仲間、すなわち「三間(さんま)の減少」が挙げられている。
ところが「1日の運動・スポーツ実施時間の変化」について、今年1月に速報された全国悉皆調査と20年前の抽出調査データを比較してみると、中2の女子だけがいわゆる両端(30分未満と120分以上)の比率が高い“二極化”にシフトする傾向にあるが、それ以外(小5男女および中2男子)は、むしろ少ない方から多い方への「上滑り(60分〜120分や120分以上の増加)」的な変化を遂げているとみることができる。
悉皆と抽出を単純に比較することはできないが、この点についてはさらに詳細な分析が求められるだろう。
また、我が職場で40年近くにわたって継続的に行われてきたスピードスケートのジュニア強化選手のデータでは、握力や背筋力などの等尺性筋力は一般人同様に低下傾向を示しているが、最大酸素摂取量などの専門的体力は向上傾向にある。
要するに、体力低下は活動的ではない子どもだけのモンダイではなく、一口に「体力」といっても見方(項目や測定方法)によって上がったり下がったりするということである。
というようなことを、データを交えてお話しする。
次に「“体力”という言葉の多義性」について。
これまでに数多の研究者が、「体力」という言葉について定義をしている。
「人間活動の基礎となる身体的能力(石河利寛氏)」といった漠としたものから「筋活動によって外部に仕事をする能力(宮下充正氏)」という具体的なもの、さらには「身体活動をおこなう能力と関係し、技術的・健康的・生理的な要素を包含(ACSM,2006)」といった包括的な概念まで多岐にわたる。
また、猪飼道夫氏は、「体力」を「身体的要素」と「精神的要素」に分け、それらをさらに「行動体力」と「防衛体力」に分けることによって構造的な分類を試みているが、新体力テストで測られている項目は「身体的要素」のなかの「行動体力」のごくごく一部に過ぎない。
さらに、大人が実感としてもっている子どもの「総体的な体力像」に最もインパクトを与えている体力要素は、行動体力ではなく防衛体力であるという指摘もある。
つまり「体力」については、定義も多様、測定もエイヤ!で行われており、それらは大人の実感とも乖離している傾向にあると言わざるを得ない。
無論、一方的にそれが「悪い」と言いたいわけではない。
そうせざるを得ない事情もよくわかる(我々もやってるし…)。
ただ、そのような状況にあることを理解した上で、子どもたちに必要な体力とは何か、それはほんとうに低下しているのか、低下するのは困ったことなのか、困るとすればその理由は何なのか、ということを真摯に問う必要があるだろうと力説する。
次に「“体力問題”は“大人問題“」。
子どもの体力を測定し、その傾向について分析し、低下の是非や対策について論じているのは、言うまでもなく我々「大人」である(子どもはそんなことはしない)。
そして、社会環境の変化、すなわち子どもの体力を低下させる原因と言われている「三間の減少」に棹さしているのもまた「大人」である。
そう考えれば、「子どもの体力問題」は「大人のマッチポンプ」と言えなくもない。
さらに、子どもを心配するフリをしている「大人の本音」もある。
大人(親)は、昔に比べて自分のやりたいことが多くなっており、都合良く子どもの面倒をみてくれるところはないかと考えている(幼稚園、保育園、幼児教室や教材、学校、塾、習い事、テレビetc…)。
その結果、子どもを「半分かまう(by吉本隆明)」というまなざしを向けにくくなっている。
かくいう我が家(共働き)も言うに及ばず…義母や保育園に足を向けて寝ることはできない。
また、このような大人の「本音」や「罪悪感」に便乗し、我々の「危機感」や「不安」を煽ることによって利益を得ようとする企業やメディアの存在も無視できない。
「私たちは、正体が分かっているものに恐怖を感じ、正体が分からないものには不安を感じる(byフロイト)」
結果的に、我々は、正体を捉えることのできない「子ども」や「体力」に対して漠然とした「不安」を抱くようになる。

子どもに対しての心配、不安、自信のなさというのは、自分に対しての心配、不安、自信のなさそのものである。

まことに耳の痛いご指摘である。

現代生活が進歩してくるにつれて、体力として要求されるものは異なってくるので、必要な体力の標準を科学的に定めることは重要な視野の一つである。(…)
体力を高めたり維持する方法についてはたくさんの研究があり知識も増えたが、どの程度の体力が我々に必要かを問われたとき、すぐに答えることのできる人は少ない。なぜなら、望ましい体力というものが、人により異なるからである。(…)
しかし同時に、時代や社会の差異を超越した<人間>に共通に必要な不変なものがあるはずである。(…)

我々大人は、自分(の本音)を棚上げすることなく、子どもを、そして彼らを取り巻く社会環境をリアルに見つめることによって、「子ども観」「体力観」の不易流行を追いつめ、「<人間>に共通に必要な不変なもの」に接近していく必要があるだろう。
というようなお話をする。
つづく…(いつもすみません)