大人モンダイ(その3)

moriyasu11232009-03-17

写真の掲載理由は後述するとして、最後のテーマは「信念対立の超克を目指して」。
このテーマについては、この学会に向けた抄録の意味合いで認めた「体力低下問題のモンダイ」でも少し触れている。
「体力」を海面に浮かぶ氷山として捉えた場合、海面上に姿を現している「測れる、測りやすい体力」と、水没している「測りにくい、測れない体力」に分けることができる。
猪飼の「体力」の分類に基づけば、新体力テストなどの結果は、「身体的要素の行動体力」の一部として前者に位置づけられ、「意志、判断、意欲(動機づけ)」などは「精神的要素の行動体力」として後者に分類されるだろう。
我々は、本来「不可分の全体」として成立する「体力」を、便宜的に独立した要素、すなわち「身体的」「精神的」「行動」「防衛」などに分けて考えることによって(科学的な)観察や分析を進めている。
このような分類に基づき、我々は「子どもの体力」について様々な角度からの「分析」を試みるが、そこで観察された内容は、観察者の「意図」と「方法」に依拠した一面的・断片的な要素に過ぎない(by村木征人先生)。
言い換えれば、「分析」とは、ある部分に「焦点化(注目)」するために、他の部分を「無視」する営みでもある。
したがって、分析結果は直ちに「氷山としての体力」に還元できるものではない。
しかし、氷山の一角も、それを支える土台にも、それぞれに「意味」はある。
見えにくい土台の部分がしっかりとしていなければ、水面上の見える部分も貧弱で不安定なものとなってしまう。換言すれば、見える部分の変化には、見えない部分の変化も影響しているのである。
巷間いわれるように、ボール投げが下手だと言われる今時の子どもは、昔の子どもに比べてボールキックは上手かもしれない。しかし、仮にそのような歴史的文脈を考慮して、測定項目を「ボール投げ」から「ボールキック」変更したとしても、その項目の普遍性に同意する人は恐らくいない(また変わるかもしれないし…)。
重要なことは、様々な「分析」に常につきまとう「注目」と「無視」の間を架橋するために必要なものは何かを問い続けること、すなわち「子どもの体力」に関する「多様なデータ」をどう読み解くかという「知性」が求められているのである。
そのような知性を涵養するための思考の原理に「現象学」がある。
通常、我々は、「正しいこと(真)」「善いこと(善)」「美しいもの(美)」といった事柄が客観的に実在するという「確信」を抱きつつ、社会生活を営んでいる。これは「ある事象(X)が客観的な真理として存在するから、人はXが正しいと認識・判断する」という「客観論・実在論的」な考え方ということができる。
一方、「人の中に事象(X)についての諸知識・像があるから、人はXが正しいと認識・判断する」という前提に立ち、「客観」的にみて「正しい」ものの存在を前提しないこと(判断停止・エポケー)によって得られた新しい知識や経験(実践)が、我々の「確信」を深めることに繋がるという考え方を「(現象学的)還元」と呼ぶ(byフッサールほか)。
「体育・スポーツ」に対して批判的な目を向けている人が、「体育・スポーツにこだわらない」取り組みが重要であると主張するのをよく耳にする。
斯界に関わってきた人間のひとりとして、これまでの体育・スポーツが包含していた様々な問題点について自省し、パラダイムシフトすべきであるという指摘には大いに首肯する。
しかし、体育・スポーツを対立軸に置き、それに「こだわらない」という主張には、体育・スポーツに相対する立場への「こだわり」を感じてしまうのもまた事実である。

善く士為る者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つものは与せず。
老子「第68章」より抜粋)

老子は、「同盟」も「敵対」も、「主体と敵」という二元論であることに変わりはないことを示唆する。
「あちら」と「こちら」という二元論で考え、自説の「正しさ」を主張しようとすれば、他説の誤謬に対する意識的・無意識的な欲望を遠ざけることは難しい。
この種の欲望は、武道で言うところの「居着き」、すなわち自身のパフォーマンスの最大化(最適化)よりも別の「何か」に気を取られている「待ち」の状態といえる。
我々を取り巻く社会は、「こちら」と「あちら」が複合的に構築している「システムとしての社会」である。
したがって、「あちら」の存在をも「こちら」に取り込みつつ「最適解」を模索し続けようとする知性にのみ、より守備範囲の広い「正しさの確信」が訪れる。
換言すれば、「私もあなたも<絶対的真理>を知らない。恐らく私たちは、どちらも少しずつ間違っており、また少しずつ正しい。ならば、私の間違いをあなたの正しさによって補正し、あなたの間違いを私の正しさによって補正してはどうか」と考えることによってのみ、それぞれ立場の人間が自分の主張の背後にある暗黙の認識を自覚化・相対化して、一層洗練された考え方にいたることができる。
それが、老子の説く「脱二元論的視座」なのである(違うかもしれない)。

「からだ」の社会学―身体論から肉体論へ

「からだ」の社会学―身体論から肉体論へ

われわれの認識手段は、その性質であるsubjectとobjectの対立を、どこまでいってもまぬがれ得ない。(…)自分のからだを対象にすると─ふつうの対象認識とはちがって─主体と客体がごちゃまぜになってしまうからである。そこでは、いままで、無意識のうちに止揚されていた主体が、突然、われわれの前に─ニーチェに言わせれば、不気味に─姿をあらわす。スポーツを実際におこなっている人の科学だけは、いわば肉体・参与観察の最たるものだからそのような「見るもの」と「見られるもの」の整理や解消に役だって身体の意味をあきらかにできるという声もあるが、過去のいわゆる現場主義の社会学、現地のインフォーマントを介さない人類学の直接的手法も解消できなかったように、ここでも、やはり無理である。ともすれば、それらも、しばしば神がかりになってしまう(主体と対象が、いわゆる「錯綜」しあった)ゆがんだ心身一元論のわだちを踏みかねない。(…)
このジレンマを解消するには、広い意味の、そして深い意味の人間学─人間の身体と行動についての知識─が不可欠になる。
(池井望「序論 なぜ身体ではなく肉体か」より抜粋)

生涯学習生涯スポーツ)」とは、一人ひとりの人間が、生まれてから死ぬまでの人生を通じて、様々な身体活動・運動と関わり、その結果「体を動かすこと」が、どうしたら人々の必要や欲求から出発する自由な需要に育てる(好きになる)ことができるのか、それはどのような積み重ねをへて確固たる自らの人生の価値(大切なもの)になるのかを、文字どおり「学ぶ」ことにある。
巷間、子は親(大人)の背中を見て育つと言われるが、親(大人)は自分の背中を見ることができない。できるのは、我々大人自身が、「身体活動」や「子どもの体力問題」に対してどのように動機づけられているかについて、自身の「身体」を通して確認することだけである。
その我々の姿を映し出す鏡は、他ならぬ「子ども達」なのである。
イノシシ親子の写真をバックに、そのようなお話をしつつ基調講演を締める。
講演後のシンポジウムで、あるシンポジストが「子どもは遊びの天才」といい、別のシンポジストが「子どもは遊びを知らない」と発言したことに対して「矛盾している」という指摘がフロアからあった。
指定討論者の立場から、「子ども」は「完全に独立した一個の人格を持つ社会的存在」であると同時に「不完全さをもつ存在」でもあるという両義性を止揚アウフヘーベン)していく必要があり、その揺らぎの共有こそが「子ども問題」を本質的に追いつめることに繋がるのではないかとコメントさせていただいた。
「矛盾」の意味は、「つじつまが合わないこと」だけではない(以下、過去のブログに同文)。
畢竟、大人が一人ひとりの子どもに対して「半分かまう(by吉本隆明)」というまなざしを向け続けることによってしか、「実りある子育ち」に接近することはできない。
今回の学会を通じて、そのことを再認識させられた次第である。
日々、我が子の自律を妨げている言動について、まさに朝令暮改で悔い改めている我が身に微かな「有能感」を感じながら、心地よい疲労感とともに帰途についた。
学会関係者の皆様、ほんとうにありがとうございました。