プレイの意味

moriyasu11232009-03-24

日体大陸上部員が大麻栽培 麻取が取り調べ』
日本体育大学陸上競技部の学生が大麻事件に関与しているとして、関東信越厚生局麻薬取締部から取り調べを受けていたことが23日、分かった。
大学は5日付で学生1人を退学処分とし、陸上競技部石井隆士部長、水野増彦監督、小林史明コーチを解任したことを明らかにした。
日体大広報部は「捜査中のため、詳しい内容は言えない」としている。
関係者によると、同大の陸上競技部の学生が横浜市青葉区内にある同部合宿所内で大麻を栽培していたとして、関東信越厚生局麻薬取締部が2日に家宅捜索。学生はインターネットで種子を手に入れて栽培したという。
日体大陸上競技部箱根駅伝で5連覇を含む9回の総合優勝を遂げた名門で、今年も3位に入賞。男子マラソン谷口浩美氏や女子マラソン有森裕子氏を輩出した。
(平成21年3月23日 産経ニュース)

頻発するスポーツ界の薬物問題には、ある種の共通点があるような気がしてならない。
それは、問題に対してシンプルな「答え」が用意されていることにある。
その「答え」とは、倫理観の欠如した人間が、ひとときの快楽や不当な利潤(勝利または記録に付随するものを含む)を得ようとして、敢えてルールの一線を踏み越えたというものである。
事実、マスコミは違反者のみならずその関係者まで指弾し、法律(ルール)もまたそれ相応の罰を科してきた。
いつの時代にも倫理観の欠如した人間はいただろうし、スポーツ界に限らず社会的なルール違反が後を絶たないという現況もある。
だから、この「答え」は、間違ってはいないのだろう。
しかしそれは、彼らが違反することの「ほんとうの答え」にはなっていないようにも思える。
簡単でわかり易い「答え」というのは、しばしばものごとの本質を隠蔽する。
彼らにまっとうな倫理観が欠如していたというのは、ほんとうなのだろうか。
彼らに欠如していた倫理観は、ほとんど我々にも欠如していて、彼らが追及した様々な欲望は、ほとんど我々も共有していると考えるべきではないのか。
問題の本質は、選手や指導者の人品骨柄とは別のところにあると感じる。

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

すべて遊びは規則の体系である。規則は、何が遊びであり何が遊びでないか、すなわち、許されるものと禁じられるものとを決定する。この取りきめは恣意的であり、同時に強制的であり、決定的である。(…)
もし破られるなら、遊びは即座に終わり、違反という事実そのものによって破壊されてしまうのだ。なぜなら、遊ぼうという欲望、つまり遊びの規則を守ろうという意志によってだけ、規則は維持されているからである。
(byカイヨワ氏)

スポーツを取り巻く報酬に絡みつく歪んだ勝利至上主義…その土俵から脱落した人間が感じる無能感や統制感…これらはすなわち、ルール違反という欲望へ点火するマッチの役目を果たす。
もちろん、今回の学生が何に動機づけられたかは不明であるが…

たしかに、遊びは勝とうとする意欲を前提としている。禁止行為を守りつつ、自己の持てる力を最大限に発揮しようとするものだ。しかし、もっとも大事なことは、礼儀において敵に立ちまさり、原則として敵を信頼し、敵意なしに戦うことである。さらにまた、思いがけない敗北、不運、宿命といったものをあらかじめ覚悟し、怒ったり自棄になったりせずに、敗北を甘受することである。(…)
実際ゲームが再開されるときは、これはまったくの新規蒔き直しなのだし、何がだめになったわけでもないのだ。だから遊戯者は、相手を咎めたり自分に失望したりするのではなく、一そうの努力をするがいいのである。
(前掲書より抜粋)

あまねく人間文化は、プレイ(遊戯)のなかに、プレイとして発生し、プレイとして展開してきており、それはすべてが規則の体系であると、カイヨワは指摘する。しかし、ここでいう「規則の体系」とは、プレイをプレイたらしめるために必要なものであり、違反を前提とした規制のためのものではなかったはずである。
こと薬物の問題に関しては、厳罰化というベクトルの向きを反転させることは極めて難しい。
そして今回も、当該学生は退学、その他の部員の活動自粛、スタッフの解任という「いつものかたち」で幕が引かれようとしている。
しかし、我々がほんとうになすべきは、本来人間文化に内在しているはずの「プレイ」の本質について根源的に問いつつ、少しずつでもこのベクトルの向きを変えるための知恵を絞ることではないのか。
多くの事件とそれを構成したもの全ての「特殊性」に目を向けるやり方の対極に、それらと自らの「同質性」に目を向ける方法がある。
畢竟、それは彼らと自分、そして社会と自分との繋がりを「想像」することである。
勿論、それで何かが解決できるわけではない。
しかし、「そこ」が起点であり、「そこ」から考えなければ、本質的な解決への糸口が見いだせないことだけは確かなように思われるのである。