自発性と内発性

moriyasu11232015-10-02

(´-`).。oO(最後のエントリーはゴールデンウィーク明けか…とりあえずいつもの再掲で切り抜けるか…)
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人間という種の特性を『Homo Ludens(ホモ・ルーデンス、遊戯する存在)』と評したオランダの文化史家であるヨハン・ホイジンガは『遊びとは、あるはっきり定められた時間・空間の範囲内で行われる自発的行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの行為の目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またそれは〈日常生活〉とは〈別のもの〉という意識に裏づけられている』(ボールド筆者)と指摘する。
そして、遊びとは遊び以外の何ものでもなく、その遊びそのものの中に緊張、歓び、面白さがあるが、とりわけ重要なのは“面白さ”であり、この“面白さ”こそ遊びの本質に他ならないと続ける。
ホイジンガ以前の遊び(プレイ)論のほとんどは、遊びは遊び以外の何かに役立つものという手段的な意味づけ(外在的価値)や生物学的観点から離れられなかったが、彼の功績は、人間を遊びに誘い込み、虜にさせるものは“面白さ”であるという遊びの本質的かつ人間的価値(内在的価値)を見いだし、遊びという行為を人間の欲求充足のための自己目的的な活動と捉えることによって、それまでの観点を反転させたことにあるといえる。
本研究において、運動遊びがもたらす心理社会的効果に影響を与える媒介変数とされている「プレイフルネス」は、「より楽しくおもしろい状況に変える、またはそのような環境を作り出す個人の能力」「陽気にふざけ遊ぶ心」などと定義され、その内部要素として、行動の自己決定・自発性、楽しさ、没頭などが挙げられているが、これらはホイジンガが提示した遊びの本質(内在的価値)とも重なり合うものである。
ホイジンガの遊びの定義やプレイフルネスに共通する「自発」とは何か。
広辞苑(第五版)では「【自発】自ら進んで行うこと、自然に起ること」とされているが、社会学者の宮台真司氏は、「自発性」は限定された枠内のルールや課題などが与えられた人為的環境のなかで主体的に動くことであり、「内発性」は人為的環境に左右されずに主体的に動くことを指す、すなわち、自発性は環境に依存しているが、内発性は環境から自立しているとして両語を区別する。そして、内発性は唐突に生まれるものではなく、自発性に基づいた活動の継続によって涵養されるものだというのである。
本報告書の序文では、子どもたちに運動遊びを提供し、楽しそうに遊んでいる様子に満足している指導者が、終了後に子ども達から「(この後)遊んでもいい?」と質問されたというエピソードが紹介されている。遊びの本質について考えさせられるエピソードではあるが、「遊んでもいい?」という(自発的な)問いを原初的な内発性の現れと捉えれば、指導者の働きかけは奏功しているといえるのかもしれない。したがって、内在的価値(プレイフルネス)を重視する目的論と外在的価値を重視する手段論とを対立的に捉えるのではなく、状況に応じて両者のバランスをとりながら、子どもたちの運動遊びに対する自発性を引き出すことが喫緊の課題であるといえるだろう。
換言すれば、ホイジンガが提示した『遊びの面白さは、どんな分析も、どんな論理的解釈も受け入れない』という遊びの本質を再度反転させつつ、子どもたちの運動(スポーツ)遊びに対する自発性を引き出し、それを内発性へと昇華させることが求められているともいえるのである。
(拙稿「子どもたちが内発的に行う運動遊びとは?─手段論と目的論の二元論を超えて─」 平成26年日本体育協会スポーツ医・科学研究報告『心理社会的側面の強化を意図した運動・スポーツ遊びプログラムの開発および普及啓発─第2報─』より)