生涯学習

moriyasu11232009-06-09

4月の終わり、春季サーキットへの出張前にできた「空白の一日」を使って、藤岡温泉に湯治(病気ではないけど)にゆく。
自宅から2時間弱で行き来できるこの温泉は、我が家の行きつけである。
翌日は、これまたおきまりの「群馬サファリパーク」。
周辺には、ここ以外にレジャー施設がない(周辺と行っても車で小一時間)。
寂れた感のある遊園地エリアも、未就学の子どもたちにはちょうどよいアトラクションである。
遊園地の奥に進むと、ポニーライドの看板(当然、乗りたいとせがまれる)。
3歳から小学生か…うん問題ない。
およよ…その下には体重制限(50㎏未満)。
これも問題ない(今のところ…)。
ポニーの背中で嬉々としている我が子を眺めながら、さきほどの看板のことを考える。
なぜこのような制限が必要になったのか?
肥満の子どもが増えたからなのか?
ポニーの体力が衰えているからなのか?
ちょっと微妙な子は、この場で体重を測るのだろうか?(ダメなら乗れないのだろうか?)
現在の小学生の平均体重はどのくらいなんだろうか?(ちなみに現在の小6の平均身長は約145cm、体重は約40kg、BMIは19.0(標準)くらいらしい)
小学校時代の自分の体重はどのくらいだったんだろうか?(実家で保管されている通信簿(小6)を母親に確認してもらったところ、身長が152.7cm、体重39.9kgだったようである。BMIは17.1(やせ))
身長順に並ぶと、だいたい一番後ろか後ろから二番目だったなぁ…
そういえば、小6(29年前)のとき身長がほぼ同じくらいの野球仲間数人と、新聞購読のおまけでもらったチケットにて後楽園球場(もちろん東京ドームではない)の日米対抗野球に興じた後、優待チケットを握りしめてローラースケート場に行ったら「あんたたち中学生でしょ」といってチケットを売ってもらえなかったっけ…
そんな物思いに耽っているうちにポニーライド終了。
エサやり体験バス「パックン号」へと向かう。
なんの脈絡もないが、ちょっと前に書いた拙稿を再録する。

「子どもの体力」を問題視する「大人」の立場には、大きく分けて二つある。
ひとつは、多くの人間は外発的動機(外からの賞罰によって喚起される意欲)によって動くものとし、自律的な能力にあまり信頼を置かない。大人側が予め体系化した「体力」にそって対策を講じようとするため、どちらかと言えば「大人主導的」な立場といえる。もうひとつは、人間は「内発的な動機(好奇心や向上心)」を持った存在であり、それらを喚起できる環境を整えれば、自発的・自律的に身体活動に向かう能力を備えているとみなすもので「児童中心的」な立場ということができる。児童中心派からすると、大人主導派は体力向上を優先して、子どもたちの関心から離れた運動を押しつけようとしているように見える。逆に、大人主導派からみると、児童中心派の教育は、放任的で無責任であり、明確な体力やスキルを身につけることにつながらないと感じている。このような立場の違いは、それぞれが主張する「体力」の「すがた・かたち」が異なっているために生じているといってよい。言い換えれば、体力というものに対する「信念や関心の対立」ということができる。
「体力」を海面に浮かぶ氷山として捉えた場合、海面上に姿を現している「測れる、測りやすい体力」と、水没している「測れない、測りにくい体力」に分けることができる。一般的な「体力」の分類に基づけば、新体力テストの結果は、「身体的要素の行動体力」の一部として前者に位置づけられ、「意志、判断、意欲(動機づけ)」などは「精神的要素の行動体力」として後者に分類されるだろう。このような分類に基づき、我々は「子どもの体力」について様々な角度からの「分析」を試みるが、「分析」とは、ある部分に「焦点化(注目)」するために、他の部分を「無視」する営みでもある。したがって、その分析結果は直ちに「氷山としての体力」に還元できるものではない。しかし、氷山の一角も、それを支える土台にも、それぞれに「意味」がある。見えにくい土台の部分がしっかりとしていなければ、水面上の見える部分も貧弱で不安定なものとなってしまう。すなわち、見える部分の変化には、見えない部分の変化も影響しているのである。
巷間いわれるように、ボール投げが下手だと言われる今時の子どもは、昔の子どもに比べてボールキックは上手かもしれない。しかし、仮にそのような歴史的文脈を考慮して、測定項目を「ボール投げ」から「ボールキック」変更したとしても、その項目の普遍性に同意する人はいないだろう。重要なことは、様々な「分析」に常につきまとう「注目」と「無視」の間を架橋するために必要なものは何かを問うこと、すなわち子どもの体力に関する多様な「データ」から問題の「本質」を読み解こうとする「知性」である。
子ども時代の身体活動・運動の「持ち越し効果」を考える上で、「生涯学習」という視点は欠かせない。この学習は、一人ひとりの人間が、生涯を通じた様々な身体活動と関わりつづける過程で、「体を動かすこと」が、どうしたら人々の必要や欲求から出発する「自由な需要(好きになる)」に育てることができるのか、それはどのような積み重ねをへて確固たる「人生の価値(大切なもの)」になるのかを、文字どおり「学ぶ」ことである。
子は親(大人)の背中を見て育つと言われるが、我々は自分の背中を見ることができない。できるのは、我々大人自身が、自らの「身体活動」や「子どもの体力問題」に対してどのように動機づけられているかについて、自身の身体を通して確認することだけである。子どもから大人への「持ち越し効果」のエビデンスは、我々大人自身の「学び」の過程にしかないということを忘れてはならないだろう。
(拙稿「子どもの身体活動が大人に持ち越す効果とは? ─身体活動・運動の「自由な需要」に向けた生涯学習─」平成20年度日本体育協会スポーツ医・科学研究報告『日本の子どもにおける身体活動・運動の行動目標設定と効果の検証─第3報─』より)

自分が子どもだったころを回顧する習慣?がもっとあってもよい、と思う。