決闘はスポーツ!?

moriyasu11232009-12-10

『少年の乱闘、決闘容疑適用=6対6で殴り合い−大阪府警
堺市の二つの市立中学の少年グループが6人対6人で殴り合うなどの乱闘をしたとして、大阪府警少年課などは20日、決闘などの疑いで、双方のグループの14歳の少年4人を大阪地検支部書類送検し、当時13歳の8人を堺市子ども相談所に通告した。
同課によると、少年らはいずれも容疑を認めている。少年同士の乱闘に府警が決闘容疑を適用したのは過去20年で1件という。
容疑や非行事実は、少年らの互いのリーダーが「素手で殴り合い、武器は使わない」「相手がギブアップしたらそれ以上攻撃しない」などのルールを決めた上で、7月14日午後4時半ごろ、堺市内の空き地で6人対6人で乱闘するなどした疑い。
同課によると、少年らは学校周辺の駅前などの少年のたまり場を占拠する地位をめぐり小競り合いを繰り返しており、乱闘の数日前、メンバーの少年の互いの目が合ったことをきっかけに片方のリーダーが決闘を申し込んだという。
(2009年11月20日 時事通信

※写真と記事は無関係(でもないけど…)
近年の「少年」に関する報道には、およそ身体感を喪失した姿しか思い浮かばないようなものが散見され、彼等の行動に影響を与える様々な交絡因子を勘定に入れない言説が蔓延り、「道徳」に代表される「効果の程の知れない、押しつけがましい教育」が施される昨今でもある。
そんなさなかの「出来事」には、この「20年で1件」という府警の「決闘容疑」適用をみるまでもなく、セピア色の写真を眺めるときのようなある種の「ノスタルジー(懐かしさ)」を感じてしまう。

決闘罪ニ関スル件
法令番号:明治22年12月30日法律第34号
効力:現行法
種類:刑法
主な内容:決闘及び決闘に関する犯罪及び刑罰
関連法令:刑法、刑法施行法
第一条:決闘ヲ挑ミタル者又ハ其挑ニ応シタル者ハ六月以上二年以下ノ重禁錮ニ処シ十円以上百円以下ノ罰金ヲ附加ス
第二条:決闘ヲ行ヒタル者ハ二年以上五年以下ノ重禁錮ニ処シ二十円以上二百円以下ノ罰金ヲ附加ス
第三条:決闘ニ依テ人ヲ殺傷シタル者ハ刑法 ノ各本条 ニ照シテ処断ス
第四条:決闘ノ立会ヲ為シ又ハ立会ヲ為スコトヲ約シタル者ハ証人介添人等何等ノ名義ヲ以テスルニ拘ラス一月以上一年以下ノ重禁錮ニ処シ五円以上五十円以下ノ罰金ヲ附加ス
○2 情ヲ知テ決闘ノ場所ヲ貸与シ又ハ供用セシメタル者ハ罰前項ニ同シ
第五条:決闘ノ挑ニ応セサルノ故ヲ以テ人ヲ誹毀シタル者ハ刑法 ニ照シ誹毀ノ罪ヲ以テ論ス
第六条:前数条ニ記載シタル犯罪刑法 ニ照シ其重キモノハ重キニ従テ処断ス

その昔、中学校では必ず「不良」と呼ばれる存在が徒党を組み、他校との縄張り争いを繰り広げていた。
大阪地検支部書類送検」などと書き立てられると、あたかも「ひどい犯罪」のように聞こえてしまうが、我々が子どもの頃には割と日常的にあった光景なのである。

スポーツルールの論理

スポーツルールの論理

「人を殴るな」という規範は全ての球技でルール化されているのに対し、ボクシングではそうではない(…)実はこのことが、スポーツルールを「合意」による「宣言」と見るべきであること、またルールを一般的かつ抽象的な道徳的概念とは切り離して考えるべきであるとこと、の二点を私たちに教えてくれているのです。
人を殴る行為が危険であり道徳に反することぐらい、学校で教えられている、いないにかかわらず、どの子どもでも知っています。で、その子どもが、「なのに、なぜボクシングは人を殴ってもよいのか?」という疑問を抱いたとき、親や教師はどう答えればよいのでしょうか。(…)
右の子どもの疑問に対しては、「そうでなければボクシングは成り立たないから」という、道徳とも科学的真理ともまったく関係ない解答をしか、私たちは用意することができません。(…)
こうして一般論としての道徳論や正義論は、スポーツやそのルールには通用しないことになります。
(by守能信次氏)

報道を見る限りにおいて、彼らは実に「フェアー」である。
「6対6」という同数で闘う、「武器」は使わず「素手」で殴り合う、相手が「ギブアップ」したらそれ以上攻撃しない、などのルールを「自主的」に取り決めている。
一見、「スポーツ」とはかけ離れた対極にあるようにみえるこの「決闘」は、実は極めて「スポーツ的な営み」であるといえる。

極めて多種多様な形態を取るスポーツを、それでも一括して我々がスポーツと呼べるのは何故でしょうか。それは、(…)陸上で行われるか水上で行われるか、素手で戦われるか道具を用いて戦われるか、個人で行われるか集団で行われるか、あるいは接触プレーがあるかないかといった、それぞれのスポーツを成立させている見かけの要素はいったん無視し、その総体に共通してうかがわれる本質的な属性を、私たちに備わる抽象化の能力を介して見抜いているからです。その共通の属性は何かといえば、(…)「遊び」であり、また「競争」であるとすることができます。
(前掲書より抜粋)

価値判断や感情などを度外視すれば、「遊び(スポーツ)」は「やってもやらなくてもよい活動」ということができる。
しかし「人間(人類)」は、有史以来この「やってもやらなくてもよい活動」に、確たる意志を持ち、明確な価値を見出し、情熱を燃やして取り組んできたのであり、実はそれが「文化」という言葉で表されているものの「本質」でもある。
さらにいえば、その「遊び」のために身命を擲つことも少なからずあることについては、偉大なアルピニストほか、人間文化の創造に寄与した歴史的快挙と、その快挙に隠れた歴史的悲劇をほんの少し紐解くだけで、十分に得心のいくことなのである。
それにしても、この「決闘」という出来事が醸し出す「懐かしさ」とはいったい何なのか?
それは、単に「20年」という歳月だけに起因するものではないと思われるのである。