仕分けの波紋

moriyasu11232009-12-15

11月27日に終了した「事業仕分け」は、ネット中継へのアクセス数が270万回にも達し、傍聴人の数も1万人弱にのぼるなど、予想以上に国民の関心が高かったようである。
いくつかの報道に拠れば、国民の約8割が、この仕分け人たちの所行に喝采を送っていたとのこと。
税金の使い道に関して、その無駄を省き、必要なところに必要な財源を当てる作業を厳密、厳格に行う必要のあることは言を俟たない。
その一方で、事業の有用性を短時間で断定する手法に対しての反発も少なからずあったが、そもそも何が無駄で何が意味のあるものかというのは、それを計測する「ものさし」と判断する人間の「価値観」によるところが大きいのもまた事実である。

保管には保管の理由があり、廃棄には廃棄の正義がある。
というよりも、誰が見ても捨てた方が良いに決まっているタイプの物品や、万人にとって保管しておくべきであるように見える物品は、むしろ少数なのだ。多くのブツは、「捨てるかとっておくかは、趣味の問題」で見解の分かれる、どっちつかずのブツなのである。
おそらく、事業仕分けのマナイタに上げられている財団法人やハコモノや事業も、「どこからどう見ても明らかに不要」なものは、そんなに多くはない。「見ようによっては不要だが、別の見方をすれば必要な側面もある」ぐらいな事業が大半であるはずだ。
(2009年11月16日『蓮舫議員と語り合いたい「もったいない」の意味小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句)』より抜粋)

今回の「仕分け」の最大の収穫は、従来の予算編成において「目的の重要性」しか議論(主張)されてこなかったことが白日の下に晒されたことにある。
各省庁の担当者は、その事業がいかに重要であるかを様々な理路を用いて説明したであろうが、ほとんどのケースにおいてそれは「目的」の正当化に終始し、それを達成するための「手段」の妥当性や合理性について説明できていないと思われる。
あるJOC幹部のコメントを集めてみると「縮減の中身がよく分からないが、十把一からげというのはどうか。強化の部分は聖域だと思っている。選手強化が本当にムダなのか。スポーツ界としては一銭でも多くほしい。スポーツ振興くじは年によって変動があって、頼るのは危険。トップ選手の強化は国がやらないと、諸外国に太刀打ちできない。強化予算100億円を超える諸外国の流れに逆行している。国費だけでは足りないからやりくりしてる現状が理解されていない。不勉強だし無責任だ。(順不同)」となるが、これらを見る限り、例えば「選手強化」という目的に対する「強化費の投入」という手段の妥当性や合理性が、説得力のある形で示されているとは到底思われない。
蛇足であるが、スポーツ振興くじtoto)の収益以上に「不確実」なのが「五輪でのメダル獲得数」であることは、すでにこれまでの五輪の歴史が証明していることでもある。

アスリートが本当に必要としているものはなんなのか。欲しいけどまあ無くてもいいよね、というものはなんなのか。境目はアスリートしか知りません。
欲しいというもの全てを満たすように計画された施設は、今仕分け人によって切られています。もちろん全部が必要なかったとは言いませんが、それでもこれまでただ流れていた予算の流れからの脱却には効果があるでしょう。
スポーツは例外だとは言えない時代です。合理的な組織運営をしなければ、切って捨てられる時代に入って参りました。現場では選手もスタッフも施設の方も必死で目標に向かっているのですが、いかんせん滞っているところもあります。
雨が降れば傘をさす。必要なことを必要なだけやるのが年齢が上がってからの、アスリートの戦い方です。
(2009年11月26日 為末大オフィシャルサイト「スポーツの仕分け」より抜粋)

今回の「仕分け」の中心人物の一人である蓮舫議員(民主党)が、いわゆるスパコンの開発について、「世界一になる理由は何ですか? 2位じゃダメなんでしょうか?」と発言しているが、これはスパコンに限ったことではなく、日本のスポーツ界の行く末を考えていく上でのキーワードになると思われる。
12月4日に行われた自民党の文部科学部会において、ソウル五輪男子レスリング金メダルの佐藤満・日本レスリング協会男子強化委員長が「レスリングで2番でもいいと考えていたら、五輪にさえ出られない。世界には金メダルを取りたい人間がたくさんいるんです」と激しい口調で訴えたらしいが、ほんとうにそうなのだろうか(無論、トップアスリートの心持ちとしては十分理解できる)。
一連の発言は、スポーツ関連予算の議論において出たとされる「『五輪は参加することに意義がある』はずだったが、今はメダルに意義があるのか?」という問いにも通じるといえよう。
これを「スポーツを知らない人間のやや的外れな質問」と断じている限り、半永久的に国民の理解を得ることはできないだろう。
「マイナー競技に補助する必要はあるのか?」という仕分け人からの質問は、費用対効果、すなわち「税金を投入したとして、それに見合う成果が期待できるのか?」、もう少し具体的に言うと「マイナー競技のメダル獲得が国民にどのような益をもたらすのか?」あるいは「好成績を挙げられそうにない競技も、国費投入に値する公益性を有するのか?」という趣旨の問いであると考えられる。
これに対して、文科省の担当者が「マイナー競技こそ補助が必要。切り捨てる言葉に憤りを感じる」と反論(反発?)したようだが、これだけでは小遣いを減らされそうになり「欲しいものが買えなくなる」と文句を言う子どもの振る舞いに等しい。
本来語られるべきは,マイナーと呼ばれる競技選手の活動が国費投入に値する公益性を有していること、そして国費投入という「手段」の「妥当性・合理性」を示すことである。
思いつきでいうが、例えば『平和の祭典と呼ばれる五輪という「場」により多くの選手が参加し、異国の選手達と<オリンピズム>を共有し、それを本国に持ち帰ってスポーツを通じた普及・啓発活動に務めること』を選手強化の第一義と捉えれば、マイナー競技へのサポートの必要性も自ずと浮かび上がってくるとはいえまいか。

「オリンピズムの根本原則」

  1. オリンピズムは人生哲学であり、肉体と意志と知性の資質を高めて融合させた、均衡のとれた総体としての人間を目指すものである。スポーツを文化や教育と融合させるオリンピズムが求めるものは、努力のうちに見出される喜び、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などに基づいた生き方の創造である。
  2. オリンピズムの目標は、スポーツを人間の調和のとれた発達に役立てることにある。その目的は、人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある。
  3. オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの諸価値に依って生きようとする全ての個人や団体による、IOCの最高権威のもとで行われる、計画され組織された普遍的かつ恒久的な活動である。それは五大陸にまたがるものである。またそれは世界中の競技者を一堂に集めて開催される偉大なスポーツの祭典、オリンピック競技大会で頂点に達する。そのシンボルは、互いに交わる五輪である。
  4. スポーツを行なうことは人権の一つである。各個人はスポーツを行う機会を与えられなければならない。そのような機会は、友情、連帯そしてフェアプレーの精神に基づく相互理解が必須であるオリンピック精神に則り、そしていかなる種類の差別もなく、与えられるべきである。スポーツの組織、管理、運営は独立したスポーツ団体によって監督されなければならない。
  5. 人種、宗教、政治、性別、その他の理由に基づく国や個人に対する差別はいかなる形であれオリンピック・ムーブメントに属する事とは相容れない。
  6. オリンピック・ムーブメントに属するためには、オリンピック憲章の遵守及び IOCの承認が必要である。

国際オリンピック委員会IOC)「オリンピック憲章」より抜粋)

民主党は「政策集INDEX2009」で地域密着型の拠点づくりや地域スポーツリーダーの育成など底辺の充実を打ち出しており、「トップを目指した選手や指導者がいるからこそ底辺が広がる(福田富昭JOC副会長)」という主張とは距離感があるように思われる。
諸外国との強化費の差を嘆き、現状の苦しさを訴えることは簡単だが、「国民に夢と感動を与え、国を活気づける」という抽象的な目的だけでは、この財政危機の中での予算確保への理解を得ることはできまい。
スポーツは、公共の利益に資するからこそ、国費を投入することが許されている。メダル獲得だけを拠り所にしていては、国民はスポーツに公益性を認めないどころか、逆にスポーツ離れを促すことすら危惧される。

『スポーツ界反論 JOC補助金 仕分けは「縮減」 意義広める必要性』
JOCへの国庫補助金は04年に初めて20億円を超え、近年は増えてきた。背景に、日体協会長でJOC理事の森喜朗氏、元クレー射撃五輪代表の麻生太郎氏ら首相経験者を含む自民党とのつながりがあった。逆に民主党に対しては、鈴木寛文科副大臣らスポーツに理解があると言われる議員を通じてパイプづくりを始めたばかり。
2日には竹田恒和JOC会長らが鈴木副大臣を訪れて理解を求める。科学技術予算の削減ではノーベル賞受賞者らが「国家存亡にかかわる」と異議を唱えた。スポーツ界も国際競争力低下の懸念を訴える。
だが、ロンドン五輪を控える英国で五輪選手の強化を担う「UKスポーツ」のスー・キャンベル委員長は「スポーツへの情熱を語ったところで政府は聞いてくれない」と話す。
英国は今年度、5〜19歳の子どもが週に5時間以上の体育やスポーツを行うことを目指す「体育と学校及び地域スポーツの連携事業」に410億円を投じる。学校体育振興にもかかわるキャンベル委員長は、教育問題を重要課題にあげていた労働党のブレア首相に、体育や学校スポーツが学習全体に好影響を与えるというデータを集め、示したという。
キャンベル委員長は「政府が聞きたいのは、スポーツが彼らのために何ができるか。予算を引き出すには、そのための言葉と筋書きが必要」。保守党への政権交代の可能性がある来年の英総選挙に向けて資料の表現を見直すなど、準備を進めているという。
日本でも「好成績が国民に夢を与える」といった以上に、スポーツの持つ価値を広めないと国民の支持を得られないとの危機が出てきている。フェンシングの太田雄貴は「税金でスポーツができていると選手が再認識しないといけない。しっかり考えるいい機会になった」と話した。
(2009年12月2日 朝日新聞

ちなみに、この記事の筆は忠鉢信一氏
フェンシングという、所謂マイナー競技(失礼!)において苦労を重ねた末にメダリストに辿り着いた太田雄貴選手のコメントは、今回の記者会見でも異彩を放っていた(さすがに「妻に振込用紙を…」とかは言わない)。
この記事にある「体育と学校及び地域スポーツの連携事業」に410億円を投入することの是非については、英国と我が国の歴史的・文化的差異についてクールかつリアルに考量しつつ議論する必要があるため深入りはしないが、スポーツの意義や価値について、より多くの国民の理解や共感を得るためには、スポーツ界が自らの社会的使命をラディカルに問う必要があることを示唆しているといえるだろう。
新聞各紙の紙面には「スポーツ」とか「文化」という言葉が踊り、まるでふわふわと宙に浮いているかのようにみえる。
そもそも、我々が「スポーツ」「文化」と呼んでいるものとは一体何なのか、そして我々はその「意味」や「価値」を共有できているのか。
そういうメタレベルの議論が、今こそ必要なのかもしれない。