背景への関心
年の瀬になると送られてくる喪中葉書が年々その数を増し、内容も祖父母から徐々に両親へと移行しつつあるようにみえる。
一人っ子の我が身とすれば、親の面倒は自分が見るよりほかないという覚悟だけはできているが、実際に親が寝たきりや認知症になったらどうするか?と問われれば、思考停止に陥ってしまうのも事実である。
無論、症状がある限度を超えれば然るべき場所(例えば病院)で看護してもらわざるを得ないのだろうが、果たして「病院」というのは人間らしい「生」を終えるに相応しい場所なのだろうか。
- 作者: 佐藤伸彦
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2008/04
- メディア: 単行本
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そこで行き着いたのが「ナラティブホーム」という施設である。
佐藤氏は、寝たきりで喋ることもできない患者の家族に、患者の人生アルバムを作りたいと提案し、病院スタッフと家族が協力して患者の人生を一望できるようなアルバム作りを始める。
幼少の写真、デートの写真、旅行や仕事中の写真など、患者の人生のひとコマが集まって一つのアルバムという「物語」になったとき、言葉すら発することのできない一患者の姿が、固有名詞をもったひとりの人間としてスタッフの眼前にありありと立ち上がり、家族もまた、患者と過ごした自身の人生を振り返るひとときに浸ることができる、というのである。
(Narrative-based Medicine・NBMの)Narrative(ナラティブ)は「物語」の意味であり、患者自身が語る物語から病の背景を理解し、抱えている問題に対して全人格的なアプローチを試みようという臨床手法である。
このNBMは、「病の体験という<物語>に耳を傾け、尊重する」「科学的な説明だけが唯一の真実ではないことを理解する」「物語を共有し、そこから新しい物語が創造されることを重視する」ことが特長である。
医療には科学的・生物学的な知識(Evidence)が不可欠であるが、実際の患者に相対すると、それだけでは対応しきれない場面が多々あることは容易に想像できる。(…)
NBMは、あくまで臨床家と患者との1対1の対話とそこから生まれる信頼関係を重視しており、この視点は、サイエンス(Evidence)としての医学と人間同士の触れあい(Narrative)との間のギャップを埋めていくものとして期待されているのである。
(2009年10年14日 拙稿「根拠に基づくトレーニング」より抜粋)
例えば、脳死状態の患者を目の前にしたとき、我々は「こんな状態で果たして生きる意味があるのだろうか…」という不遜な問いを想起することから逃れられない。
しかし佐藤氏は、「何も言わない患者さんがただ目の前に存在しているというそのことが、私たちに何を問いかけているのか、その声に耳を澄ますべきだ」と主張し、また「患者が死に至ることが医療の終わりではない」との考えから、告別式の参列者の前で医師の目から見た患者の最期について報告する。
それをやり終えたとき、患者の最期にかかわった医師として「ひとつの物語を読み終えた、書き終えた」という達成感を得ることができたそうである。
それを「自己満足」と呼ぶ人もいるかも知れない。
実際、どんなに手を尽くしたとしても、患者自身がそれを認識できない以上、それは患者に向き合っている側の満足でしかないと言ってしまえばそれまでである。
しかし、患者とその家族が作り上げてきた「物語」へと積極的に参与する試みは、治療のための医療にとっては「敗北」でしかない「死」によって否定されることのない、新しい医療の形になり得ると思われるのである。
名画の言い分 数百年の時を超えて、今、解き明かされる「秘められたメッセージ」
- 作者: 木村泰司
- 出版社/メーカー: 集英社
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日本では、美術を感性、すなわち「好き/嫌い」「感動する/しない」という観点でみようとしがちであるが、そもそも西洋美術というのはメッセージを伝える「ツール」としての性格をもっており、その時代の歴史、政治、宗教観、思想、社会的背景を知らないと作品を十分に味わうことができない、と木村氏は言う。
例えば、ハンス・ホルバインの描いた「ヘンリー8世」の肖像画。
モナリザのような顔の傾斜もなく、極めてありきたりの肖像画である。
しかし、歴史的文脈を踏まえると、この絵の「意味」は一変する。
実は中世以来、肖像画で正面を向いて描かれてもよいのは「イエス・キリスト」だけとされていた。
ヘンリー8世は、自身の離婚問題をきっかけにローマ・カトリック教会から離脱し「英国国教会」を立ち上げるが、この自画像は、政治的・宗教的に自分がトップであることを誇示するために描かせたものであると言われている。
このような「背景」を知ると、眼前の絵(現象)の「立ち現れ方」も変化する。
人間も全く同じで、相対している人の「背景」を知ってその顔や行動を見るのと、それを知らずに見るのとでは、かなり違った見方になる。
ほんの少しでも今以上に相手の「背景」や「物語」に関心を寄せれば、相手は理解不能かつ難解な人ではなく、意思を持った一人の人物として浮かびあがり、その人と再び出会い直すことができるに違いない。
「コーチング」のそもそもの意味は「相手の望むところへ導くこと」であるといわれる。
その「望むところ」は、単なる客観的な目標に留まらず、その状態であったり、あるいは技術やスキルなどなど様々であるため、相対する人間の背景を知らず、また関心を寄せることもなくそこに導くことは、ほとんど不可能といってよいだろう。
相手の「背景」を知ると、その捉え方が「点」から「線(あるいは面)」に移行する。
「線」で捉えようとすれば、性急な「判断」や「決めつけ」が起こらなくなくなり、仮に自分の価値観とは異なる「現象」が立ち現れたときにも、その背景にまで意識が及び、表面的な批判を先送りすることができるようになる。
この姿勢は、まさに現象学における「判断停止(エポケー)」に通じるところでもある。
私たち自身のものに比べて、どれほど衝撃的で非合理に見えるものであっても、それぞれの社会の慣習や信仰は、ある体系をなしていること、そしてその内的均衡は、数世紀をかけて達成されたものであり、たったひとつの要素を除くだけでも、全体を解体させる危険がある(…)
- 作者: クロードレヴィ=ストロース,Claude L´evi‐Strauss,川田順造,渡辺公三
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2005/07/01
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(byレヴィ=ストロース氏)
だからこそ選手は、自分の背景をよく知るコーチを渇望し、究極的には「セルフコーチング」を希求するようになるのであろう。
蛇足であるが、レヴィ=ストロースとメルロー=ポンティが仲良しだった理由が、少しだけ分かったような気がする。