「さようなら」の意味

日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか (ちくま新書)

日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか (ちくま新書)

別れ際になぜ「さようなら」と言うのか。
上記書籍は、そのことについて考えたものである。
「さようなら(さらば)」という言葉は、これまでとこれからを繋ぐ「さよう(である)ならば」という意味の接続詞が原型である。
考えてみれば不思議な言葉遣いであるが、平安の昔から別れ言葉として使われてきたという歴史がある。
世界の別れ言葉は、おおよそ3つのタイプに分けることができる。
ひとつは、「グッドバイ」「アデュー」のような「神の加護を願う」もの。
二つ目は、「シーユーアゲイン」「アウフヴィダーゼーエン」「再見」のような「再会を願う」もの。
そして三つ目は、「フェアウェル」「アンニョンヒ、ゲセヨ」のような「相手の無事息災を願う」ものになるが、日本語の「さようなら」はどのタイプとも異なる。
最近は、日常生活において「さようなら」を用いることは少ないが、「それでは」「では」「じゃあ」といった言い方は普通に使われており、「ほな」「せば」といった方言も同種の言葉遣いに分類できる。
世界標準?(三つのカテゴリー)からすると、日本人の別れ方は奇妙なものかもしれない。
しかし、そこには「別れ」に際して「さよう(である)ならば」と立ちどまり、何ごとかを確認しながら次に進もうとする姿勢、裏を返せば、そうした確認なしに次に進んでいきにくい日本人独特の発想が潜んでいるというのである。
確かに、我々日本人には、そういう「けじめ」というか「ここまでで終わり」ということの確認を重視する心的傾向が窺える。
では、「さよう(である)ならば」は、いったい何を確認しているのだろうか。
そこには、二つのことが含意されていると竹内氏はいう。
ひとつは、その別れの時までに自分がやってきた事柄の確認である。
別れの極みである「死」を例にとると、これまでの自分の来し方を、自分なりの言葉で、いわばひとつの物語(ナラティブ)に編み上げることによって「死」を受け入れ可能なものとすることであり、それはまさに「さようであるならば」という言葉に集約されていると思われる。
恐らくこれは、死を迎えようとしている本人だけでなく、家族を含めた周囲の人間にも関わる問題である。

例えば、脳死状態の患者を目の前にしたとき、我々は「こんな状態で果たして生きる意味があるのだろうか…」という不遜な問いを想起することから逃れられない。
しかし佐藤氏は、「何も言わない患者さんがただ目の前に存在しているというそのことが、私たちに何を問いかけているのか、その声に耳を澄ますべきだ」と主張し、また「患者が死に至ることが医療の終わりではない」との考えから、告別式の参列者の前で医師の目から見た患者の最期について報告する。
それをやり終えたとき、患者の最期にかかわった医師として「ひとつの物語を読み終えた、書き終えた」という達成感を得ることができたそうである。
それを「自己満足」と呼ぶ人もいるかも知れない。
実際、どんなに手を尽くしたとしても、患者自身がそれを認識できない以上、それは患者に向き合っている側の満足でしかないと言ってしまえばそれまでである。
しかし、患者とその家族が作り上げてきた「物語」へと積極的に参与する試みは、治療のための医療にとっては「敗北」でしかない「死」によって否定されることのない、新しい医療の形になり得ると思われるのである。
(2009年12月24日 拙稿「背景への関心」より抜粋)

今ひとつは、アメリカの冒険家で紀行作家でもあるアン・モロー・リンドバーグの「サヨナラほど美しい別れの言葉を知らない」という言葉の理解に関連するものである。
すなわち人生においては、自分の意志を超越した不可避な出会いや別れに充ち満ちているが、それら全てを「そうならねばならないならば…」と静かに引き受ける諦念という意味での「サヨナラ」解釈である。
畢竟「さようなら」には、これまでの過去を踏まえた現在を「さようである」と諒解しつつ、「ならば」と未来に向けて一歩踏み出すことの確認が含意されているということになる。
「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ。(by金子大栄氏)」。
物質としての「花びら」は否応なく散らざるを得ないが、確かに咲いたという事実としての「花」は散らない。
「花びらは散る/花は散らない」という金子氏の言を借りれば、「さようなら」は、「花」が咲いたことを確かめる「まじない」とも「挨拶」ともいうことができる。
さらにもうひとつ大事なことがある。
そもそも「さようなら」は、繋ぎの言葉(接続詞)であるが故に「であるならば…」という確認に留めているということであり、その先どうするということを語らないままに別れていることになる。
そこには、何はともあれ過去を踏まえつつ現在を確認・総括することによって、未来も何らかの形でやっていける、生きていけるという思いが込められていると竹内氏は指摘する。
「死」の問題で言えば、死や死後のことはわからないが、これまでが「さようであるならば」、死後も何とかなる、大丈夫だろうという思いがそこにはあるということである。

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

本当に死ぬというのは、われわれの感じでは自分がなくなることです。それも、物がなくなる、消滅する、といったなくなり方ではありません。世界に面している私がいなくなること、したがって私の面している世界もなくなることです。私はそれに恐怖を感じます。(…)
しかし、その死の恐怖といったときのその死ですね。死ということをわれわれがかんがえるとき、あるいは死に脅かされるとき、私はまだ死んでいないから死や死の恐怖を考えられるのです。と同時に死んだことがまだないので、何を考えてよいか確かではないのです。私がもっております死の恐怖の死を私はまだ見定めることができないわけなんです。
(by大森荘蔵氏)

「死」に対する「甘え」と言えばそうなのかもしれない。
それでも「さようなら」は、1,000年以上も昔に生きた祖先から巧まずして贈られてきた「死生観」という財産のように思われるのである。
ものごとの「終わり」や誰かとの「別れ」に内包されている「はじまり」というものがある。
そしてその先も続いていく「時間」、あらゆる感情が濾過され、ゆるやかに沈殿していく「時間」がある。
「終わり」は「はじまり」のために、「はじまり」は「終わり」のために…
昨日、職場の元同僚が急逝したとの報が入る。
とてもお世話になった方である。
ありがとうございました。
そして、さようなら。