医師不足と院内暴力

moriyasu11232010-10-19

今年の9月に報道発表された厚生労働省病院等における必要医師数実態調査」によれば、各施設が担う診療機能を維持するために確保すべき医師数は、全国総数で現員医師数167,063人の1.14倍となる191,096人であり、約24,000人の医師が不足していることになるとのこと。
ちなみに、この調査票の回収率は84.8%。
激務の中での高い回収率は、お上への懇願というよりは哀訴と呼んでも差し支えないだろう。
地域別に見ると、岩手県(1.40倍)、青森(1.32倍)、山梨(1.29倍)が高率ベスト3、すなわち医師不足が深刻な地域となっている。
反対に、定率ベスト3は東京(1.08倍)、大阪(1.09倍)、神奈川(1.10倍)など首都圏都市部に集中している。
診療科別では、リハビリ科(1.29倍)、救急科(1.28倍)、産科(1.24倍)などの倍率が高いようである。
救急科や産科といったハイリスク部門と、患者とともに機能回復に向けたリハビリを長期間にわたって継続しなくてはならない部門の倍率が高いという結果も頷ける。
「各施設が担う診療機能を維持するために確保すべき医師数」の見積り方法や、地域人口比などについてはリアルに検証すべきところであるが、医療現場の現状を示すデータとして真摯に受け止める数字であることに変わりはないだろう。
10年ほど前に起きた「割りばし事件」が、この国の医療が崩れ始めるきっかけになったというのは、多くの識者が指摘するところである。
「善意の医療行為」が刑事責任を問われるというリスクや、マスメディアや一般大衆からのバッシングという二次被害を回避しようとする医師はハイリスクの現場から去り、残った医師は激務による慢性疲労やストレスの中での医療行為という二重のリスクを背負わされている。

院内暴力:患者の暴言暴力、医師や看護師6割被害−−奈良県医師会調査
◇1万2000人回答
奈良県医師会が医療関係者約1万7000人を対象にしたアンケートで、医師や看護師の6割が患者から暴力や暴言による被害を受けたと回答したことが分かった。医療現場でのこうした「院内暴力」は年々問題化。仕事へのやりがいをなくしたり、不安感が増すなどの悪影響もあり、医師会は行政機関と連携して対策を検討する。
奈良市では07年6月、診察中の病院長が元患者の夫にナイフで刺され、重傷を負う事件が発生。車谷典男・奈良県立医大教授らが08年9〜10月、県内1020の医療機関の医師や看護師、看護補助者、事務職員を対象にアンケートを実施、約1万2000人から回答を得た(回収率約70%)。
それによると、身体、精神ともに被害を受けたことがあると回答したのは、医師61・3%▽看護師60・5%▽看護補助者37・9%▽事務職員36・7%。最も多かったのは暴言で、看護師や看護補助者は暴力が目立った。
自由記入欄には、「殴られそうになって、ステッキなどを振り回された。『おまえ雑魚や、殺したる』と電話口で言われた」▽「認知症患者にたたかれる、引っかかれる、つままれるが常態化」▽「患者の家族にストーカー行為をされた。8年がたっているが、男性患者や男性家族の前で笑顔をつくると誤解されそうで怖い」−−などの回答があった。
被害を受けた医師584人のうち、32・4%が「仕事のやりがいが低下した」▽30・8%が「仕事に不安を感じた」−−としており、休職したり職場を変わった例もあるという。また、被害経験者のうち、医師の9・4%、看護師の7・4%に心的外傷後ストレス障害(PTSD)とみられる症状があった。
塩見俊次・同医師会長は「医療機関に対する期待の大きさの裏返しだが、できることとできないことがある。患者を含めて考えるべき問題だ」と話している。【阿部亮介】
(2010年8月4日 毎日jp

いつ頃からかは定かでないが、厚労省は、医療現場に対して患者のことを「患者さま」と呼ぶよう指導しているらしい。
ホントかと思ってググってみると、多くの医療機関のホームページに「患者さま」という言葉が踊っている。
やっぱりホントなのね…(涙)

数年前にある大学の看護学部で講演をしたことがある。
そのとき、ナースの方たちと話す機会があった。
ナースステーションに「『患者さま』と呼びましょう」という貼り紙があったので、あれは何ですかと訊ねた。
看護学部長が苦笑いして、「厚労省からのお達しです」と教えてくれた。
そして、「患者さま」という呼称を採用してから、院内の様子がずいぶん変わりましたと言った。
何が変わったのですかと訊ねると、「医師や看護師に対して暴言を吐く患者が増えた、院内規則を破って飲酒喫煙無断外出する患者が増えた、入院費を払わないで退院する患者が増えた」と三点指折り数えて教えてくれた。
「患者さま」という呼称は「お客さま」の転用である。
医療も(教育と同じく)商取引モデルに再編されねばならないと、そのころの統治者たちが考えたのである(覚えておいでだろう。「小泉竹中」のあのグローバリズムの時代の話である)。
患者は(消費者として)「最低の代価で、最高の医療サービスを要求する」ことを義務づけられる。その「ニーズ」に応えることのできない医療機関は遠からず「マーケット」から退場する。その結果、最高の費用対効果で、最良の医療サービスを提供する医療機関だけが「淘汰」を生き延び、日本の医療水準はますます高まる。だから、患者もまた医療機関に対して、できるだけ少ない代価で、最高のサービスを要求「すべき」なのだ。
政治家たちはそう考えた。
マスメディアもその尻馬に乗った。
(2010年8月4日 内田樹氏ブログ「院内暴力とメディア」より抜粋)

近年は、医学会の発表などでも対象者を「患者さま」と呼ぶことが少なくないらしい。
厚労省の指導は、隅々まで行き届いて定着しつつあるようだ。
このような接客用語を持ち出す背景には、医療も「サービス業」という考え方が普及したことだけでなく、医療現場を悪者に仕立て上げる報道を垂れ流すメディアや、その報道を鵜呑みにして医師との関係を悪化させるような振る舞いに至る大衆(患者)に対する過剰な防衛姿勢もあるといえるだろう。

院内暴力をふるう人々ひとりひとりが別にとりわけ邪悪な人間であると私は思わない。
彼らは「ふつうの人」である。
「ふつうの人」が暴力的になるのは、「医療従事者に対しては暴力的にふるまっても罰せられない」という「社会の空気」を読んでいるからである。
市民的常識を疑われ、民事刑事さまざまのペナルティを受ける覚悟の上で、「院内暴力」に踏み切るほど果断な患者はそうはいない。
院内暴力をふるう人々の80%は、「そういうことはよくない」と教えられれば「そういうこと」をしない人たちである。
その人たちが「そういうこと」をするのは、「そうすれば医療が改善される」という「刷り込み」があるからである。
彼らは「ほとんど善意」に基づいて、医療従事者を罵倒し、こづき回すのである。
(2010年8月4日 内田樹氏ブログ「院内暴力とメディア」より抜粋)

割りばし事件」以降も、マスメディアが医療現場における患者の振る舞いを批判的に報道したという事例については寡聞にして知らない。
無論「モンスターほにゃらら(by久米宏)」という扱いで「患者の増長」をトピックス的に紹介することはあっただろうが、それはかき氷を食べるために氷山の一角を削り取った程度のことに過ぎない。
相変わらず、「お客さま(視聴者や購読者)に対する批判的な物言いは避ける」というのがメディアの基本スタンスである。
穿って言えば、教師や医師などの「先生」と呼ばれる職業についている人間に対して、俺たちと同じように頭を垂れて「お客さま」に媚びろという意思表示と取れなくもない。
いずれにせよ、この報道スタンスは「医療従事者への批判によって医療水準は向上する」というイデオロギーの刷り込みに成功した。
もちろん、医療サイドにも改善すべき問題があることは言を俟たない。
しかし、我々(少なくとも私)が求めるのは「患者さま」などと愛想良く媚びる医療ではない。
我々(少なくとも私)にとって本当に用事があるのは、人間の生命や幸福、医療行為の功罪というラディカルな問いに引き裂かれながらも医療に従事し続けることに動機づけられた医師である。
医療機関に対する期待の大きさの裏返しだが、できることとできないことがある。患者を含めて考えるべき問題だ(by奈良県医師会長)」
ブラックジャックの生みの親である手塚治虫氏なら、果たして何と言うだろうか。