改正臓器移植法の成立

moriyasu11232009-07-14

『改正臓器移植法が成立 参院A案を可決』
脳死を一律に「人の死」と位置付け、臓器提供の年齢制限を撤廃する改正臓器移植法(A案)は13日午後の参院本会議で可決、成立した。同法が平成9年に成立して初の改正となる。これまで禁じられていた15歳未満の子供からの臓器提供が可能となるほか、本人が生前に拒否表明していなければ家族の同意のみで臓器提供できることになるため、国内での臓器移植は拡大するとみられる。
改正臓器移植法中山太郎衆院議員らが18年に提出。「脳死は人の死」を前提に、15歳以上となっていた脳死後の臓器提供の年齢制限を撤廃する。臓器移植する場合に限り脳死を「人の死」と認める現行法の該当条文を削除した。本人が生前に拒否していなければ、家族の同意で臓器提供が可能になるが、本人や家族が脳死判定を断ることもできるとしており、提出者は「法的には脳死が人の死となるのは臓器提供の場合だけ」と説明している。親族への優先提供も認めた。
採決は押しボタン方式で行われ、共産党を除く各党は「議員個人の死生観にかかわる問題」として、党議拘束を外して採決に臨んだ。投票総数220票のうち、賛成138票、反対82票だった。
一方、A案に先立ち、A案の骨格を残しながら臓器移植する場合に限り脳死を「人の死」とするAダッシュ案は反対多数で否決(投票総数207票、賛成72票、反対135票)。また、現行法を維持しつつ、「子ども脳死臨調」を設置して1年間かけ子供の脳死判定基準などを検討するE案は、A案が先に可決されたため採決されなかった。
(2009年7月13日 産経新聞

「海外から渡航臓器移植に批判が出ているからなどという浅薄な理由から多くの議員がA案に賛成し、法案が成立してしまうような愚は避けねばなるまい」という、生命倫理学者で「ひとり学際研究」の提唱者でもある森岡正博氏の主張もむなしく法案成立の運びとなった。
森岡氏の立場は、氏のブログに「参議院厚生労働委員会での発言」としてまとめられている。
今回の議論をみても分かるように、日本では、脳死は法的には「臓器の移植に関する法律(臓器移植法)」で定義されているために、おのずから脳死と臓器移植を関連づけて議論がなされる傾向にある。
当然のことながら、この手の議論では、患者の命を救う可能性のある臓器移植という先端医療の推進のためには、脳死の定義を緩和し、臓器移植の手続きを簡略化的するという方向に棹さしがちである。
しかし、森岡氏の指摘を俟つまでもなく、「脳死」ということ自体が医学的、法的に解決済みの問題ではない。
したがって、本来は、臓器移植とは切り離したかたちで、「脳死」あるいは「死」そのものについて根源的に問う必要があったはずなのだが、十分な議論を尽くしたとは言い難い。
脳死に対して感じる「居心地の悪さ」は、我々の「常識」や「実感」とずれている点に起因すると思われる。
我々は、「死」とは、呼吸をしなくなり、心臓が停止し、身体が冷たくなることだと教わってきたが、「脳死」の考え方はこれに反する。
生命維持装置や薬剤によるとはいえ、呼吸をし、心臓は動き、身体は温かい患者を「死者」として認め、臓器を摘出し移植しようとするところに、何とも言えない居心地の悪さを感じているに違いない。
実際、移植手術を経験した医師においても、自ら手を下して脳死患者を死亡させたとの思いが払拭できないケースも少なからずあるようだ。
このような「常識」「実感」とのずれを少しでも埋める努力をしない限りは、いくら法律を改定しても脳死患者からの臓器提供は増えないのではないだろうか。
東京西徳州会病院総長の橋都浩平氏は、「人の死を一律に心臓死として、脳死は心臓死が近い将来に必然的となっている状態ではあるけれども、死とは認めないという態度」を基本とすることを提案している。
そうすると脳死患者からの臓器移植が困難になってしまうので、臓器移植を行う場合に限り、臓器を摘出しても、殺人には当たらない事を保証する、すなわち法律用語における「違法性の阻却」を認めようというものである。
もちろんこの考えには欠点もあって、殺人を法的に認めることになるのではないか、あるいはより広く安楽死などを認める傾向に歯止めがかからないのではないか、などの批判が出てくることが予想される。
しかし、我々の「常識」や「実感」(橋都氏はコモンセンスとしている)に出来るだけ近いことを大切にすることが、結果的には臓器提供を増やす事にもなるのではないか、と橋都氏は言う。
さらに今後は、以下のような問題にも突き当たることになる。

あしたの採決の前に、書いておきます。
もし仮にA案、A’案が通ったとしたら、これまで子どもの移植を訴えてきた親の方々は、つらい状況に追い込まれるのではないでしょうか。
それは、移植を待っているあいだに、不運にも、子どもが脳死になってしまった、あるいは心臓死になってしまったときに、親は脳死・心臓死の子どもから臓器を摘出して移植し差し出すかどうかを問われることになる、ということです。(いまはそういうことは日本では生じません)
このとき、
・親には、脳死・心臓死になった子どもから臓器を摘出する法的義務はありません。
これは確かなことです。
問題となるのは、
・親は、自分の子どもには臓器をくださいと言っていたのだから、自分の子どもが脳死・心臓死になったときには、自分の子どもから臓器を摘出して差し出す、道義的義務があるのかどうか?
という点です。言い換えれば、
・「うちの子どもに臓器をください!」と言っていた親が、自分の子どもが脳死・心臓死になったときに「うちの子どもの臓器はあげませんから」と言ったとしても、それはまったく道義的に問題はない、ということになるのかどうか?
ということです。(心臓死後でも、角膜、腎臓は摘出できます)
この問題を、A案、A’案が通ったら、親は引き受けないといけない状況になります。これはかなりやっかいな問題です。みなさんはどう思いますか?
子どもからの臓器移植というのは、本来こういう種類の問題なのです。物言わぬ1歳の心臓病のレシピエント候補もまた、死ねば(脳死になれば)ドナー候補となるのです。これがA案の切り開いていく世界なのです。
森岡正博氏ブログ「移植を待つ親は、子が脳死になったら臓器を出すか?」より抜粋)

改正法案は成立してしまったが、いつくるとも知れない「死」を待つひとりの人間として、そして幼い子を持つひとりの親として、この問題を真摯に受け止めてゆきたいと思う。