雨ニモアテズ

moriyasu11232010-10-08

宮沢賢治についてはさほど詳しくないが、さすがに「雨ニモマケズ」の詩は、そらで言える程度には脳みそに刻まれている(写真は花巻市にある詩碑)。
「人間かくあるべし」などと宣う資格は微塵もないが、数多ある詩の中でも最高傑作のひとつであることは言を俟たない(数多というほど知らないが…)。
先月参加したとある学会で、子どもの遊びを研究している先生が、興味深い詩を紹介していた…らしい(「…らしい」は、前日痛飲のために朝イチ講演に間に合わず同僚から聞いたという意味)。

雨ニモアテズ
雨ニモアテズ 風ニモアテズ
雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ
ブヨブヨノ体ニ タクサン着コミ
意欲モナク 体力モナク
イツモブツブツ 不満ヲイッテイル
毎日 塾ニ追ワレ テレビニ 吸イツイテ遊バズ 
朝カラアクビヲシ 集会ガアレバ貧血ヲ起コシ
アラユルコトヲ 自分ノタメダケ考エテカエリミズ
作業ハグズグズ 注意散漫スグニアキ ソシテスグ忘レ 
リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニ閉ジコモッテイテ 
東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ 
西ニツカレタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ 
南ニ死ニソウナ 人アレバ 寿命ダトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ ナガメテカカワラズ
ヒデリノトキハ 冷房ヲツケ
ミンナニ 勉強勉強トイワレ
叱ラレモセズ コワイモノモシラズ
コンナ現代ッ子ニダレガシタ
(作者不詳)

初出は今から10年ほど前、賢治のふるさとである盛岡の小児科医が、とある学会で紹介した詩のようである。
「意欲モナク 体力モナク(by作者不詳)」
「体力」を海面に浮かぶ氷山として捉えた場合、海面上に姿を現している「測れる(測りやすい)体力」と、水没している「測れない(測りにくい)体力」に分けることができる。
一般的な「体力」の分類に基づけば、体力テストの結果は「身体的要素の行動体力」の一部として前者に位置づけられ、「意志、判断、意欲(動機づけ)」などは「精神的要素の行動体力」として後者に分類される。
そして、見えやすい氷山の一角にも、見えにくい土台にも、それぞれに「意味」がある。
見える部分の変化には、見えない部分の変化も影響するのである。
・ ・ ・
また、このように子どもの体力の「測定」したり「分析」したり「考察」したりしているのは、言うまでもなく我々「大人」である(子どもはそんなことはしない)。
と同時に、子どもの体力を低下させる原因とされる物理的・社会的な環境変化に棹さしているのも「大人」である。
昔に比べて自分のやりたいことが多くなり、都合良く子どもの面倒をみてくれるところを探しているうちに、子どもを「半分かまう(by吉本隆明)」というまなざしを向けにくくなってしまったのも「大人」である。
そして、このような大人の「本音」や「罪悪感」に便乗した「子どもの危機」の喧伝によって「不安」を抱いてしまうのも「大人」であり、その「不安」を利用して暴利を貪ろうとしているのも「大人」である。

大人問題 (講談社文庫)

大人問題 (講談社文庫)

子どもに対しての心配、不安、自信のなさというのは、自分に対しての心配、不安、自信のなさそのものである。

畢竟「コンナ現代ッ子ニダレガシタ(by作者不詳)」という問いには、「大人(のマッチポンプ)」と答えるのが正しそうである。
ということで、賢治の「雨ニモマケズ」を噛みしめることとする。

『11月3日』
雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
ヨクミキヽシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病氣ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボウトヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ ナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
(1931年11月3日 宮澤賢治記 ※青空文庫雨ニモマケズ」より)

サウイフモノニ ワタシモ ナリタイ(by作者不肖)。