子どもに向ける大人のまなざし

moriyasu11232011-10-05

9月25日〜27日まで、鹿屋体育大学にて開催された日本体育学会第62回大会に参加。
発育発達専門分科会シンポジウム「子どもの体力と身体活動をめぐって」に登壇。
このシンポジウムは、分科会関係者のご厚意により、先の震災で中止となった日本発育発達学会第9回大会で行う予定だったシンポジウム「子どもの体力問題のモンダイ─必要と欲求の二元論の超克に向けて─」を今大会にスライドしていただいた企画である(関係者の皆様に厚く御礼申し上げます)。
中止となった日本発育発達学会第9回大会の記録集用に寄せた拙稿を再録する。

毎年、体育の日に文部科学省(以下、文科省)が発表する「体力・運動能力調査結果」では、身長・体重などの「体格」は親の世代(約30年前)を上回るものの、「体力(運動能力)」は昭和60年ごろから現在まで低下傾向にあり、多くのテスト項目で親の世代を下まわると指摘されるのが通例である。そして、この原因として「学習活動や室内遊びの増加による外遊び(スポーツ)時間の減少」「手軽な遊び場(空間)の減少」「少子化や習いごと通いなどによる仲間の減少」という所謂「三間の減少」が挙げられている。
また、全小中学校の8割以上が参加して実施された調査(文部科学省、2009)によれば、1週間の総運動時間(通学および体育授業を除く)が60分にも満たない子どもが、小学生(5年)の男子で10.5%、女子が22.6%、中学生(2年)の男子が9.5%、女子は31.6%と少なからぬ割合を占めていることが報告されており、子どもの身体活動・運動(以下、身体活動)実施の二極化も懸念されている。
このように、子どもの現状が実証的に明らかにされるなかで、文科省も「子どもの体力向上」を施策の柱のひとつに位置づけているが、何をもって「正当な体力」とするかを根源的に問わない(問えない)まま今日に至っていることも否めない。
日本体育協会(以下、日体協)では、この「体力低下」をキーワードとして、子ども達が積極的に体を動かすようになるために必要なことは何かについて、複数の視点からの実践的研究を進めてきた。本稿では、日体協のこれまでの取り組み、すなわち子どもの身体活動に関する質的(基礎的動きの質的評価観点の作成)および量的(身体活動ガイドラインの策定)なアプローチをベースとして「アクティブ・チャイルド・プログラム」の作成に至った経緯とそのコンセプトについて紹介する。
“体力”という言葉の多義性
「体力」の定義は、おおよそ広義と狭義の二つの解釈に分けられる。
ひとつは「体力とは人間の生存と活動の基礎をなす身体的、および精神的能力である」(福田、1949;猪飼、1969)という定義にみられるように、身体的能力と精神的能力の両者を含めた全人間的な広義の解釈である。「素朴な心身二元論にたって体力と精神力との関係を云々するならば、それは当を得ていない」(福田、1949)、「体力というものが機能を含むかぎり、意欲(motivation)とか意志(will)とか判断と無関係ではあり得ない」(猪飼、1969)などがその論拠となっている。
上記のような広義の解釈に対して、石河(1971)は「体力と精神力の間には深い関係があることを認めなければならない」としながらも「知能・意志・性格などの精神的能力を体力の一部と考えるのは多少行き過ぎのように思われる」として、「体力は人間活動の基礎となる身体的能力」と定義している。
また、大人が子どもに対してもっている実感としての「総体的な体力像」に最も強い関連性を示す要素が、所謂「行動体力」ではなく「防衛体力」であることも示唆されている(野井ほか、2004)など、「体力」は定義が多様かつ実態も曖昧であるがゆえに、私たちの実感とも乖離する傾向にあると言わざるを得ない。
「体力」という言葉は、体育・スポーツ科学のみならず、医学、健康科学など多くの分野で広く用いられており、厳密に狭く定義するとそこで用いられている多様な意味との間に乖離が生じてしまう危険性もある(杉原、2003)。「体力」に対する一般のイメージやテストの内容が歴史的文脈によって移ろい易いものであることを勘案すれば、普遍性の高い広義の解釈によって定義づけておくことが適当であり、本稿においては筆者も同様の立場をとる。
人間の自己家畜化(Self-domestication)
「体力があったというのは、長寿をまっとうし、その生涯における仕事量が大きかったということである」という小野(1971)の言を紐解くまでもなく、「体力」は一定以上の負荷による身体活動を継続的に行うことで得られるアウトカム(成果)といえる。したがって、「体力が必要である」と考えるならば、そもそも「なぜ身体活動が必要なのか?」という問いを立てることができる。
子ども時代の身体活動は、子ども時代の健康に寄与するだけでなく、大人になってからの身体活動や健康への「持ち越し効果」が得られるといわれている(Boreham and Riddoch、2001)。これは、健康に主眼を置く行動心理学的研究などにおいて、子どもの身体活動の重要性を説くための根拠とされているが、「子ども観」「体力観」の不易流行を追いつめるには、今一度その意義についてラディカルに問う必要もあるだろう。
1930年代、Eickstedt(1937)を中心とするドイツの人類学者達が主張した人類進化の説明原理を「自己家畜化(Self-domestication)」と呼ぶ。「人工環境の中でしか生きられない」「食料を自力でとらなくてよい」「天敵や気候変化から守られている」といった家畜化の条件に当てはまる文化的・社会的環境を築き上げて自らを管理したことによって、人間が家畜に似た形態的・機能的変化(進化)を遂げただけでなく、自身で築いた高度な文明が「自然」を破壊する能力をもってしまった結果、気候変化や環境破壊はもとより、最も身近な「自然」である身体に関わる「抵抗力(免疫力)の低下」「心身症」「生活習慣病」「体力低下」などの様々な問題が引き起こされているという指摘である。
生活生存のために多くの身体活動を必要とする「採集・狩猟」という生活様式は、地球上に私たちの祖先が誕生して以来およそ300万年という長きにわたって人類の進化史を支えてきた。一方、「自己家畜化」の端緒とされる都市文明、すなわち定住を可能にした「農耕・牧畜」の約1万年という歴史は、人類史からみれば1%にも満たない僅かな時間に過ぎない。人間(ヒト)も「動物」である以上、他の動物と同じように行動の基となる「遺伝子プログラム」があると考えられるが、「農耕・牧畜」以降の1万年が、300万年もの長い時間をかけてプログラミングされてきた「採集・狩猟」遺伝子を変化させるに十分な時間とは言い難い。言い換えれば、私たちは、1万年前の「身体活動を必要とする遺伝子プログラム」のままで「身体活動を必要としない社会環境」に適応している、というより「耐えている」と言えるのかもしれない。
小原・羽仁(1995)が挙げる「自己家畜化」の進行を防ぐためのポイントは、以下のとおりである。

  • 動物である人間がもつナチュラルさの回復(現代のもつ不自然さ、ヒトであることの自覚と環境問題への意識づけ)
  • 自らの、あるいは他者の身体との対話(最も身近な自然である身体について知る・感じる機会や、動物の本能的欲求である「遊び」を通したふれあい)
  • 意外性を受け止める感性の涵養(形や動きの定まっていないものとの接触
  • 手探りでする「もの」づくり(マニュアル化されたものに頼らない創造・創作活動)

これらを概観する限り、自己家畜化の進行を抑えるという課題に対して、身体活動の果たす役割は大きいと考えられる。
子どもの体力に関する質的・量的アプローチ
1)基礎的動きの質的評価観点の作成(…)
2)子どもに最低限必要な身体活動量の策定(…)
3)アクティブ・チャイルド・プログラムの作成(…)
ガイドブック、DVDについては日体協ホームページに詳細。
「持ち越し効果」の本質とは?
広義の「体力」を海面に浮かぶ氷山に見立てた場合、海面上に姿を現している一角としての「測れる(測りやすい)体力」と、水没して観察できない「測れない(測りにくい)体力」に分けられる。一般的な体力分類に基づけば、量的評価が可能な体力テストの結果などは前者に位置づけられるが、「動きのできばえ」や「意志、判断、意欲(動機づけ)」など量的評価が難しいものは後者に分類されるといえる。私たちは、子どもの体力について様々な角度からの分析を試みるが、分析とは、ある部分に「焦点化(注目)」するために、他の部分を「無視」する営みでもあるため、その結果は直ちに「氷山全体としての体力」に還元できるものではない。しかし、氷山の土台が安定していなければ水面上の一角も貧弱で不安定なものとなってしまうなど、土台にも一角にもそれぞれに意味があり、かつ相互に関わりをもっていると考えられる。
カルポビッチ(1963)が「テストで判明するものはテストに関係のある体力である」と喝破するように、体力テストで測られている項目は、猪飼(1969)の体力分類でいえば「身体的要素」のなかの「行動体力」のごく一部に過ぎない。巷間、ボール投げが下手だといわれる今時の子どもは、昔の子どもに比べてボールキックは上手かもしれないが、仮にそのような歴史的文脈を考慮して測定項目をボールキックに変更したとしても、その普遍性に同意する人はいないはずである。重要なことは、各種テストをはじめとする「観察」や「分析」に常につきまとう注目と無視の間を架橋するために必要なものは何かを問うこと、すなわち子どもの体力に関する多様な情報(データ)から問題の本質を読み解こうとする「知性」である。
子ども時代の身体活動・運動の「持ち越し効果」を考える上で、「生涯学習」という視点は欠かせない。この学習の要諦は、一人ひとりの人間が、生涯を通じた様々な身体活動と関わりつづける過程で、「体を動かすこと」が、どうしたら人々の必要や欲求から出発する「自由な需要(好きになる)」に育てることができるのか、それはどのような積み重ねをへて確固たる「人生の価値(大切なもの)」になるのかを、文字どおり学ぶことにある。畢竟子どもから大人への持ち越し効果のエビデンスは、私たち自身の学習プロセスにあることを忘れてはならない。(…)
(拙稿「子どもの体力低下問題のモンダイとは? ─日本体育協会の取り組み─」より抜粋)

文部省(現文部科学省)は、昭和54年から56年にかけて、子育てにあたる親向けのガイドブックとして「子育ての中の基礎体力つくり(第1〜3集)」を発刊している(冒頭写真)。
第1集は「おおむね0〜5歳」、第2集は「小学1〜4年生」、そして第3集は「小学5年〜中学3年生」が対象となっているが、それぞれのイラストをちばてつや氏、はらたいら氏、藤子不二雄氏が手掛けるという力の入れようである。
この第2集の「まえがき」には『最近、子供(原文ママ)に対する親の期待感が変わってきたことや社会環境、生活様式等の変化などにより、子供の基礎体力つくりについていろいろな問題が出てきており、このことが今日、青少年の体力つくりの強調されている所以です。』とある。
蛇足だが『山で遭難するのは長男や一人っ子が多いともいわれるように、子供社会の重層構造の経験が少ないと、生活適応力のない子供になる恐れがあります。』と書かれていたのを一人っ子で長男の小生が読んでしまったことを付記する。
(´-`).。oO(もう山に行くのはやめにしよう…あんまり行かないけど…)
興味深いのは、この昭和54年から56年あたりは、所謂「子どもの体力」が最も高かったといわれる時期に重なるという点である(昭和54年:筆者10歳)。
仮に現在の「子どもの体力」が30年前の水準にまで戻ったとき、果たして大人は子どもに対してどのようなまなざしを向けるのであろうか。

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

私たちが出発点として取り上げている中世の社会では、子供(原文ママ)期という観念は存在していなかった。このことは、子供たちが無視され、見捨てられ、もしくは軽蔑されていたことを意味するのではない。子供期という観念は、子供に対する愛情と混同されてはならない。それは子供に固有な性格、すなわち本質的に子供を大人ばかりか少年からも区別するあの特殊性が意識されたことと符合するのである。中世の社会にはこの意識が存在していなかった。(…)言葉の上でも、子供という言葉には、私たちが今日賦与しているような限定した意味は与えられていなかった。今日、日常的な表現で「あいつ」(gars)と言われるような感覚で、子供と言う言葉が使われていたのである。
(byアリエス氏)

中世以前の「多産多死」の時代を運よく生きのびた子どもたちは、7歳くらいになると「小さな大人」として共同体の中に入り、大人とともに日々の仕事や遊びを行っていた。
しかし16〜17世紀以降に「子ども」という特別な意識が芽生え始め、「子ども」を直接の対象とした絵画が描かれたり、子どもに特有の服装習慣が形作られていくなど、「純粋で弱い存在」であり「特別の保護が必要」な存在者としての「子ども」が差異化されていく。
さらに上流階級では、その「純真無垢な子ども」を道徳的かつ理性的な人間にするための「教育」が必要であると考えられるようになり、子どもの精神と身体を育てることこそが「家族」の持つ役割であるという意識が一般化していった、とアリエスは言う(なお、アリエスは、このような「子ども」や「家族」に対する意識が交叉し変化していく過程において、「学校」という場がバイパス機能を果たしながらその意識を社会全般に広めていったという点についても興味深い議論を展開しているが、ここでは措くことにする)。
このように「子ども」や「家族の愛情」などの自明と思われているものが、実は社会的に編成されたものであるという歴史的文脈を理解してもなお、我々の眼前には依然としてそれを実生活にどのように役立てるかという問題が残る。
しかし、少なくとも「子ども/家族/学校」といった常識に闇雲に引きずられる必要はない、否、引きずられるべきではないというある種の決意がもたらされると思われるのである。

チャイルドヘルス 2011年 10月号 [雑誌]

チャイルドヘルス 2011年 10月号 [雑誌]

文化人類学者のマーシャル・サーリンズは、現存する採集・狩猟民族の生活を丹念に調査し、成人男女が1日に費やす食料収集(労働)の時間が2〜3時間であり、集められた食料はひとり当たり2,300カロリーにも及ぶことを明らかにしています。お腹(栄養)は満たされ、20時間強の自由時間をもつ社会のことを、サーリンズが「初めの豊かな社会」と名づけたのもよくわかります。
この人類史上、最も自由時間に恵まれていたと考えられる人たちは、その時間をいったい何に費やしていたのでしょうか。実は様々な調査から、「遊び(スポーツ)」の歴史も、この「採集・狩猟」時代まで遡ることがわかってきています。驚くべきことに、コマまわし、竹馬、けん玉、あやとりやお手玉などの遊びから、つな引きや棒たおしなどの力くらべ、果ては陸上競技や水泳・水中競技、格闘技や球技といった類のスポーツの原型までもが、ほとんど存在していたというのです。
人間も「動物」の一種である以上、他の動物と同じように「遺伝子プログラム」をもつと考えられます。ひょっとすると、私たちが抱えている「からだ」に関する様々な問題は、気の遠くなるような長い時間をかけて培った「からだを動かす(+遊ぶ)」という遺伝子プログラムが、急激な社会環境の変化に対応できずに起こしたエラーといえるのかもしれません。(…)
運動やスポーツを「する・しない」の二極化傾向に拍車がかかっているといわれる昨今、1週間の総運動時間が60分未満(体育授業を除く)の児童(小学5年生)は、男子で10.5%、女子では24.2%にのぼることが問題視されていますが、これらの児童の6割以上が、運動・スポーツをすることが「好き(「やや好き」を含む)」と答え、半数以上が「もっとしたいと思う(「やや思う」を含む)」と回答しています。このことは、「しない」理由がそれほど単純ではないことを示唆していますが、その理由のひとつに、最初から勝敗や結果が目に見えているようなものは「つまらない」ということがあげられます。とりわけ野球やサッカーなどに代表される球技スポーツでは、スポーツ少年団などで活動している子どもの方が上手なのは明らかであり、あまり馴染みのない子ども達が、結果の行方が分からないからこそ面白い「遊び(ゲーム)」として楽しめる雰囲気にはなりにくいのが現状でしょう。携帯ゲームやテレビ、マンガなどが運動(遊び)やスポーツをするための時間を奪っているという「神話」の背景には、数値に現れにくい様々な問題が隠されているのかもしれません。
(拙稿「子どもの運動・スポーツ実施状況と課題」より抜粋)

私たち人間に「必要な体力」は生活環境によって変化し、また「望ましい体力」は個人の生き方や価値観によって異なると考えられる。
そして「子どもの体力」に関わる立場には、ひとえにその向上を目指そうとする立場、健康概念でとらえようとする立場、あるいはその不平等や階層固定化を懸念する立場など様々あるが、その背後には基本的な教育観や人間観の相違が存在している。
畢竟、現代に生きる我々「大人」に課せられた課題は、自身の「子ども」への「まなざし」を相対化ながら、個々の立場が提示する「子ども観」「体力観」の論拠となる信念や関心の妥当性を問い合うこと、そして子どもたちのプレイ(遊び)によって得られる身体性、精神性および社会性に対するアウトカムの自主性を認めながらも、冷静にその成果を評価するための「知」を蓄積していくことにあるといえるだろう。