根拠に基づくトレーニング

moriyasu11232009-10-14

少し前の話になるが、9月18日から20日まで、新潟にある朱鷺メッセで開催された「第64回日本体力医学会」に参加。
朱鷺メッセ(写真参照)は、第48回全国体育指導委員研究協議会(2007年)の「発育発達に応じたスポーツ指導」という分科会にパネリストとして呼んでいただいて以来、二度目の訪問であった。
学会の将来構想検討委員会の企画である、中山健夫氏(京都大)の「エビデンス:つくる、伝える、使う」という基調講演を興味深く拝聴する。
「Evidence-based Medicine(EBM)」は、1991年にカナダの臨床疫学者であるガヤットが提唱した「根拠に基づく医療」のことである。
質の高い医療を求める社会的意識の高まりとともに、「一般論としてのエビデンス(≒科学的根拠)」と「実践による経験」を併せて判断することは、臨床医学にとどまらず「Evidence-based Practice(Healthcare)」としてより広い関心を集めつつある。
健康・医療に関するガイドラインの作成方法も、以前の「GOBSAT(Good Old Boys Sitting Around the Table)」から「Evidence-based」、すなわち「臨床上の疑問の明確化(Question)」→「エビデンスの検索・評価(Evidence)」→「推奨度の決定(Recommendation)」という流れに移行しており、最終的には「Evidence-based consensus」が目指されているとのことである。
このEBMについて中山氏は、「臨床家の勘や経験ではなく科学的根拠(エビデンス)を重視して行う医療」という理解では不十分であり、本来は「疫学的手法を主体とする研究によって得られた最良の根拠(best research evidence)と、臨床家の経験(clinical expertise)と患者の価値観(patient values)を統合し、よりよい患者ケアに向けた意志決定を行うもの」であることを強調するとともに、健康・医療に関するエビデンスを考える際には「つくる」「伝える」「使う」の3局面での整理が重要であると指摘する。
まず、エビデンスを「つくる」、すなわち研究の出発点は、臨床現場の問題意識から発せられる疑問、すなわち「クリニカル・クエスチョン」である。
このクエスチョンは、例えば福原俊一氏らが提唱する「FIRMNESS基準(Feasible(実施可能)、Interest(関心のある)、Relevant(切実な)、Measurable(測定可能)、Novel(新しい)、Ethical(倫理的)、Structured(構造化された)、Specific(特定された))などに照らしつつ、研究の実現に向けた「リサーチ・クエスチョン」として明確化・洗練化される必要があるとしている。

リサーチ・クエスチョンの作り方 (臨床家のための臨床研究デザイン塾テキスト)

リサーチ・クエスチョンの作り方 (臨床家のための臨床研究デザイン塾テキスト)

また、「伝える」という局面については、厳しい評価基準を適用した医学・健康関連研究の報告の質の向上、標準化に向けた多くの提案をしていくなかで、専門的な知見をいかに患者や一般市民に伝え、またその理解および反応を研究者にフィードバックさせていくかが大きな課題であるようだ。
さらに「使う」という局面では、適切に利用すれば現場の問題解決に資するはずのエビデンスが現場で実践されている割合は半数以下であるという「使われなさ過ぎる」問題と、「エビデンスEBM」と混同された「使われすぎる」問題が併存しているようである。
このことを「エビデンス診療ギャップ」と呼ぶ(どこかで聞いたような話である)。
中山氏は、これらのギャップを埋めるための方策として、総合的な判断を踏まえた診療ガイドラインの普及と活用が期待されているが、そもそも「ガイドライン」というのは、あくまでも60%程度の患者に適用可能な治療法の提示集でしかなく、困った時の参考書的な位置づけにすぎないことを忘れてはならないと強調する(ちなみに「スタンダード」のカバー範囲は60〜95%らしい)。
そして臨床家は、そのエビデンスレベル、推奨度に惑わされることなく、目の前の患者にとって一番良い、あるいは患者の置かれた状況に最も適した治療法を診療(あるいは治療)ガイドラインの中から選択する目をもたなければならない、という極めて当たり前の、しかし最も重要な結論に導かれていくのである。
中山氏の講演でも少し触れられていたが、近年「Narrative-based Medicine(NBM)」の重要性が認識され始めている。
NBMのNarrative(ナラティブ)は「物語」の意味であり、患者自身が語る物語から病の背景を理解し、抱えている問題に対して全人格的なアプローチを試みようという臨床手法である。
このNBMは、「病の体験という<物語>に耳を傾け、尊重する」「科学的な説明だけが唯一の真実ではないことを理解する」「物語を共有し、そこから新しい物語が創造されることを重視する」ことが特長である。
医療には科学的・生物学的な知識(Evidence)が不可欠であるが、実際の患者に相対すると、それだけでは対応しきれない場面が多々あることは容易に想像できる。
エビデンス診療ギャップ」は、そのことに起因すると考えられるが、そこで出てくるのが「NBMでEBMを補う」という考え方である。
EBMとNBMは、ともすると対立的な概念として見られがちであるが、医療の現場では、「疾患(disease)」の理解にはEBMを、悩みや苦しみをともなう「病気(illness)」の理解にはNBMを、というような位置づけがなされているようである。
NBMは、あくまで臨床家と患者との1対1の対話とそこから生まれる信頼関係を重視しており、この視点は、サイエンス(Evidence)としての医学と人間同士の触れあい(Narrative)との間のギャップを埋めていくものとして期待されているのである。
閑話休題
上記の様々な指摘の中にある「臨床家」という言葉を「指導者(コーチ)」、「患者」を「選手」という言葉に置き換えれば、スポーツのトレーニングやコーチングを扱う我々の研究分野への指摘として十分に読み替え可能である。
レーニングやコーチングの現場(以下、現場)には、身体あるいはトレーニング内容といった直接的な「現象」と、選手や指導者の「思い」といった曖昧なものが同居している。
また「現場」は、選手や指導者のみならず、スポーツ科学の研究者、アスレティックトレーナー、スポーツドクターなどなど…様々な立場や背景を持つ人々が交流する「職種のるつぼ」的フィールドでもある。
さらに、状況が時々刻々変化する「現場」では、一定の条件を保つことが優先される実験室の研究などと比べて、複雑多様な現象を扱うことになる。
したがって、この「現場」が持っている多様性や複雑性を深く理解し、問題を整理していく「視点」と「技術」を身につけていかなければならない。
その端緒は、「科学」「方法」「理論」「実践」「体力」「技術」「スピード」「持久力」「科学的トレーニング」など…普段我々が何気なく使っている「言葉」や「概念」について、次数をひとつ繰り上げて原理的に問うことにあると言える。
例えば「科学性」という言葉ひとつとっても、EBMに代表される統計的・数量的研究における科学性と、NBMに代表される質的研究などの科学性は異質なものである。
そしてこの相違や、その相違に起因する対立や問題が起こる条件や構造が、実は科学の「本質」と深く結びついている。
また、「方法」が「何かを行うための手段」である以上、その「正しさ」は目的に応じて決まるはずであり、だとすれば人文、社会、自然に関わる研究法の相違を持ち出すまでもなく、すべての条件を取り払ったうえで「絶対的に正しい方法」はあり得ない。
重要なのは、それぞれの研究法の特徴(特長)、すなわちそれぞれの研究法が何に向いていて、何に不向きなのかを認識することである。
一般的に、量的研究は、仮説検証や一般性のある知見を生み出し、全体的傾向や分布を知る場合などに向いているとされているが、特定の前提に乗っていなければ成立しないため、前提そのものを問うことはできない。
反対に、質的研究は、仮説生成や前提自体の問い直しが可能だが、仮説検証や一般性のある知見を生み出すには不向きである。
このように各研究法の長所や限界を理解し、目的に応じた適切なツールを選択する能力は、1つの研究法に習熟してそれを突き詰めていく専門研究の能力とは「異なるスキル」である。
故に、このようなスキルを身につけるためには、やはり「問い」の字数をひとつ繰り上げる必要が生じるのである。
我々の周りにある様々な「理論」も、ある「方法」によって導き出されたツールのひとつに過ぎず、その意義や価値は使う側の関心や目的に応じて変わる。
例えば、選手や指導者の内的(意味)世界を理解することで、現場でのコミュニケーションを円滑にし、トレーニング効果も上げていきたいという関心のもとでは、NBMのような質的研究が有効な枠組みになるに違いない。
また、他の多くの選手にも当てはまる知見(原理・原則)を得て、それをもとに適切なトレーニング(コーチング)をしたいという関心のもとでは、運動生理学やバイオメカニクスなどの量的研究が有効なエビデンスになることもあるだろう。
あるいは、それらを有機的に組み合わせた新領域の創設こそが、コーチングやトレーニングの現場における研究および実践の発展にとってより有効に機能するかもしれない。
つまり、「理論」も「方法」も、その有効性と限界、現実的な制約を勘案しつつ、目的や関心に照らして、その都度有効と考えられるものを選んで使えばよいということになる。
これは「何でもあり」というニヒリズムではない。
むしろ逆である。
「理論」は、あくまでも現象の理解のためにつくられたツールであり、現在の理論が特定の現象をうまく説明できないならば、既存の理論を修正したり、新たな理論をつくっていく必要がある。
このとき、「一般性」の高い理論が、必ずしも多くの場合に有効な理論とは限らない、ということに注意すべきであろう。
高い一般性をもつ理論というのは、言い換えれば全体的な傾向をおさえた理論ということになるが、そういう理論が個別のケースを理解する際には有効でないということはしばしば起こる。
比喩的にいえば、「90%の人に当てはまるが、10%しか説明できない」一般性の高い理論よりも、「10%の人にしか当てはまらないけれど90%説明できる」一般性の低い理論のほうが、現場では役に立つことが多々ある。
この究極が、「事例研究」ということになるのだろう。
説明範囲の狭さが、複数の組み合わせによってフォロー可能であることを考慮すれば、このような一般性の低い理論の有効性に、もっと注目してみる必要があるのではないだろうか。
「Evidence-based Training(EBT)」と「Narrative-based Training(NBT)」。
医学界のこれまでの試行錯誤は、スポーツ科学研究の立ち位置を考えるうえで大いに参考になると思われるのである。