ほんとうに必要なこと

moriyasu11232010-02-23

スピードスケートの花形種目である男女500メートルを制し、お家芸ショートトラックでもメダルを量産、今日までに獲得したメダルが10個(国別順位は6位)の韓国。
存在感を増す韓国の強さの源泉は「国の支援に裏打ちされた少数精鋭主義」にある、とはマスコミ一般の言である。
「強さの要因」として挙げられているものを、以下に示す。

  • ソウル市泰陵地区の旧軍用地に建設されたナショナルトレーニングセンターにて、1988年ソウル五輪前から夏季五輪競技を中心とする本格的な強化をスタート。45競技から1000人を超える有望選手が集まり、激しい競争が繰り広げられている。
  • 2000年1月、年間10カ月にわたって氷上練習が可能な、韓国初の屋内スケートリンクが開設。(長野市エムウェーブで滑走できるのは10月から3月までの6ヶ月間)。
  • 五輪メダリストなどへの手厚い報奨。今回、韓国政府は金メダルには4千万ウォン(約317万円)の報酬金を用意。IOC委員の李健熙・三星グループ前会長も個人的に2千万ウォン(約158万円)などを用意している。(ただしJOCやスケート連盟がそれぞれ予定している金300万円、銀200万円、銅100万円と金額的に大差はない)
  • スポーツ選手対象の年金制度があり、五輪をはじめとする国際大会での成績に基づいて生涯年金を支給。
  • 男子選手に対する3年間の兵役免除。
  • 小学生の段階から徹底的なエリート教育を施し、効率よくメダルを取れる競技を重点強化。スポーツを始めるということは「プロ」「五輪選手」になるか、正業として選択することを意味する。
  • 野球部のある高校は53校のみであるが、全国4132校、16万9000人余り(2009年5月)の高校球児がいる日本と、ワールド・ベースボール・クラッシック(WBC)や五輪でも同等以上の強さをみせる。

このような報道に対して、「市民スポーツ&文化研究所」代表の森川貞夫氏は、以下のように指摘している。

昨日の続きですが、昨日の日経スポーツ欄に「韓国強さの源泉『少数精鋭主義』」というのがありました。昨日の報道では韓国はドイツ、スイスと並んで金メダル獲得3で「トップタイ」であることを挙げてその理由を「国の支援」「兵役免除」「年金制度」などを指摘し、最後に「韓国で娯楽でスポーツをやるというムードはない。小学生でも、スポーツを始めるということはプロになるか五輪選手になるか、生業として選択することを意味する」(韓国野球委員会趙国際部長の発言)を受けて記者は「大衆スポーツという土壌を欠きながら、競技スポーツの頂きに花を咲かす韓国の強さの一端がうかがえる」と結んでいました。
先日森田浩之さんの『メディアスポーツ解体』(NHKブックス)を紹介しましたが、その中で著者はリップマンの「民主主義とジャーナリズム」の関係にふれて「理想的には、まず事実を集め、それらを分析してから結論に達するべきなのだが、往々にして人は事実と向き合う前に結論を決めてしまう」「観察してから定義するのではなく、定義してから観察する」から「ステレオタイプ」化がしばしば記事に表れると指摘していました(同書、131頁)。(…)
話を元に戻しますが、ここ数年韓国を訪れるたびに驚くのは韓国における大衆スポーツの発展ぶりです。ソウル市内を流れる漢江(ハンガン)の両岸のサイクリング・ランニングロードを行き交う多くの市民、河川敷のサッカーグランウンドでの「早起きサッカー」、ソウル市内各区にある人工芝サッカー場でのサッカークラブの活気、また私の教え子の一人であるS君たちが進めている「ニュースポーツ協会」や「ティーボール協会」の普及活動、そう言えば先のソウル市内中心部の漢江近くにあるオリンピック公園周辺では朝早くから夕方まで大勢の市民がウオーキングや健康体操、レクリエーション的なスポーツに没頭している風景など、一度でも現地を訪ねると誰の目にも見える「事実」です。
ですから先の日経スポーツ欄の「韓国強さの源泉」として「少数精鋭主義」を説くために「大衆スポーツを欠きながら」などと書き立てる記者の「ステレオタイプ」化こそジャーナリズムを劣化させている典型例ではないかと思った次第です。
(2010年2月18日 「(日記)スポーツ報道における神話・ステレオタイプ化」より抜粋)

昨今の韓国において所謂「大衆スポーツ」が発展してきていることは事実であり、「ステレオタイプ化こそジャーナリズムを劣化させている」というご指摘については、激しく首肯する(関連はコチラとかコチラ)。
しかし、韓国の「スポーツ事情」、すなわち日本以上に「大衆スポーツ」と「競技スポーツ」が分断されているという現状については、これらの記事内容に大きな誤謬があるとも思われない。
一昨年、国際学会で韓国を訪れた際に、小学生の子どもをもつ学会ボランティアの方々や、高麗大学で教鞭を執る大学院時代の友人から聞いた限りにおいて、「(韓国では)スポーツを始めるということはプロになるか五輪選手になるか、生業として選択することを意味する」という表現もあながち誇張ではなさそうである。
斯界では、大会半ばにして「韓国の勝因は国策としてのスポーツ行政。それに比べて日本の環境は立ち遅れている(by福田富昭JOC副会長)」と「警鐘を鳴らしている(by産経新聞)」ようである(いったい誰に対する警鐘なのか??)。
うろ覚えであるが、スピードスケートの清水宏保選手がいつぞやの冬季アジア大会に出場したとき、同走の韓国選手から「この試合で勝てば兵役免除されるから負けて欲しい」と懇願されたという話を聞いたことがある(違ってたらすみません)。
したがって、「生涯年金」や「兵役免除」といった「アメ」が、一定のモチベーションに繋がっていることは否定できないが、五輪でのメダル獲得という難問が「アメ(強化費ほか)」さえあれば解決すると考えるのは短絡というものだろう(その韓国選手が五輪メダリストになったのか知りたい…)。
この短絡は、ちょうど「朝飯を食べない子ども → キレやすい」という因果関係論が「親のしつけ」という交絡因子を勘定に入れていないのと同様に、パフォーマンス向上にとって最も重要であるはずの「トレーニング」や「強靭な指導者と選手の闘志(byパク・ソヨン記者)」といった交絡因子を考慮していない「論理的錯誤」であるという指摘もできなくはない。
また、先の記事では「野球」を例に挙げ、「(韓国においては)野球部のある高校が53校(…)。全国4132校、16万9000人余りの高校球児がいる日本とは層の厚さが違いながら、強い」と指摘するが、いったいこの記者は「どちらがよりハッピー」なスポーツ環境であると考えているのだろうか。
「メダル獲得の費用対効果」といったビジネスライクな経済合理性を持ち出さない限り、多くの子ども達が「野球」というスポーツを楽しめる環境にあり、かつ競技力も高いという「日本」にアドバンテージがあると考えるのは、恐らく私だけではあるまい。

『日本で韓国選手の善戦を見ながら』
日本メディアは連日、「スポーツ強国になった韓国に学ぼう」とし、韓国選手の善戦を報道している。長野オリンピックスピードスケートの金メダリスト清水宏保氏は19日、読売新聞に「韓国の躍進は強靭な指導者と選手の闘志が成し遂げた成果」と分析した。こういう日本の評価を見てると、自分も誇らしくなったりする。日本に力がないからではない。ほとんどすべての種目に選手を出場させている日本は今でもアジア最強のスポーツ国家だ。エリートスポーツを守っている韓国とは違い、スポーツの底辺拡大に成功した日本から私たちが学ぶ点は間違いなく多い。
それでも数日前、日本スピードスケート選手が男子500メートル競技で銀・銅メダルを獲得した時、大阪など一部の地域で号外まで発行しながら初のメダルを祝う光景を見ながら、率直に「韓国は金メダルを取った」と自慢したかったと言えば、相変わらず幼稚な衝動だろうか。いずれにしても、異国の地で生活している多くの韓国人が自国選手の活躍に誇りと勇気を受けているのだから、有難くうれしいことだ。「大韓民国、ファイト!」
【パク・ソヨン東京特派員】
(2010年02月20日 中央日報グローバルアイ」より抜粋)

ほらね。
今や日本が、夏季、冬季いずれの五輪においてもメダル獲得数で及ばない韓国の大手新聞社記者氏からも、「スポーツの底辺拡大に成功した日本から私たちが習ぶ点は間違いなく多い」という大変フレンドリーなコメントを頂戴しているではないか。
さらに、日本のみならず韓国のスピードスケート選手達からも限りない尊敬を集めている清水宏保氏はこう指摘する。

『躍進・韓国に教訓と手本』
日本との違いを挙げるより、彼らを指導する全明奎(チョンミョンギュ)教授(46)(韓国体育大学教授、韓国スケート連盟副会長)を第一の功労者に挙げたいと思う。
実は僕自身、昨年1月に韓国のチョンさんの下で1ヶ月半ほどの修行を積んだ。アメとムチを巧みに使い分ける全さんは、徹底したスパルタ指導をする傍ら、褒め方もうまいという評判だ。
そのとき、全さんが僕にまず言ったのは、「中途半端な気持ちでここに来たのなら、今すぐスケートをやめろ」「今のシミズは体力がなく、気持ちも甘い」「メダルを取ってから厳しさが消えた」。初日から駄目出しの連発だ。さらに「お前に今、これだけ厳しいことを言う人は日本にはいないだろう」。面と向かってズバリと言い当てられた。
1980年当時だと思うが、全さんは学生時代に僕の母校でもある日本大学で技術を学んだ。山崎善也監督率いるスケート部で練習法や技術を2年間ほど学んだそうだ。その技術や経験を持ち帰り、韓国ショートトラックの全盛期を築きあげた人でもある。
全教授は言う。「何も特別なことはないよ。昔、日大で教わったことのマネをしているだけ。でも昔の日大は厳しかったよ。先輩や後輩の関係から練習の中味まで、すべてね」
さらに、全さんが困惑顔で話したのは、日本も韓国も今は、学生に昔ほど厳しく接することが出来なくなったということだ。スケート界だけでなく、スポーツの枠を超えた日本中、韓国中が子供や学生に対して甘くなった。厳格にやると何事も続かない。食らいついていったのが3人のメダリストと言うわけだ。
(2010年2月19日 読売新聞コラム「結晶」より抜粋)

「厳格にやる」「厳しく接する」コーチングの是非については、今昔の歴史的・文化的差異についてリアルに考量した議論が必要となるため深入りはしないが、トップレベルの指導者や選手は、お互いの学び合いや切磋琢磨がパフォーマンス向上の「本質」であることを示唆しているといえるだろう。

アスリートが本当に必要としているものはなんなのか。欲しいけどまあ無くてもいいよね、というものはなんなのか。境目はアスリートしか知りません。(…)
現場では選手もスタッフも施設の方も必死で目標に向かっているのですが、いかんせん滞っているところもあります。
雨が降れば傘をさす。必要なことを必要なだけやるのが年齢が上がってからの、アスリートの戦い方です。
(2009年11月26日 為末大オフィシャルサイト「スポーツの仕分け」より抜粋)

絶対的貧困(貧困)」と「相対的貧困(貧乏)」という論件がある。
「貧困」とは、どのような努力によっても向上できる可能性が閉ざされているような欠乏状態のことを指すが、「貧乏」とは、数値的には表示不可能であり、決定的条件の欠如としても記述できない。
それは、「隣の人はベンツに乗っているが、私はウィッシュに乗っている」「隣の人は森伊蔵を飲んでいるが、私は黒霧島を飲んでいる」「隣の人はロレックスをはめているが、私はセイコーをはめている」というかたちで、どちらも同一カテゴリー財を有しているが、その格差による欠落感を覚えるということである。
この「相対的貧困感」は、物資の絶対的な多寡と関わりなく、人間が複数で暮らす限り消すことができない。
畢竟、「アメ(強化費ほか)」は、メダルが取れなければ「ぜんぜん足りない(だから取れない)」と主張するのはもちろん、メダルが取れたとしても「まだ足りない(あればもっと取れる)」と言い続けるよりほかないのである。
斯界は、「ステレオタイプ化」によって「事実」と向き合う前に「結論」を決めてしまうのではなく、トップアスリートにとって、況んやスポーツ界全体にとって「ほんとうに必要なこと」は何なのかについての「事実」をリアルに集積し、それをラディカルに分析したうえでの「パースペクティブ」を示す必要がある(カタカナいっぱいだ…)。