スポーツ後進国ニッポン?

moriyasu11232010-03-01

第21回冬季五輪バンクーバー大会が閉幕。
閉会式では、「聖火」が再点灯されるという演出(やり直し?)もあったようである。
その「聖火」にちなんで名付けられたというエピソードを持つ橋本聖子団長は「日本代表選手団は、6競技61種目に臨み、銀メダル3個、銅メダル2個、入賞は26と、トリノオリンピックを上回りました。チームや関係者の支えがあり、選手が頑張った結果です。韓国は、体格の小さいアジア人には難しいと言われたスピードの長距離で金メダルを獲るなど大きなインパクトを与えました。しかし同じアジアがあれだけ頑張れたということから、私たちが前向きに考えられる要素があったと感じました。これからソチオリンピックに向けて、1年1年何に取り組むか考え一生懸命にやりたい」と総括した(JOCサイトより)。
今回の韓国の活躍は、選手団長の総括で取り上げられるくらいのインパクトを関係者に与えたようである。
確かに、国別獲得メダル数は14個(7位)と自国開催(ソチ)を控えた強豪ロシアに1個差と迫り、金メダル数でソートすれば6個(5位)という結果は賞賛に値する。
メディア報道でも「韓国に学べ」という論調が大勢を占める。
優れた他者から学ぶことはとっても重要であるが、何を「範」とするかについては十分に吟味しなければならない。

僕はこれまで本当に多くの方にお世話になった。地元の方々、応援してくださった皆様、用具の面倒を見てくださる方、日本オリンピック委員会JOC)の皆さん。すべての人の支えがあって、4大会連続五輪出場、金、銀、銅メダルの獲得があった。
不遜(ふそん)かもしれないが、申し送りをしておきたいことがある。少し、厳しい言い方になる。が、聞いていただければ幸いだ。
日本はまだまだスポーツ後進国というしかない。五輪の期間中、国中が注目しメダルの数を要求される。選手が責任を感じるのは当然だが、ノルマを課せられているような感じにもなる。それまでの4年間のフォローを国やJOCはきちんとしてきたのだろうか。(…)
例えばお隣の韓国はスポーツ先進国になった。国威発揚という特殊な事情があるにせよ、お金の使い方が違う。日本には国立スポーツ科学センターがある。韓国にも同じような施設がある。韓国ではそこに選手が集められ、招集された時点で、日当が出る。日本では利用するのに料金が発生する。韓国ではもし、メダルを取れば、ほぼ生涯が保証されるのに対し、日本の報奨金は多いとは言えない。
バンクーバー五輪では、JOCの役員、メンバーが大挙して現地入りしている。予算は限られている。そのため、選手を手塩にかけて育てたコーチや、トレーナーがはじき出され、選手に快適な環境を提供できていない。お金の使い方が逆だろう。
競技スポーツだけではない。「1人1ドルスポーツの予算をつければ、医療費が3.21ドル安くなる」という統計を見たことがある。ヨーロッパではスポーツ省のある国が多い。スポーツを文化としてとらえる発想が根付いているからだ。生涯スポーツが、また競技スポーツのすそ野となる。
五輪の時だけ盛り上がって、終わったら全く関心がないというのではあまりに悲しい。日本にスポーツ文化を確立させるため、国もJOCも努力を惜しまないでほしい。(長野五輪金メダリスト・清水宏保
(2010年2月23日 アサヒ・コムスポーツ後進国 日本』より抜粋)

国やJOCによるサポート、デレゲーションのアンバランス、国民のスポーツへの関心の低さといった問題については、これまでにも幾度となく指摘されてきた。
金銀銅すべてのメダルを所有するアスリートが、未だにそれを問題視しているとすれば、斯界はその指摘を真摯に受け止める必要があるだろう。
しかし、「スポーツ先進国(後進国)」という表現およびその文脈を丁寧に読み解いていく作業を怠ると、目指すべき方向性を見誤りかねない。
我々がスポーツに向ける「まなざし」は多様であり、その評価のためにかける「メガネ」もまた多岐にわたるのである。

『五輪、経済…躍進韓国に学ぶ』
冬季競技で日本はかつてアジアの主導的立場。それが冬季五輪の総獲得メダル数は日本が三十五個に対し、韓国は四十個と逆転されてしまった。
さらに日本のお家芸だった家電などでも韓国の躍進ぶりが目立つ。
家電・電子製品メーカー「サムスン電子」は、多国籍企業で総売上高は約十兆六千億円。半導体の売上高は米国インテルに次ぎ二位。薄型テレビでは世界一位だ。
アラブ首長国連邦UAE)初の原子力発電所建設では昨年末、日米仏を制し、韓国が受注に成功。建設と運転管理費で約三・七兆円の契約高をものにした。
日本に「追いつき追い越せ」が合い言葉だった韓国だが、今度は日本が学ぶ番でもある。韓国が国際舞台で力を発揮できるのは、なぜか。
まずスポーツ分野について、中央日報の朴素?駐日特派員は「韓国人は欧米人に比べて体格や体力で不利。母親が練習させた金姸児選手は例外的存在で、韓国が得意とする競技は決して多くない」。少ない得意分野で選手を徹底育成する「一点集中型」だという。
才能を認められた子はスポーツ名門の中学や高校に入り、国や企業の支援を得て訓練を受ける。自ら好きな競技で腕を磨き、卓越すれば選抜される日本とは異なる。「訓練はスパルタといえるほど厳しい。各競技の人口は少なく、エリート教育の結果」と朴氏。
経済面は同じ資源小国だが、その背景には「中国という大国と、国際経済や政治で一定の地位を築いてきた日本に挟まれ、埋没する危機感がある。分断国家で経済的にどう転ぶか分からない意識も、常にある」とも。
一方、「国や企業のトップは根回しや合意形成よりも、トップダウンで物事を決め、対応する。そんな迅速な意志決定と対応の結果」と話すのは、東海大金慶珠准教授だ。
原発の受注も、李明博大統領のトップセールスが奏功したといわれる。「歴史上、何度も侵略されてきた韓国は状況変化に機敏。また優劣を付ける大胆さがあり、優れたところに集中投資し、少数精鋭が全体を引っ張っていく。そんなお国柄が今の時代に合っているのだろう」
その半面、「格差」も残る。スポーツは大衆化しておらず、企業もサムスンなどの巨大企業の陰で、中小企業は育ちにくい。大統領権限は強いが官僚や国会議員は弱い。
だが「結果を出している今、世論はそれを良しとしている」と、金氏は日本にこう助言する。
「格差の是正に努めつつ、今ある状況の中で活力を生み出す発想が必要だ。今の日本は平等神話にがんじがらめになりすぎてはいないか」(岩岡千景記者)
(2010年2月23日 東京新聞より抜粋)

前回のエントリーで引いた「ほとんどすべての種目に選手を出場させている日本は今でもアジア最強のスポーツ国家だ。スポーツの底辺拡大に成功した日本から私たちが学ぶ点は間違いなく多い(byパク・ソヨン東京特派員)」というコメントは、勝者の余裕から出た単なるおべんちゃらとは思えない。
アスリートの生涯年金や報酬(報奨金や日当など)を「国費」に求めるようになれば、国民に対する説明責任、すなわち「メダル至上主義」は一層厳しいものになるだろう。
そのことは、「結果を出している今、世論はそれを良しとしている(by金准教授)」というコメントにもよく表れている。
そして、そのような「手厚い報酬」は、「才能を認められた子はスポーツ名門の中学や高校に入り、国や企業の支援を得て訓練を受ける」という少数精鋭主義によって成り立っているとも言える。
得るものがあれば、必ず失うものがある。
国費によるサポートを希求するのであれば、同時に韓国のような「一点集中型」のスポーツ環境を受け入れる覚悟を持たねばなるまい。
野球だけの問題ではないが、高校の野球部が53校にしかない「韓国」と、4132校(高校球児16万9000人)にある「日本」のどちらを「ハッピーな環境」と考えるか、である。
また「スポーツが医療費を縮減する」というのも、巷間よく言われることである。
しかしスポーツをすれば、すべての人間に「健全な精神」が宿り、優れた「社会性」を帯び、「健康」が得られるわけではない(そういう人もいる)。
逆にスポーツをしているが故に、「不健全な精神」が宿り、「社会性」をもたない「不健康」そうな御仁もいないわけではない。
さらにスポーツをしていなくても、「健全な精神」が宿り、優れた「社会性」を帯びた「健康」的な御仁は数多おられるのである。

二十一世紀体育への提言

二十一世紀体育への提言

中学校の元体育教師だった星野富弘さんは還暦を数年前に迎えた年頃である。二十四歳の時、体操競技の練習中の事故で、首から下が完全麻痺という不治の重症を負う。食べる、話すなどをも身体活動に含めると、身体運動を伴う活動と言えば、介助によって口にした筆を使って、一般に精神活動として位置づけられている、絵を画く、字を書くなどしか残されていない。(…)
彼の生き方に内在しているとみられる体育は、人間にとって体育は根本的に何なのかを問いかけているように思われる。
その第一は、『今日一般に身体的事象に対して精神的事象とされている活動も、実は最も重要な身体的体育的事象でもあるのではないか』という問いかけである。
人間は何事も生命体としての身体によって行っている。人間生命体としての身体の特徴は豊かな精神活動ができること、このことが基礎になって豊かな身体活動ができることにある。したがって、精神活動それ自身のなかにある身体性を配慮しない体育観は人間不在であることを星野さんの生き方は警告している。
その第二は、『体育の基本は、何よりもまず日常生活の全体を体育的にもなるように整え、その上でその上乗せ効果のある手段を取り入れることにあるのではないか』という問いかけである。
彼の規則正しい日常生活に内在している体育は、障害者の体育は何かよりも、より以上に全ての人に求められる体育の基本は何かを教えている。
人間生命体としての身体を目指す生き方ができるように積極的に育てる体育には、二十一世紀が人類に求める個人的社会的にみて望ましい生き方への変革に独自な先導的役割を果たすことが期待できるはずである。しかし、人類は今日なおこの期待に応え得る体育観を確立してはいない。それのみか、偏狭なスポーツ型体育観が国際的にみて支配的なことが主な原因になって、学界を含む体育・スポーツ界には、体育・スポーツに関する基本的なことに今日なお著しい曖昧・混迷を越えて、閉塞さえも感じられる。二十一世紀の期待に応えるには、その前提条件として、体育手段の限定されたスポーツ型体育観からの脱却が不可欠であると考えられる。
(by金原勇氏)

スポーツを通した身体活動が、様々な効果をもたらすということに異論はない。
しかし、本来的な「スポーツのあり方」を問うのは、それほど簡単なことではないのである。

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

たしかに、遊びは勝とうとする意欲を前提としている。禁止行為を守りつつ、自己の持てる力を最大限に発揮しようとするものだ。しかし、もっとも大事なことは、礼儀において敵に立ちまさり、原則として敵を信頼し、敵意なしに戦うことである。さらにまた、思いがけない敗北、不運、宿命といったものをあらかじめ覚悟し、怒ったり自棄になったりせずに、敗北を甘受することである。…実際ゲームが再開されるときは、これはまったくの新規蒔き直しなのだし、何がだめになったわけでもないのだ。だから遊戯者は、相手を咎めたり自分に失望したりするのではなく、一そうの努力をするがいいのである

ひとつの「ゲーム」が終わり、また新たな「ゲーム」が始まる。