JOCコーチ会議と織田幹雄さん

moriyasu11232010-05-02

4月27日、NTCにて行われた日本オリンピック委員会JOC)主催のコーチ会議に参加。
会議は、福田富昭副会長からの「基礎体力向上!」というお約束の叱咤激励で幕を開ける。
続く「ゴールドプラン目標達成に向けて」では、上村春樹選手強化本部長が「2016年リオデジャネイロ五輪で金メダル世界3位」「12年ロンドン五輪で世界5位、北京五輪から倍増の16個から18個は取りたい」「ソフトボールや野球がなくなるため、プラスアルファが必要」「体操や女子マラソンのほかカヌーやフェンシングにも期待」といった「目標」などなどを矢継ぎ早に伝達(30分の予定が15分で終了)。

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

私たちは、「日本はしかじかのものであらねばならない」という当為に準拠して国家像を形成するということをしません。(…)私たちはひたすら他国との比較に熱中します。「よその国はこうこうであるが、わが国はこうこうである。だからわが国のありようはよその国を基準に正されねばならない」という文型でしか「慨世の言」が語られない。
オバマ大統領の就任演説のあと、感想を求められた当時のわが国の総理大臣は「世界一位と二位の経済大国が協力してゆくことが必要だ」というコメントを出しました。これは典型的に日本人的な発言だったと私は思います。(…)首相はその「ランキング表」をまず頭に浮かべて、それをもって日本の国際的な役割とアメリカにとってのわが国の有用性を言い立てようとした(…)ある国固有の、代替不能の存在理由は、その国のGDPや軍事予算の額やノーベル賞受賞者の数などとは無関係に本態的に定まっているという発想がここにはありません。
(by内田樹氏)

冒頭のお二方の言からは、残念ながら「我が国固有の『スポーツ』の、代替不能の存在理由が、メダルの数などとは無関係に本態的に定まっているという発想」を見いだすことはできなかった。
続いて、橋本聖子バンクーバー五輪選手団長が「選手団団長として選手・指導者に求めるもの」と題して、メダル1個に終わったトリノから4年、選手団長として何を成すべきかについて腐心した心情を吐露された。
休憩を挟んで、勝田隆ゴールドプラン委員会副委員長から、現在策定中の「Team JAPAN ポリシーステートメント」に関する中間報告。

進化する今日のグローバル社会において、日本がオリンピック競技大会に参加するだけの時代は終わった。日本は、国際社会のリーダー国であり豊かなスポーツを推進することを目指す国である。これからはオリンピズムを守り、発展させていかなくてはならない。かつて、日本人初のオリンピック金メダリストである織田幹雄は、「強いものは美しい」と述べた。世界中から尊敬されるオリンピック競技大会の勝者は、まさにオリンピズムの体現者であり、その象徴である。そのために我々は、高い競技力を持ち尊敬される競技者の強化・育成に取り組む。
(「JOC Team JAPAN ポリシー・ステートメント 〜中間報告〜」より抜粋)

勝田氏は、1928年アムステルダム五輪の男子三段跳び金メダリストである故織田幹雄氏(冒頭写真)が母校の小学校に寄贈したという「強いものは美しい」という色紙を示しつつ、「高い競技力を持ち尊敬される競技者の強化・育成に取り組む」という上記ポリシー?の策定理由について説明。
後に行われた「ポリシー・ステートメント」に関する個別セッションにおいて、JOCの理事らしきご年配の方から「Team JAPANの人たちは、もっと歴史に学ぶべきである」という誠に正鵠を得たご指摘があった(「Team JAPANの人たち」という他人行儀な表現も興味深い)。
先のエントリーで紹介した、元衆議院議員白川勝彦氏のご指摘を再録する。


夏、散歩でこの所を通る度に芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」を思い出さざるを得ない。東京オリンピックは決して“兵どもの夢”ではなかった。日本人とアジアの人々に夢を与えたビッグイベントだった。問題はこれを受け継いでいる人たちにあるのだ。このような状況を放置していながら、再び東京にオリンピックを誘致しようとしている輩なのである。(…)
2016年のオリンピックを東京に誘致しようという人たちには、要するに“温故知新の精神”が欠如しているのだと思う。そして謙虚さも欠けているのだ。東京オリンピックを誘致し、成功させた先人に想いを寄せることなくオリンピックを再び東京に誘致しても、長い目でみると“兵どもが夢の跡”を残すだけになると私は思う。私は東京オリンピックの誘致に反対しないが、こういうところを改めない限り賛成できない。温故知新も謙虚さも、日本人の美徳であった筈だ。
(2008年8月25日 永田町徒然草兵どもが夢の跡!?」より抜粋)

国際陸上競技連盟(IAAF)は、折しも今年で44回目を数える織田幹雄記念国際陸上競技大会の3日前(4月26日)に、織田氏の生前のインタビューを公式ホームページに掲載し、氏の足跡や、アジア人として個人種目で初の五輪金メダルを獲得したことなどを紹介しつつ、その功績をたたえている。
このインタビューは、96年から織田氏が亡くなる前年の97年にかけて、元朝日新聞編集委員の中条一雄氏が行い、織田氏の長男である正男氏らが英訳してまとめられたものである。

Q:Was it a quiet time? Today gold medalists are considered heroes or big stars, and honorable medals are bestowed from the government.
A:Today the athletes are miserable. People are watching. Mass media is watching. They are used on TV as tool of commercialism. Sports Associations use them as tool to make advertisements of their own. The personality of athletes is ignored. Athletes themselves must be strong. Otherwise, they loose themselves. I doubt whether this is a happy for sports.
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Q:For the people at that time, was sports considered a just a hobby, not part of concentrated study?
A:It is true. The Olympic Champions played later an important role in the society. Nowadays athletes are doing only sports. What is important is not the duration of how much they trained, but how high they achieve. Sport is trending in the wrong direction.
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Q:What is your view of the 1980 Moscow Olympics boycott?
A:I was against a boycott from the beginning. The reason is simple. There should be no boycott in Olympics. This is a fundamental principle. Our main consideration instead should have been how we would conduct a productive meeting. One solution might have been to wait one year to observe the state of world affairs. The most important point is that all nations should be able to participate, not only a select few. This was my belief and I pressed this point with the Track & Field Association as well as with the JOC.
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Q:Do you think a national flag ceremony is necessary for the Olympics?
A:I wish that both the National flag and National anthem ceremony should be abolished. After Soviet Russia participated, hoisting of the flag became an important element of the Olympics. Before World War II it was different. The sports world after the war deviated from the right way. For many years my opinion was to abolish these practice. It is enough to use just the Olympic anthem and flag.
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Q:Is it a true statement that IOC members are too self absorbed and can no longer think of athletes?
A:One more thing. People say the Olympic is a movement for peace. But actually nothing is done. They say the games are for peace because young people from all over the world gather and play. But those who could not win simply return home next day. There is no real movement for peace. My cherished desire is to hold a welcome reception after the games. All the Athletes, winner and losers alike, can get together and exchange information. It would cost money and require commitment. But we can’t consider the present Olympics as a movement for peace unless coaches and athlete of all nations get together and can friendly exchange conversation.
(extract passages from the article「Mikio Oda(by Masao Oda and James Gussman)]」)

この内容を概観する限り、氏は、少なくとも現在のJOCとは異なる「理念(ポリシー?)」をもたれていたことが見て取れる。
我々に巣くう問題の本質は、先賢が肺腑から絞り出した言葉を十分に「内面化」することなく、また「伝統」として受け継ぐこともなく、ほとんど忘れ去ってしまっていることにある。
さらに、先賢の言葉を自分に都合良く引用することは、研究論文執筆の際に師から厳に戒められることでもある(自戒)。
ポリシー云々の策定に関わっている方々は、「強いものは美しい」という言葉を引用するにあたり、氏のスポーツ観やオリンピック観を参照したのだろうか。

ドイツのスポーツ史家、カール・ディームがクーベルタンの言葉を紹介している。
「商取引の場か、神殿か、スポーツマンがそれを選ぶべきである。あなた方は自分でそのひとつを選ばなくてはならない」
これはハンガリープラハで行った演説の一部だ。クーベルタンは1937年に死去したが、「近代オリンピックの父」は、五輪がいずれ「商取引=ビジネス」に利用されることを予言していたのだろう。逆に、「神殿」は聖なる五輪の精神と言い換えることができる。(…)
改めて詳述する必要はないが、サマランチ氏が会長に就任した1980年以降、ドーピングや招致活動にまつわる買収疑惑など数々の問題が表面化した。その事実は、いくらサマランチ氏の「功績」を挙げ連ねても消えない。
五輪のゆがみに最も気づいているのは、実は主催者であるIOCではないか、という気がする。ジャック・ロゲ会長は今夏にシンガポールで開催する「ユース五輪」について、次のような言葉をIOCの公式サイトで表明している。
ユース五輪は、『ミニ五輪』となるべきではない。五輪の価値、健康、ライフスタイル、社会的責任という点において、若いアスリートたちはユース五輪で競技以上のものを学ぶことができる」
14歳から18歳の若者を対象にした新設大会、ユース五輪の構想が明らかになった頃、次世代のトップアスリートが集まる「見本市」になるのではないか、IOCはビジネス路線を拡大しようとしているのではないか、という懸念があった。しかし、ロゲ会長は「ミニ五輪」という言葉を使って、こうした見方を打ち消している。世界の若者が友好を図り、相互理解を深めていく場であることを強調しているのだ。種目数や参加人数を制限して大会規模を絞り、大会中は選手村に滞在することを求めて、競技よりも交流の場になることを重視している。
(2010年4月26日 滝口隆司氏コラム「商取引か神殿か、五輪の進む道」より抜粋)

前回のエントリーで、イギリス有閑階級が守り抜こうとした「フェアネス」について触れた。
クーベルタンは、「英国のパブリックスクールで行われていた青少年のスポーツに感銘を受けた」ことをきっかけに近代オリンピックを復興させたといわれており、そこには「自律心や規範意識」「スポーツは報酬や名声を得るためのものでなく、無償のものである」という精神が宿っている。
「五輪のゆがみに最も気づいているのは、実は主催者であるIOCではないか(by滝口氏)」
ユース五輪」構想には、まるで織田氏の「遺言」を参照したかのような雰囲気が醸し出されているように思われる。

文明の生態史観 (中公文庫)

文明の生態史観 (中公文庫)

日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している、一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。
おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族とのちがいであろうとおもう。
(by梅棹忠夫氏)

今回の会議では、「世界基準」をキーワードに、「IOCが…を重視する方針だから、我が国(JOC)もそれに準拠しなければならない」というニュアンスの発言が飛び交っていた。
あえて繰り返すが、そこには「我が国固有の『スポーツ』の、代替不能の存在理由が、メダルの数などとは無関係に本態的に定まっている」という矜恃が存在していない。
織田氏にも、ロゲIOC会長にも、それぞれの立場や関心に基づく「信念」がある。
その信念の「本質」に過たず接近するためには、温故知新の精神と謙虚さを前提とする相応の労力と知性が必要であるということを、我々は肝に銘じる必要がある。