セメンヤ問題

moriyasu11232010-05-24

『陸上:元中距離女王、性別疑惑のセメンヤに助言』
2000年シドニー五輪陸上女子八百メートルでモザンビークに初の金メダルをもたらすなど、中距離界に君臨したマリア・ムトラは37歳の現在、サッカー選手だ。08年北京五輪後にトラックを去ると、活躍の舞台をピッチに移し、南アフリカヨハネスブルクのクラブに所属する。
南アフリカとの縁は10年前に陸上の練習拠点にして以来。性別疑惑で揺れる昨年の世界選手権女子八百メートル覇者、キャスター・セメンヤから助言を求められ、連絡を取り合っているという。
現役時代のムトラも圧倒的な強さと筋肉質の体つきのため、性別について事実無根のうわさで苦しめられた。セメンヤ問題の結論を先延ばしにする国際陸連に対し「走っていいのか、駄目なのかを早くはっきりさせるべきだ。答えを出さずに、これほど長く中ぶらりんにしておくのはあんまり」と怒りを隠さなかった。
(2010年5月19日 毎日新聞

ムトラが、南アフリカでサッカーしてるとは知らなんだ。
世の中には、まだまだ知らないことがたくさんある。
さて、標記の問題について、セメンヤの母国、南アフリカスポーツ科学者であるNoakes博士が言及していることについて、弟子のTucker博士が言及している(ややこしいな…)。

『Caster Semenya - Tim Noakes’ view』
On another athletics note, the Caster Semenya story is drifting slowly and mercilessly towards its own climax. First, Lamine Diack, President of the IAAF, announced that results were certain to be released by the end of June (this was not news as much as it was confirmation of what has been said for a while now).
And then just this last weekend, Prof Tim Noakes, who I have the highest respect for as my PhD supervisor and now employer, was reported to have said that Semenya was the victim of an “image management campaign”, and that she should be allowed to compete since her advantage did not make her as fast as men.
He was quoted as saying “As many as eight intersex women may have been expelled from athletics in the past and I gather that they were warned that if they made a fuss, they would be exposed. So it seems it's not about athletic advantage, it's about keeping the Olympics free of unwanted complications. It sends the message that women must do what men say and if the eight athletes had to be sacrificed, so be it, which I find very disturbing,"
He goes on to say “My view is that Caster Semenya should be allowed to run. She is not running as fast as men nor is she running as fast as some other women. If she was running 1:41, then we would have a problem. There are some genetic variants allowed in sport. I would argue, for example, that Usain Bolt is genetically different. If these genetic variants are linked to gender, then so be it”.
I agree with Noakes on the image management issue and that athletes may have been threatened before. The management of the whole intersex issue has been an absolute disaster for sports authorities. There is without doubt an agenda to keep the image of the sport “clean” (whatever that means - it’s open to interpretation). Whether it is driven by male chauvinism, financial pressure, archaic thinking, I don’t know. I would say, somewhat in defence of the IAAF and IOC, that if they did not act, then they would undoubtedly face objections to Semenya’s participation, and many (possibly most) would come from women. So the IAAF, as the custodian of the sport, is in a difficult situation, where they have to act on behalf all parties, and from this perspective, it is very much about athletic advantage because that would be the basis for the challenges and complaints by others. As many would be unhappy with inaction as are currently unhappy, though for different reasons, which some will disregard as trivial.
As for the second issue, Semenya’s eligibility to compete, I have already written a great deal on this topic, in particular the argument that any genetic advantage that Semenya possesses is analogous to that possessed by an Usain Bolt or Michael Phelps. To read that post, click here. My position is that the two are dissimilar because we don’t compete in categories of fast-twitch fiber or enzyme type or lung volume or foot size (or whatever you believe makes Bolt and Phelps the world record holders). We do however compete as males and females, and thus the distinction between the two should be defended. A genetic advantage that pushes an individual from one category into another is not the same as one which moves an individual up or down within the same category.
Consider basketball. People are largely born to play it, because if you’re 1.70m tall, your chances are slim. But we don’t compete in categories of height, and so within the “open population”, we accept that height is advantageous. If we had a category for under 1.70m, then the line would have be enforced, and a genetic “abnormality” causing someone to be tall would exclude them from competing at the lower level. The same goes for male and female.
So I respectfully disagree with the assertion that gender variants linked to gender are acceptable. And this is fine, because everyone is entitled to a position and I certainly don’t think that Prof Noakes is wrong. This is not a matter for which there is overwhelming proof (even the PIstorius controversy has mountains of proof compared to this). Nor is his opinion an isolated one - many will agree with it. I just don’t see the issue that way.
I also would not agree that there is no problem with her participating, just because she is running slower than 1:41 (which is the men’s record, by the way). My position here is that she runs against women, and so whether an advantage pushes her into the men’s range is irrelevant. The issue is that it pushes her out of the women’s range, and well into a higher percentile of men’s performance than women can achieve, without suspicious circumstances.
As for not running faster than some other women, if you look at the history of women’s 800m running, and you see some of the women who have run 1:54 or faster, you’ll appreciate that only women with massive amounts of testosterone (that is, dopers) get to those levels. I am sure Prof Noakes and I will debate this one in due course, and I look forward to it! We’ve discussed it before, and so I wasn’t surprised by the quotes, just as I’m sure he knows my views. This kind of debate is the fuel of research, after all. I suspect the difference in opinion is because I am coming from an athletics paradigm, where he is speaking from outside it. Nevertheless, an intriguing viewpoint.
(TUESDAY, MAY 18, 2010 extract passages from the article「Sports news and sports science in the news」)

Noakes博士は、セメンヤ選手が国際陸連(IAAF)や国際オリンピック委員会IOC)の「イメージキャンペーン」の犠牲者であり、彼女以外にも性的特性があいまいとされた8人の女子選手が「文句を言ったら公表する」と脅しをかけられ、秘密裏に出場を差し止められた過去があるとその姿勢を批判している。
事の真偽は確かめようもないが、もしこれが事実であるとすれば、スポーツ界の恣意的なイメージ操作という点において、品格とフェアネスの問題にも通底する。
さらにNoakes博士は、「彼女が男性の世界記録ほど速く走っていないばかりか、彼女よりも速く走っている女性選手がいる以上、選手として走ることを認めなければならない」と続ける。
それを受けて、Tucker博士は、この問題についてバスケットボールを例にとった議論を展開している。
身長170cmであれば、バスケットボール選手として大成する可能性は高くないが、そもそもバスケットボールは身長を競っているわけではなく、あくまでも高さが「有利」であることを認めているに過ぎない。
仮に身長が低いことが不利だという理由で170cm以下という基準を設けたとすれば、その境界線は厳格に規定され、身長が高くなる遺伝学的性質をもつ選手は競技会からは除外される。
同じことが、「性別」という「カテゴリー」にも言える。
したがって、「性的変異」を「性そのもの」に直接的に結びつける主張に与することはできないし、誰にでも競技する権利があるというNoakes博士の見解に賛同する、というのがTucker博士の言い分である。

フェアは、純粋に戦い、強いもの・能力にすぐれているものが勝利するようにと、戦いを不純にする撹乱要因となるものを出来るだけ排除して、その条件を同一にしようというものであろう。そうだとしたら、撹乱要因を排除し純粋に戦って強いものが強いものとして勝利することがフェアであれば、巨人と小人が素手で戦うのは、フェアだというべきなのであろう。(…)
スポーツでは、こういうとき、階級別にすることがある。あるいは、男女別の競技とするのもそれである。柔道やボクシングでは、体重別にする。重量のあるものとないものとでは、ほぼ、戦うまえから、重量のあるものの勝利と分かっているからである。なるべく互角の戦いができる相手と戦えるようにしようとの配慮である。だが、そうすることがフェアかどうかは、別の話であろう。階級別・男女別とすることは、体重や性の差をもって別にするのであって差別しているのであり、フェアのいう公平の精神からは、後退しているというべきで、公平さを欠く点では、アンフェアな仕組みといわれるべきかも知れない。
体重59キロの者と62キロの者がいて、62キロの者が59キロの者より常に強くて勝っていたとしても、体重 60 キロで別の階級にされるとしたら、この階級別のもとでは、62 キロの者は入賞さえできず、59 キロの者は金メダルをもらうというような、弱い者の方が賛えられるアンフェアなことが生じうるのである。(…)
その点、重量の問題に限ってのことだが、体重が柔道以上に勝敗と関係のある大相撲は、実に単純明快にフェアである。体重別をとらずに、軽かろうと重かろうと真に強いものが勝てるようにしているのである(番付で、実際には差を設けていて、あい似た強い力士同士が取り組むことになる)。それでも、強ければ、いずれは、上位の強いものと対決できるのである。軽いものは、不利になるであろうが、それも能力・実力のうちのひとつであり、代わりに技をたくみにしたり、筋力をつける努力をして、実力をつけて、巨人に小人が立ち向かって堂々と戦っているのである。
(近藤良樹「フェアの精神と資本制社会との相性」HABITUS(西日本応用倫理学研究会編)1998年9月号より抜粋)

我が国では、主にタレント発掘という文脈で遺伝子研究が進められているため、このようなテーマでラディカルな議論を展開しているNoakesやTuckerのような(自然科学の)研究者の存在は寡聞にして知らない。
昨年のベルリン世界陸上後、セメンヤ選手が「両性具有」であるという報道が世界中を駆け巡った。

『性別疑惑のセメンヤ選手は両性具有だった』
女か男かで議論が渦巻いているベルリン世界陸上女子800メートルの金メダリスト、キャスター・セメンヤ選手(18)=南アフリカ=の性別に関し、国際陸連(IAAF)の性別検査の結果、同選手が両性の身体的特徴を持っていることが明らかになった。11日、豪州各紙が報じた。
デーリー・テレグラフ紙、シドニー・モーニング・ヘラルド紙によると、セメンヤの性別検査は医師はじめ各分野の複数の専門家によって行われた。検査でセメンヤには両性の身体的特徴が認められ、体内に睾丸があり、子宮と卵巣がなく、男性ホルモンのテストテロン数値が通常の女性の3倍以上も分泌されていることが判明したという。
これによって今後、世界陸上での金メダルや国際競技参加資格の剥奪処分が下されることも考えられる中、IAAFのニック・デービース広報担当は「自動的に失格ということにはならないだろう。ドーピングの検査などとは違う。過去の事例と比較して判断されるべき」と話している。同様の事例はIAAFだけでも過去4年間で8件あり、そのうち2件に失格処分が下されている。
ただ米各メディアは、「男性ホルモンは男女両性が分泌するもので、それだけで性別を判断できない」とする専門家の意見も取り上げている。検査結果は今週中に正式に報告される予定だが、IAAFの性別検査に関しては人種差別との批判も強かっただけに、この問題の波紋は、さらに広がりそうだ。
(2009年9月11日 産経ニュース)

これに対して、南アのスポーツ・余暇相は、「第3次世界大戦」も辞さずという物騒な表現で応戦している。
蛇足だが、この「スポーツ・余暇相」というネーミングは、とってもイカしている、と思う。

『スポーツ・余暇相 セメンヤの競技生活が阻害されれば「第3次世界大戦」』
南アフリカのスポーツ・余暇相が11日、両性具有と報じられたキャスター・セメンヤ(Caster Semenya)の競技生活が妨げられた場合、「第3次世界大戦」だと語った。
セメンヤのテストにかかわった匿名の関係者が、同選手が男性器と女性器を持ち、子宮や卵巣はないと語ったと豪デーリー・テレグラフ(Daily Telegraph)紙が報道したことに対し、マケンケシ・ストフィーレ(Makhenkesi Stofile)スポーツ・余暇相は、「第3次世界大戦ものだと考える。そのような決定に対しては最高レベルの抗議を行う」と語っている。
南アフリカ通信(SAPA)は、セメンヤに対する国際陸上競技連盟(International Association of Athletics Federations、IAAF)の決定が下される11月を前に、南アフリカ政府が独自の検査を行うと報じている。ストフィーレ・スポーツ・余暇相は「われわれは11月まで待てない」と語っている。
南アフリカ北東部にある地方の村で育ったセメンヤは、プレトリア(Pretoria)で12日に開催されるクロスカントリー選手権の4キロメートルに出場する予定だったが、同選手のコーチは出場を辞退したことを明らかにしている。
マイケル・セメ(Michael Seme)コーチは「われわれは明日(12日)キャスターが走らないという決定を下した」と語り、同選手の「気分が優れない」と付け加えている。
IAAFとセメンヤの家族は、報道合戦につながったデーリー・テレグラフ紙の報道に怒りをあらわにしている。
セメンヤの祖母は南アフリカのタイムズ(The Times)紙に対し「わたしは少女のころから彼女を育てており、彼女が女性であることに疑いはない。家族の一員として、わたしたちは誰が何を言おうが気にしないし、彼女が国際舞台で走れなくなっても構わないが、彼女の陸上の才能を常にサポートしていく」と語っている。
IAAFは、デーリー・テレグラフ紙の報道への関与を重要視しておらず、11日に声明で「われわれはこれがIAAFの公式な見解ではないことを強調したい」と発表している。
南アフリカのジェイコブ・ズマ(Jacob Zuma)大統領は11日、報道はセメンヤのプライバシーを侵害したとの見解を示し、メディアを批判している。
ズマ大統領は「われわれは不幸な状況に直面している。この国はプライバシーと人権の尊重を宣言しており、これらの原則と価値観に反する動きに対しては何らかの行動を起こす」と語っている。
南アフリカの与党アフリカ民族会議(African National Congress、ANC)は、今回の報道を「侮辱的かつ屈辱的」と断じ、今回の騒動に対し法的措置を検討するというスポーツ・余暇相の発言を歓迎している。
ANCは声明で「南アフリカ政府には、キャスターを権利侵害から守るためにすべての法的手段を模索する権利がある。われわれは南アフリカ政府と南アフリカ陸上連盟(Athletics South Africa、ASA)に対し、キャスターの人権の侵害と非常識な嫌がらせを阻止するよう要請する」と発表している。
(2009年09月12日 AFPBB News

「両性具有」とは、上記英文で言うところの「インターセックス (intersex)」と同義であり、第一次性徴における性別の判別が難しい状態のことを指す。
一般的に、性別は男性と女性に二分されているが、実際には精神的にも肉体的にもはっきりと二分できるものではないことから、この状態を「半陰陽ふたなり)」と名付けて「第三の性」と位置づけてきた歴史的文脈もある。
それどころか、「陽と陰」「男と女」といった二項対立を補完するような「調和」を重視する「陰陽思想」に基づき、この「半陰陽」を理想的な性のあり方とする考え方まで存在していた。
しかし、明治以降に西洋的な考えが導入された結果、生殖能力に欠けるケースの多いことを理由に「先天的疾患」に分類され、社会から無視されるようになってしまった、ということらしい。

交叉する身体と遊び―あいまいさの文化社会学

交叉する身体と遊び―あいまいさの文化社会学

身体はもっとも自分に近いものであるにもかかわらず、もっとも遠いものでもあると具体的には理解されるべきであろう。(…)つまり、私たちにとっての自身の身体とは、もっとも根本的な次元では、まず「わからないもの」という不安として存在しているということである。
けれども身体に通常、不安もいだかず、いちいち意識することもなく私たちが過ごせているのは「鏡の現象」のおかげである(…)つまり、直接見ることのできない身体でも、鏡に映せば見ることができる。そうして、ある種の像を心の中に思い描けるからこそ、そのような不安や混乱もないのである。(…)さらには、そのような身体はまずイメージとして私たちに分かちもたれている、ということでもある。「男のからだとはこういうものだ」とか「女のからだとはこういうものだ」という言葉やイメージがそれである。(…)
この意味で、身体は常に社会性を有している。私たちはそうした何らかの社会関係があるからこそ身体の像を獲得できるのだから、社会性のない身体、あるいは純粋に生物学的な身体など、「そのようなものがあるとして語ってみる」というほどの意味しか持たないのが事実なのである。確かに生物学的には、雄性と雌性の両極があり、個体としての身体のあり方を探れば、濃淡こそあれその連続線上に、それぞれが位置していること自体は疑い得ない。ただ、それを「女のからだ」とか「男のからだ」と医学的にどこかで弁別する行為でさえ、実は「鏡の現象」の一つなのである。けれども、こうした身体の現象学的な認識は、ジェンダー/セックスという二分法を身体のレベルで無化することにつながる反面、人間の実在が抱え込む本来的な不安の層にまで視線を与えてしまうことで、ジェンダーが産出される必然性についてのより本質的な困難に出会ってしまうことも、また事実であろう。
(by松田恵示氏)

セメンヤ選手の身体的特徴については知る由もないし、特段の関心もない。
いずれに結論しようとも、それはひとつの「鏡の現象」に過ぎない。
ただ、身分制度の厳しかった近代以前の社会が「半陰陽」という「あいまいさ」を受け入れる多様性を有していたにもかかわらず、万民平等の社会を目指し、またそれを実現してきたといわれる近・現代社会においてそれが排除されてしまったというのは、何とも皮肉な、そして何とも息苦しい話であると思われるのである。
ともあれ「6月末には結論を出す」という国際陸連の動向に注目しておきたい。