トレーニング科学の本質

moriyasu11232012-05-21

日本トレーニング科学会編集委員会の末席を汚す身として、機関誌「トレーニング科学(欧文名:Journal of Training Science for Exercise and Sports)」の特集の責任編集を拝命する。

特集の責任編集を仰せつかったとき、咄嗟に思い浮かんだキーワードが「量・質」と「事例研究」でしたが、その背景には「科学(サイエンス)」の意味内容の歴史的変遷があります。
古代ギリシアにおいてアリストテレスが構想した「philosophia(フィロソフィア)」は、広範な射程をもつ《学問全体》を指すものでしたが、アリストテレス以降は見たり確かめたりできないものについて考える「metaphysics(形而上学)」と観察・検証をベースとする「physics(自然学)」ほかへの分化が進んでいきます。この自然学の流れをくむ「science(サイエンス)」という言葉は、18〜19世紀の欧州を中心とする科学革命を契機にほぼ「natural science(自然科学)」だけを指す言葉として用いられていきます。
日本語の「科学」という言葉も、もともと西周が「専門的知識の体系全体」を指すドイツ語の「Wissenschaft」を「科學」と訳したといわれており、その意味でアリストテレスのフィロソフィア(学問)に近いと考えられますが、今日では欧米に倣いサイエンスの訳語として狭義に用いられるのが通例です。このような変遷をみるにつけ、今一度フィロソフィア(学問)の原初形態に立ち返りながら「トレーニングを科学する」ことの本質を問う必要があると感じます。
レーニング負荷は、いわゆる体力論的には、運動の強度、時間、頻度および休息時間などの「量的」負荷によって決まるとされていますが、そこで考慮されている心理的・技術的な「質的」 負荷によって得られる効果が異なることは自明です。また、様々な科学的手法によって“切り出された”エビデンスを体系化・理論化していくためには、それぞれ研究手法の特長や限界を理解しつつ目的に応じて取捨選択する能力が必須であり、それは1つの研究方法に習熟して突き詰めていく能力とは異なることを踏まえておく必要もあります。(…)
(拙稿「編集後記」トレーニング科学 第24巻1号より抜粋)

常識を「疑う」とか「壊す」ことが創造や創発の契機となることに異論はないが、闇雲に疑ったり壊したりするだけで新しいものが創出されるわけではない。
選手やコーチは、日々のトレーニングや試合などで知覚された「事実=現実の世界で実際に観測されている事象」をもとに立論された「仮説=頭の中で考えられた検証される前の理論」に依拠しながらトレーニングを実践していく。
この「仮説」の妥当性は、トレーニングや試合でのパフォーマンス(事実)を参照しながら繰り返し検証されていくが、そのプロセスのなかで「実証された事象間の関連(こうすればああなる)」としての「理論」が構築されていく。
換言すれば、確固たる「事実」の裏づけがあり、かつこの「理論」に基づいて「事実」が起きていると多くの人に(または自分の中に)確信として現れたものが『(科学的な)理論』ということになる。
この「理論」は、「信じつつ疑う」という矛盾した作業、すなわち自身の身体システムの「構築」と「解体」という矛盾に引き裂かれながら、それを再構築し続けることに動機づけられた「思考」によってのみ洗練化が可能となる。
この「思考」とは、すなわち「理論と実践の往復運動」にほかならない。
そのように洗練化された「身体知」でなければ、たとえ科学的で高級そうに見えるエビデンスであったとしても、ほとんど使い物にはならないのである。
このような問題意識のもと、「トレーニング科学における事例研究の重要性:量的・質的研究法の応用」というテーマを掲げるに至る。

エビデンスとナラティブ
「根拠に基づく医療(Evidence-based Medicine)」の本来的な意味は、疫学的手法を主体とする研究によって得られた「最良の根拠(エビデンス)」と「臨床家の経験」および「患者の価値観」などを統合し、よりよいケアに向けた“意志決定”を行うことにあるが、このエビデンスを「つくる〜伝える〜使う」という一連のプロセスには、①臨床現場の問題意識から発せられる「クリニカル・クエスチョン」の立て方、②患者や一般人への伝え方および反応のフィードバック方法、③エビデンスが「使われ過ぎる or 使われなさ過ぎる」という「エビデンス・診療ギャップ」などの課題も併存している(中山、2010)。このような課題に向き合うための方法として、患者自身が語る物語(ナラティブ)から病の背景を理解し、抱えている問題に対して全人的なアプローチを試みようという臨床手法、すなわち「Narrative-based Medicine」の重要性が再認識されている。今日の医療に所謂「(科学的)エビデンス」は不可欠なものとなったが、臨床の現場にはそれだけで対応しきれない場面があることも言を俟たない。
上記の「臨床家」を「コーチ」、「患者」を「選手」に置き換えれば、スポーツのトレーニング(コーチング)現場にエビデンスを提供しようとする研究分野への指摘として読み替え可能である。この現場には、臨床現場と同様、客観的(量的)に測定可能な事象と、それに関わる選手やコーチの「コツ」、「感じ」、「イメージ」といった主観的(質的)な事象が同居している。したがって、そこに立ち現れてくる「現象」を精度よく観察・分析するためには、目的に応じて適切なツールを選択する、または組み合わせることが必要となる。
研究方法の科学性
自然科学に代表される統計的・数量的研究における科学性と、人文(人間)科学に代表される質的研究の科学性は異質なものである。一般的に、いわゆる「量的」研究は、仮説検証や一般性のある知見を生み出すことに向いているとされているが、特定の前提がなければ成立しないため「前提そのもの」を問うことはできない。一方、「質的」研究は、仮説の生成や前提自体の問い直しが可能だが、仮説検証や一般性のある知見を生み出すには不向きである。
このとき、「一般性」の高い知見(理論)が、必ずしも多くの場合に有効とは限らないことに留意すべきである。比喩的にいえば、「90%の人に当てはまるが、10%しか説明できない(一般性の高い)」理論よりも、「10%の人にしか当てはまらないけれど90%説明できる(一般性の低い)」理論のほうが、むしろ現場では役に立つことも少なくない。狭義の「科学研究」の枠組みにおいては、「一般性の低い(と考えられている)」知見を提供する代表的な手法である「事例研究」の説明範囲の狭さを問題視するが、そのプロセスを適切に記述するための手続きが整理されていれば、複数の知見の組み合わせによって既存理論の修正および一般化が可能になることも十分に考慮すべきである。いずれにせよ、トレーニング科学の研究目的が、トレーニング周辺にある「現象」の適切な説明および構造の明確化にあると考えることは、「研究対象者(被験者)の多寡」や「量的研究vs質的研究」といった不毛な二元論的対立を乗り越える端緒となるはずである。
レーニング科学に求められるもの
既に多くの識者が指摘しているように、「トレーニング」というメタな問題意識に忠実になればなるほど、我々は学際的にならざるを得ない。本学会は、多士済々の専門家が集う「場」であり、学際的・領域横断的な研究に拓かれているという意味において、他の学会にはない“強み”を持っているといえる。しかし、既存の諸科学や専門分野の「集積」によって現場の問題を解決しようとする学際研究の現状として、領域が細分化することによる統合の困難性はもちろん、還元主義的な研究パラダイムの制約により、一般理論の構築を目指した実践知の集積に繋がりにくいなどの構造的な問題を指摘することも可能である。
レーニングの本質は、種々の運動の反復による変化と安定の絶えざる更新であり、実践に有用なトレーニング理論を展開するには、まずその本質を相対関係として認識し、それらの関係性の変化もしくは契機についての理解を深める必要がある(村木、2007)。この「絶えざる更新」プロセスを精度よく記述し、導き出された仮説の確度を高めて理論化へと向かうためには、詳細なパフォーマンス分析などの量的検証と、仮説や研究方法の前提となっている理論的枠組みそのものを問い直すような質的研究のいずれもが不可欠なものとなるのである。
真の意味で学際的・領域横断的な知を扱う「総合研究」の核心は、「ひとり学際研究」、すなわちある問題(テーマ)設定をして、その本質を多方面から「学際的」に理解したいと願う人間が、関連する学問分野のなかに踏み込み、その分野の知識や方法を学び、そのテーマの解明に関する限りにおいて、自身の内部で「学際」を達成することにある(森岡、1998)。改めて言うまでもないが、選手やコーチは、日々のトレーニング(コーチング)において量的・質的なアプローチを駆使しながら、自身の理論および実践の精度・確度を高めるための「ひとり学際研究」に邁進している。本学会の趣旨が、『あらゆるスポーツ実施の現場でのトレーニング内容及びその効果に関する具体例の集積と、それらについてのそれぞれの専門家の意見の交換の場の提供であり、そこから生まれてくるであろう新しいトレーニング方法を開発していくこと(「日本トレーニング科学会のあゆみ福永哲夫氏)」より抜粋)』にあるとすれば、多様な立場や関心をもった関係者個人内での理論化と実践の相互補完を念頭に置きつつ、了解可能な共通目的に照らして互いの方法や関心の妥当性を問い合うような「総合研究の場」としての機能が浮かび上がってくる。その機能を果たすためには、研究対象としての「事例」の積み上げはもちろん、事例研究を手掛ける研究者そのものの「事例」を集積することが喫緊の課題となる。
そこで今回の特集では、コーチングや科学サポートの現場において様々な「事例」への量的・質的なアプローチを試みている5名の先生方に、ご自身の研究およびサポート内容の紹介はもちろん、取り扱っている方法の特長や課題などについても可能な範囲で触れていただくようお願いした。
今回の特集が、今後のトレーニング科学における事例研究や領域横断的な研究のあり方を展望する契機となれば幸いである。
(拙稿「特集によせて」トレーニング科学 第24巻1号より抜粋)

「専門家」というのは「他領域の専門家」との議論や協働によってはじめて自身の専門性の限界(何の役に立たないのか)について自覚できるものだが、特定分野に閉じた専門家にはその契機が訪れにくい。
同じ価値観を共有し、同じ専門用語を用い、同じ基準で業績評価される場では、自らの存在理由を説明する必要がなく、かつ有用であるという前提(合意)があるため「その知識や技術の必要性」や「他領域との協働」などについての根源的な問いを立てることはほとんどない。
このような「官僚的」な研究・教育システムでは「狭いが深い専門的研究」か「広いが浅い教養教育」のいずれかになるが、学問の醍醐味を味わおうとするならば「広くて深い」否「広いからこそ深い」哲学的省察が必要である。
領域横断的な研究は、学問を深めるための手段であって目的ではない。
専門家集団が「協働」するためには「自分にはこれができる(有用性)」ということと同時に「これができない(無用性)」ということを正しく理解し、それを他分野の人に正確に伝える能力が必須である。
畢竟、体育やスポーツを「科学」するためには、その「実践」を始原とする学際的な研究分野であるという認識に立ち、自身の研究の有用性と無用性について正しく認識しつつ、メタな問題意識の共有および相互理解を図っていく必要があると思われるのである。
末筆になりましたが、このような機会を与えていただいた桜井編集委員長ならびにご寄稿いただいた先生方に心より御礼を申し上げます。
ありがとうございました。