品格とフェアネス

moriyasu11232010-04-25

『求む品位と品格! ポリシー・ステートメント作成へ』
日本オリンピック委員会JOC)のゴールドプラン委員会は23日、五輪に出場する日本代表選手団の社会的な位置づけを明確にする文書「ポリシー・ステートメント」を作成する方針を理事会に提案し、了承された。
同委員会の素案では、日本選手団の構成員を「品位と品格を兼ね備えた社会のロールモデル」と定義。2月のバンクーバー五輪で代表選手の服装問題が取りざたされた反省から、活動目標の一つに「子供に対する教育の一環を担う」を掲げ、自ら襟を正すことを義務づけている。
同委員会は今後、盛り込むべき具体条項について、JOC内で意見を募った上で文書化に取りかかる。
(2010年3月23日 MSN産経ニュースより)

「アスリートは社会のロールモデル<たり得るか>または<たるべきか>」というテーマで議論してみたいねーと言いながら、京都でご一緒したハードラーと品川駅で別れたのが先月の24日。
その前日には、すでにJOCが「(五輪日本選手団は)品位と品格を兼ね備えた社会のロールモデル」と定義していたようである。
ご丁寧に「子供に対する教育の一環を担う」という活動目標まで掲げられている。
先を越されてしまった(違うか…)。
方々は、一体どのような議論を踏まえて、このような結論に至ったのであろうか。

フェアネスの裏と表

フェアネスの裏と表

  • 作者: ハンスレンク,グンター・A.ピルツ,Hans Lenk,Gunter A. Pilz,片岡暁夫,深沢浩洋,笛木寛,関根正美,窪田奈希左
  • 出版社/メーカー: 不昧堂出版
  • 発売日: 2000/07
  • メディア: 単行本
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フェアプレイは、「うわべを飾るかのごとく一様にスポーツを染める」正当化の決まり文句に堕してしまったように思われる。スポーツのイメージがスキャンダルで汚されるやいなや、また、そうなってはじめて、責任ある立場の役員達はスポーツの名誉回復を気にかけるのである。(…)フェアネスを宣伝的に訴求しながら、その一方でフェアネスの問題を個人に帰するこのような手段は一石二鳥といえる。一方では、アンフェアな行為の構造的諸条件と組織的強制がその視野に入らないため、役員達自身の責任から目をそらせることが出来、他方、「清潔でフェアな」スポーツというイメージを外へ向かって売り込むこと、少なくともスポーツを清潔で信頼が置けるように、またそれによってスポンサーを引きつけ続けるためにあらゆる努力を払うスポーツ組織というイメージを売り込むこともできる。罪と罰はスポーツマンに与えられる。競技者は、スケープゴートである。
(byレンク氏)

海の向こうでは、発行部数が約400万部、世界中におよそ2500万人の読者がいると言われる雑誌において、「They're not Role Models」という特集が組まれていたようである。
さすがにアメリカを代表するリベラル誌?の真骨頂といったところか…
個人的にはいろいろと言いたいことのある国だが、この手のラディカルなテーマについて議論を深めようとする姿勢は見習わねばなるまい。
いずれにせよ、「ロールモデル云々」についての議論は、アスリートがロールモデルたり得るかという問題のずっと以前の、「スポーツ」と「フェアネス」の関係やその社会的意義、さらには「フェアネス原理」発生の歴史およびその社会的文脈における位置づけについて理解する必要がある。

まず、次の二点を明らかにする必要がある。一つはイギリスの中流階級と上流階級がフェアネスの価値と基準を作り上げたということである。二つめは、確かにフェアネスは古代、中世、近代初頭のイギリスにその萌芽がみられるのだが、ヴィクトリア王朝時代のイギリスにおいて初めて、フェアネスがスポーツの競争における機会均等の確立、自由意志に基づくルール遵守、パートナーとしての相手の尊重へと独自の内容を形成し確立することになったということである。イギリスの「有閑階級」は、もともとスポーツの競争を純粋な自己目的として行っていた。(…)メンツェルはそのことを次のように述べている。
「貴族にとって勝利はどうでもよいものであったし、それどころか胡散臭いものであった。宮廷新聞以外の新聞に名を取り上げられ、讃えられることは品が悪いとみなされていたのである。(…)
このような立場は、スポーツが自己目的であり続ける限り実現可能であるように思われる。そして、このような思慮と洞察に基づいてイギリスの上流階級はアマチュア規定を取り入れたのである。
(前掲書より抜粋)

「有閑階級」とは、有り体に言えば「暇人」のことを指す。
その暇な時間をつぶすために考え出した「遊び」が「(近代)スポーツ」である。
驚くべきことに、方々にとってスポーツでの「勝利」は、「どうでもよいもの」であるばかりか「胡散臭いもの」ですらあり、それを「讃えられる」などということは「品が悪い」と見なされていた。
さらに、それで糊口を凌ぐなどということは、最も下品な行為に位置づけられていたのである。
であればこそイギリスの上流階級は、「自己目的化」された、すなわち内発的に動機づけられた「暇つぶし(遊び)」としての「スポーツ」を享受するための、否、それを死守するための最後の切り札として「アマチュア規定」を導入したのである。
この歴史的文脈に「フェアネス」、そして「品格」問題の本質がある。

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

十九世紀の最後の四半世紀この方、スポーツ制度の発達をみると、それは、競技がだんだん真面目なものとして受け取られる方向に向かっている。(…)こういうスポーツの組織化と訓練が絶え間なく強化されてゆくとともに、長いあいだには純粋な遊びの内容がそこから失われてゆくのである。このことは、プロの競技者とアマチュア愛好家の分離のなかにあらわれている。遊びがもはや遊びでなくなっている人々、能力では高いものをもちながらその地位では真に遊ぶ人間の下に位置される人々(プロ遊戯者)が区別されてしまうのだ。
(byホイジンガ氏)

ホイジンガは、「プロ遊戯者」を「真に遊ぶ人間(アマチュア愛好家?)」の下に置いており、プロ遊戯者のあり方には、自然なもの、気楽な感じが欠けており、そこにはもはや真の遊びの精神はないと断じる。
この指摘は、イギリス貴族が自らの理想主義を守るために打ち出した「アマチュアリズム」をなし崩し的に崩してきたのが「プロフェッショナリズム」であり、同時にスピリットとしての「フェアネス」も、ピュアからセミプロ的なもの、セミプロ的なものからプロ的なものへと変質してきたと考えられていることに繋がっている。

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びのプロも遊びの活動の本質を少しも変えはしない。たしかに彼は遊んでいるとはいえない。彼は仕事をしているわけだ。運動選手や俳優は、報酬と引きかえに遊びをするプロであり、楽しみしか期待していないアマチュアではないとしても、競争あるいは劇の本質は変わりはしない。〔プロとアマとの〕差異は、ただそれを行う人間だけに関わることなのである。
(byカイヨワ氏)

ホイジンガの「遊び」論をさらに進めたカイヨワは、プロとアマの差異は「それを行う人間だけに関わること」であり、そのことは「遊びの活動の本質を少しも変えはしない」と喝破する。
確かに、報酬や名誉の有無とアスリート個人が「真に遊ぶ人」か否かということについては、「プロorアマ」という単純な二元論には収まりそうにない案件である。
では、プロアスリートご本人は、どのような見解に至っているのだろうか。

私はよく精神におけるアスリートと肉体におけるアスリートというのを分けて考えています。後者はだいたいが職業的にもアスリートですが、前者はどんな職業をしているかはわかりません。よく話してみてそのコアにある信念を覗いてみるとアスリートであるとわかる類いです。(…)
実際、職業がアスリートでも精神がアスリートではないなと思う事は結構あります。スポーツはやっぱり体で行うもので、どんな信念を持っていても周りがうまく導いていけば、勝つ選手は勝ちます。もちろん自己の精神や信念によって勝敗が分かれるような山頂のレベルもありますが、原則は強い選手が勝つだけの世界です。(…)
選手をサポートする体勢がしっかりとしてくればくるほど、皮肉な話ですが精神がアスリートである必要は無くなります。本人の領域が肉体的ポテンシャルだけに絞られていくからです。
職業スポーツが進み、勝敗が重要視されるようになった事で、選手もまた、すばらしい人間である必要が無くなりました。仕事はこなします、勝てと言われれば勝ちます。だってそれが仕事でしょ。だから、別にいい人でなくてもいいんじゃないですか。だって、普通の会社に通っている人もそうじゃないですか。
そういうことが起こっているのがアメリカのスポーツ界の現状です。(…)
私個人の私見ですが、根源的な部分では精神を鍛え上げる為にスポーツがあるはずです。名誉や金銭等は副産物であって、人間的成長を促す為に、そして人間として何が大切か、自分を崩さぬ自己確信の精神を育てる為にスポーツがある。人間が成長する上でちょうどいい敗北と、困難が用意されているのがスポーツだと思うのです。
(2010年3月17日 為末大オフィシャルサイト「They're not Role Models」より抜粋)

為末氏は、「精神がアスリートである」ための条件として、「屈しない精神」「見た目の表面ではなく本質を高めようとする」「戦いが常に自分の内側で行われている」「生涯前進を止めない」「幸福感を自分の基準によって定めている」ことなどを挙げている。
これらはすべて「私の」とか「私は」といった言葉が省略されたものであり、外形的なパフォーマンスや他者からの毀誉褒貶は一切問うていない。

紳士とはどんな者かというと、(…)マナーが――態度及び挙止動作が――ノッペリしている人間で、手を出して握手をしたりする。下層社会の女などがよくあの人は様子が宜《い》いということをいうが、様子が宜い位で女に惚れられるのは、男子の不面目だと思います。様子が宜いというのは、人を外《そ》らさないということになる。(…)余りブッキラボーでない、当り触りが宜いというので御座います。(…)それは悪い事とは思いません。そういう人に接している方が野蛮人に接しているよりは宜い。(…)しかしそれだけでは人格問題じゃない。人格問題じゃないというのは――随分悪い事をして、人の金をただ取るとか、法律に触れるような事をしないまでも非道《ひど》いずるい事をしたり、種々雑多な事をやって、立派な家に這入って、自動車なんぞに乗って、そうして会って見ると寔《まこと》に調子が好くて、品が好くて、ノッペリしている。そうして人格というものはどうかというと、余り感服出来ない人が沢山ありましょう。それが紳士だと思ってはいけません。けれどもそういう者が紳士として通用している。つまり人格から出た品位を保っている本統《ほんとう》の紳士もありましょうが、人格というものを度外に置いて、ただマナーだけを以て紳士だとして立派に通用している人の方が多いでしょう。まあ八割位はそうだろうと思います。
夏目漱石模倣と独立(青空文庫)」より抜粋)

「品格と人格は別問題」
さすがに漱石先生、間然するところがない。
「様子が宜い位で女に惚れられるのは、男子の不面目…」というのも個人的にはとっても好きなフレーズである(一度でいいから言ってみたい)。
「人格というものを度外に置いて、ただマナーだけを以て紳士だとして立派に通用している人の方が多い…」とは、まことに耳の痛いお言葉である。
「品格」とは、語るものではなく、むろん評価するものでもない。
「品格」とは、全身から「滲み出るもの」であり、残り香のように「漂うもの」である。
それは、「人間の器量」に「器」という表現が用いられ、外形的な評価基準がないことにも似ている。
いずれにせよ、今これを書いている私も含めて、「品格」を語った瞬間に「品格」が失なわれることだけは、間違いなさそうである。