スポーツは遊び?仕事?

moriyasu11232011-03-01

27日に行われた東京マラソンで、埼玉県立春日部高定時制事務職員、川内優輝選手(23)が2時間8分37秒で日本人トップの3位となり、8月開幕の世界選手権代表に内定した。県職員として仕事をこなしながらの市民ランナーの快挙をたたえる声が上がった。
川内選手がスパートをかけたのは残り8キロ地点だった。苦しかったが、「どうしても負けられない」とペースを落とさずゴールに飛び込んだ。力を出し切り倒れ込んだ。
身に付けたグリーンと白のユニホームには「埼玉」の文字。1月の全国都道府県対抗駅伝に県代表として出場した際に着用したもの。アンカーを務めたが、9人に抜かれた。「埼玉の名誉に傷をつけてしまった。何とか名誉挽回したい」。東京マラソンではそんな思いも一緒に走った。
鷲宮中、県立春日部東高と進んだ。学習院大時代には箱根駅伝に学連選抜で2回出場。09年に県庁に採用され、春日部高校定時制職員となった。「県職員として埼玉のための仕事をしたい。公務員としての仕事を身につけたい」と、同高の松田敏男校長(59)に語った。
職場での仕事ぶりは実直で寡黙。自分からマラソンの話をすることはほとんどないという。午後1時半から同9時半までフルタイムで働き残業もこなす。毎日午前中に地元で2時間ほど走り、昼過ぎには出勤している。
(2011年2月27日 毎日jp東京マラソン:埼玉県職員が快挙 川内、世界選手権へ」より抜粋)

我が母校は、メディアにその名前を連呼されているおかげで、一部では川内選手の母校(埼玉県立春日部東高校)と勘違いされるくらい全国的にも知名度を上げつつあるようだ(何はともあれおめでとう&ありがとう川内選手!)。
件の川内選手、ワイドショーや夜のニュースでも「最強公務員ランナー」「市民ランナーの星」などなど…賞賛の嵐である。
もちろん、賞賛されるべき快挙であることに違いはないが、今回の川内選手の活躍に向けられた巷間のまなざしは、我々に「スポーツ」の本質を問う契機を与えてくれている。

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

十九世紀の最後の四半世紀この方、スポーツ制度の発達をみると、それは、競技がだんだん真面目なものとして受け取られる方向に向かっている。(…)こういうスポーツの組織化と訓練が絶え間なく強化されてゆくとともに、長いあいだには純粋な遊びの内容がそこから失われてゆくのである。このことは、プロの競技者とアマチュア愛好家の分離のなかにあらわれている。遊びがもはや遊びでなくなっている人々、能力では高いものをもちながらその地位では真に遊ぶ人間の下に位置される人々(プロ遊戯者)が区別されてしまうのだ。
(byホイジンガ氏)

ホイジンガは、「プロ遊戯者」を「真に遊ぶ人間(アマチュア愛好家?)」の下に置いており、プロ遊戯者のあり方には、自然なもの、気楽な感じが欠けており、そこにはもはや「真の遊びの精神」はないと断じている。
この「プロ」と「アマ」を区別する見方は、イギリスの中産階級ブルジョアジー)が自らの理想主義を守るために打ち出した「アマチュアリズム」をなし崩してきたものが「プロフェッショナリズム」であると考えられていることと同じ文脈上にある。
しかし、多くの文化人類学的知見が示しているように、伝統(未開)社会においては、「遊び」と「労働」の区別がない、または区別されていても対立していたり別の世界に属するものと見なされてはいない。
だとすれば、両者の対立や、労働を遊びより価値のあるものとして上位に置こうとするような区別は、むしろ近代の産物であると言うこともできる。

近代になって、効率や合理性を第一とする労働の世界から遊びを排除し、労働において、身体を正しく働く身体へと規律化することに価値をおくようになったために、労働と遊びはまったくあいいれない対立物となったのであり、近代人の遊びへの憧憬は、自らが抑圧し排除したものへの憧憬なのではないだろうか。
逆にいえば、遊びを欲望しながらも、仕事と遊びの区別をきちんとつけられることこそ、近代人の条件なのであり、その区別のない未開人や子どもの「遊びの世界」への憧憬は、「抑圧されたものの回帰」であって、まさに遊びを抑圧し周縁化した(価値のないものとしてはじに追いやった)ことの産物なのだ。そして、その憧憬の対象である、仕事と遊びの区別のない世界は子どもと未開人(正確にはおとなの近代人が想像する子どもや未開人)にのみ許される世界であって、おとなになってもその区別のつかない者は、だらしない遊び人ないし放蕩者として蔑まれ、排除されるのである。
小田亮 「「遊び」へのまなざし」 成城教育(成城学園教育研究所)第110号より抜粋)

「遊び人ないし放蕩者として蔑まれ、排除される(by小田氏)」可能性の低くない小生にとっては、十分に深めておくべきテーマであるといえる(すまない友人知人諸兄)。
小田氏は、「ホモ・ルーデンス(byホイジンガ)」の目的が、「真面目(労働)」が支配するようになった十九世紀以降の「遊び」の周縁化に対抗し、「遊び」が人間社会の文化の根源にあると主張することにあったとする一方で、この主張は自らが批判する「真面目な近代」によって創られた労働と遊びの二分法を継承し、労働よりも遊びを文化の根源として上位に置くためにそれを「反転」にさせたに過ぎないと断じている。
一方、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」をさらに進化(深化)させたカイヨワは、プロとアマの差異は「遊びの活動の本質を少しも変えはしない」と喝破する。

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びのプロも遊びの活動の本質を少しも変えはしない。たしかに彼は遊んでいるとはいえない。彼は仕事をしているわけだ。運動選手や俳優は、報酬と引きかえに遊びをするプロであり、楽しみしか期待していないアマチュアではないとしても、競争あるいは劇の本質は変わりはしない。〔プロとアマとの〕差異は、ただそれを行う人間だけに関わることなのである。
(byカイヨワ氏)

「〔プロとアマとの〕差異は、ただそれを行う人間だけに関わることなのである(byカイヨワ)」
「プロフェッショナリズム」という言葉の意味を調べてみると、「プロ」「職人」「専門家」「専門職業」「くろうと」といった言葉に「気質(かたぎ)」「精神」「意識」などの言葉が付随しているが、そこに「報酬の有無」は一切問われていない。
確かに、アスリート個人が「真に遊ぶ人」(に見える)か否かについては、「報酬や名誉の有無(プロかアマか)」という単純な二元論には収まりそうにない案件である。

私はよく精神におけるアスリートと肉体におけるアスリートというのを分けて考えています。後者はだいたいが職業的にもアスリートですが、前者はどんな職業をしているかはわかりません。よく話してみてそのコアにある信念を覗いてみるとアスリートであるとわかる類いです。(…)
実際、職業がアスリートでも精神がアスリートではないなと思う事は結構あります。スポーツはやっぱり体で行うもので、どんな信念を持っていても周りがうまく導いていけば、勝つ選手は勝ちます。もちろん自己の精神や信念によって勝敗が分かれるような山頂のレベルもありますが、原則は強い選手が勝つだけの世界です。(…)
選手をサポートする体勢がしっかりとしてくればくるほど、皮肉な話ですが精神がアスリートである必要は無くなります。本人の領域が肉体的ポテンシャルだけに絞られていくからです。(…)
(2010年3月17日 為末大オフィシャルサイト「They're not Role Models」より抜粋)

改めて言うまでもないが、「トップアスリート」とは、「常人」ではないが故に「トップアスリート」たり得るのと同時に、我々「常人」とさほど変わりのない「ひとりの人間存在」でもある。
そこに相違を見るのは、例えば「市民ランナー(アマ?)」が走るのは「遊び」だが、「実業団ランナー(プロ?)」が走るのは「仕事」であると思い込もうとする社会通念であり、実はそのことこそが「遊び」と「労働」を二分しつつその間を右往左往する今日的な我々のスポーツ観を象徴しているともいえる。

ホイジンガのいう、近代における真面目さの支配の日常への浸透は、J・ハーバマスのいう、「システムによる生活世界の植民地化」と重なりあう。生活世界の植民地化とは、直接的なコミュニケーションを支える生活世界が、利益/不利益や、真理/誤りといった普遍的な合理性による二律背反的な規準によって封じ込まれてしまうことを指している。これまでの遊びについての議論に当てはめれば、生活世界の植民地化とは、生活世界における個々の直接的なコミュニケーションを超えた真面目/遊びという絶対的な対立によって、何が「遊び」なのか、いつどこで「遊び」が許されるのかが実体的に固定され、押しつけられたことを意味している。
小田亮 前掲論文より抜粋)

互いに背き合う二つのメッセージを受信したために、本来は理解できるはずのメタ・コミュニケーションの本質が覆い隠されてしまう心理状態のことを「ダブルバインド(理論)」という。
この理論を提唱したグレゴリー・ベイトソン氏によれば、「遊び」現象の本質が「これは遊びである」というメッセージを交換するようなメタ・コミュニケーションにあり、「遊び」と「真面目(労働)」との区別は、個々の行為によって区別されるのではなく、そこに「これは遊びである」というメッセージのともなうメタ・コミュニケーションとして成立しているかどうかによって区別されるという。
加えて、「これは遊びである」という明確なメッセージの上にではなく、「これは遊びだろうか?」という曖昧なメッセージ上に成り立つようなメタ・コミュニケーションとして「遊び」が構築されていることが、人間の遊びをさらに複雑なものにしているとベイトソン氏は指摘する。
畢竟、文化と呼ばれる多くの「遊び」は、「本気でやるぞ!」と「本気でやるな!」という相反するメッセージが共存したメタ・コミュニケーションと言うことができるのである。

ここで注目したいのはそのような生活世界の植民地化に抵抗するために人びとが用いるのも、同じ社会生活の知恵だということである。つまり、その抵抗は、〈顔〉のみえる関係においてのみ可能となる、メタ‐メッセージを操作したり交換し合いながら、固定され押しつけられた遊び/労働の境界を臨機応変に変えたりずらしてしまうことによってなされるのである。(…)
ホイジンガが夢見た「遊び」による真面目や労働の支配への抵抗は、遊びを時間的・空間的に限定された別世界として捉えて、その別世界に立てこもることではなく、そのような限定された境界を侵犯することによって実現されるというべきだろう。
小田亮 前掲論文より抜粋)

為末選手の名刺の肩書きは「400m HURDLER」である(実物確認済 ※当時)。
恐らく、川内選手の名刺には、定時制高校の事務職員としての「役職(職責)」が記載されているはずである(実物未確認)。
そして、為末選手も川内選手も、本気で(真面目に)競走するというスポーツに向き合っており、そこには「遊び」と「労働」の共通性や連続性が見てとれるだけでなく、「遊び(自由)」と「労働(拘束)」という二律背反やダブルバインドを超えた「スポーツ」というメタ・コミュニケーションの本質が垣間見えるのである。
このような日本のスポーツ環境は、アジアの隣国である中国や韓国のみならず、欧米諸国に比しても誇るべき豊穣性を有していると愚考するのであるが、一方でメディアや世論のみならず、スポーツ界自身による二律背反的な「遊び/労働」認識によってそれが侵食され、さらにはそれに封じ込まれようとしている現実もある。

精神の生態学

精神の生態学

自分の関心は自分であり、自分の会社であり、自分の種だという偏狭な認識論的全体に立つとき、システムを支えている他のループはみな考慮の外側に切り落とされることになります。人間生活が生み出す副産物は、どこか"外"に捨てればいいとする心がそこから生まれ、エリー湖がその格好の場所に見えてくるわけです。
このとき忘れられているのは、エリー湖というエコメンタルな一システムが、われわれを含むより大きなエコメンタル・システムの一部だということ、そして、エリー湖の「精神」が失われるとき、その狂気が、より大きなわれわれの思考と経験をも病的なものに変えていくということです。
(byベイトソン氏)

それへの抵抗は、スポーツに関わる人間が「固定され押しつけられた遊び/労働の境界を臨機応変に変えたりずらしてしまう(by小田氏)」ような実践プロセスを経由しながら、斯界に孕む様々な二律背反に引き裂かれない「リテラシー」を獲得することによってのみ可能となることを自覚する必要があるだろう。
同時にそれは、ホイジンガが構想し、以降多くの研究者が手掛けてきた「遊びの復権」というテーマが、依然として我々の生きる現代社会の重要な課題であることの証左なのである。