26日は東京マラソン

moriyasu11232012-02-23

3日後に迫った「東京マラソン2012」。
昨年の東京マラソンを制して以来、我が母校知名度アップに絶大なるご尽力を賜っている川内優輝選手が、12月の福岡国際に次いで二度目の五輪代表選考レースに挑む。

走り始めたのは小学1年のときだ。S&B杯ちびっ子健康マラソンで上位に入ったのをきっかけに毎日、走るようになった。正確に言うと走らされたのだ。夕方、遊んで帰ると、母親とともに近所の公園に向かう。課されたのは連日のタイムトライアルだ。
■レース後倒れるほど、力を出し尽くす
つまり毎日、全力疾走しなくてはならない。申し込んだ直近の大会が1.5キロなら練習も1.5キロ。3キロなら毎日3キロ。自己ベストを更新すると外食に連れて行ってもらえるが、自己記録から何秒遅れると公園を何周という罰走のルールも決まっていた。
「まさにアメとムチですよ。でもあれで、力を出し切ることが習慣化したのかもしれない」。川内優輝はどんなレースでも何かにとりつかれたように疾走し、ゴール後、立っていられないほど力を出し尽くす。
春日部東高(埼玉)時代は、その猛烈さがアダとなったのかもしれない。2年時の関東高校駅伝で7位に入ったが、その後は左足の長径靱帯を傷めたのをはじめ、故障に泣き続けた。(…)
■強豪校でない学習院大で再生
常にすべてを出し尽くす習性ゆえか、朝夕の2部練習、週に4度の負荷の重いポイント練習で精神的にも疲弊した。強豪校は避けて、学習院大に進んだ。そこで監督の津田誠一に出会わなければ、再生することはなかったかもしれない。
津田の練習メニューは拍子抜けするほど軽かった。朝練習はしない。ポイント練習は週に2度だけ。週に2日はフリーで、休んでも構わなかった。川内のいちずさを知るからか、「頑張るな」と盛んに言った。
「余裕を持ってペースを守り続けて、勝負どころで切り替えるという考え方だった」と川内は振り返る。当然、「こんなんでいいの?」と疑った。「でも、これならケガをしないからいいやと思って従った」
疑心はすぐに解ける。半年もしないうちに5000メートルの記録がぐんぐん伸びた。取り組みが的確だったのだ。関東学連選抜のメンバーとして2度、箱根駅伝を走るまでになった。
それにしても高校時代に全国大会に出たことのない選手がなぜ、いま五輪を狙うまでに飛躍したのか。本人は言う。「陸上が本当に好きになったからですよ。僕は走ることが好きなんだと大学時代に気付いた」
■気持ちいいから走るだけ
子どものころから、めいっぱい走り続けたが結果は出なかった。しかし、肩の力を抜くよう促されると記録が伸びた。生き方も含めて、要は力の入れどころをつかんだのだろう。(…)
単純に、気持ちがいいから川内は走る。ランニングの原初的な動機に任せて走ることが、ランナーを幸福にし、豊かになった心が好記録を生むのかもしれない。(…)
(2011年12月3日 日経電子版 『力抜けて成長、箱根駅伝も出場 マラソン・川内優輝(中)』より抜粋 )

「朝夕の2部練習、週に4度の負荷の重いポイント練習」ってどんだけ走ってんだ高校生…という件については措くが、学習院大学の「朝練なし…ポイント練習は週2回…週2日はフリー(休養も可)」というのは、日本の長距離界を離れてグローバル?な視座に立てば、常識的なレベルのトレーニングサイクルである。
レーニングをすればするほどパフォーマンスが向上するという信憑は、スポーツの現場に強く深く埋め込まれている。
無論トレーニングをしなければパフォーマンスは向上しないし、すればするほど成果が挙がることもある。
しかし、いずれのトレーニング方法を用いたにせよ、時間を巻き戻して別の方法と比較検討することが不可能であることや、自分の現在地点および目標地点に到達するための方程式がひとつではないことなどについては十分に認識しておく必要がある。

◇短時間でも納得の練習−−「ミュンヘン」代表・元高校教諭、采谷義秋さん
◇自分で考えながら走る−−「東京」代表・元会社員、寺沢徹さん
采谷さんは広島県呉市で育った。大学時代から独自の練習でマラソンに挑戦していたが、頭角を現したのは、日体大を卒業して間もない67年。三大マラソンと呼ばれた毎日(現びわ湖毎日)で6位に入った。体育教諭として働き始めて1カ月余り。夜行列車で滋賀から広島に戻り、翌日は授業に出たという。「有給休暇の使い方も知らなかった」と苦笑いする。
実業団の選手に比べて練習時間が足りないのは今も昔も同じ。川内選手が週末に長距離を走るのと同様、采谷さんは半日で授業が終わる土曜日、勤務先の竹原市から自宅まで約40キロを走って帰宅した。毎朝8キロのジョギングを欠かさず、放課後も指導する陸上部員とともに走り込んだ。県内に出張すれば、帰路は可能な限り走った。
「短時間でいかに負荷をかけるか。とにかく練習内容に変化をもたせるように心掛けた。川内君も同じように工夫していると思う」(…)
寺沢さんの競技生活も、試行錯誤の連続だった。高校2年の時、足の速さを買われて、ハンドボールから陸上競技に転向。卒業後は会社員として働きながら独力で走り続けた。「(周囲に)趣味で走るやつはいたが、心の中で、おれは絶対に強くなってやる、と思っていた」
初マラソンは、練習環境を求めて倉敷レイヨン(現クラレ)に入社後の25歳と遅く、職場は陸上部が拠点を置く愛媛・西条ではなかった。その後の活躍で、日本陸連から専任コーチが派遣されたが、指導を受けるのは合宿など限られた機会だけだった。
転機は27歳で参加した日本陸連ニュージーランド合宿。当時、最先端の指導で知られたアーサー・リディアード氏の薫陶を受けた。多種多様のスピード練習や、距離走のほか、インターバル走などに目を見開かされた。「短距離選手のような内容もあれば、起伏のある牧場を走り込むこともあった。ついていくのがやっとだった」。この体験を自主練習に盛り込んだ。
寺沢さんは「実業団ならば練習仲間もいるし、はるかに密度の高い練習ができる。だが、1人の練習も利点がある。自分で考えるようになることだ」と語る。(…)
2人の先輩は、川内選手が「練習の一環」として短期間に何回もマラソンを走ることにも理解を示す。寺沢さんは63年の別府毎日(現別府大分毎日)でローマ五輪を制したアベベ・ビキラ選手(エチオピア)の持つ世界最高記録を塗り替えた時も、10月から4カ月間で4戦出場し、調子を上げていった。采谷さんも同様の経験がある。(…)
粘り強さが際立つ川内選手の走りは、ひと昔前のマラソン選手を思わせる。その姿は日本の長距離走者の系譜に確かに連なるものがある。采谷さんは遠くを見つめるようにつぶやいた。「川内君みたいな選手がもっと出てきてほしい。走りたいという気持ちさえあれば、1人でも頑張れるのだから」
(2012年2月22日 毎日jpGo!五輪、「先輩」らエール 独力の公務員ランナー・川内選手』より抜粋)

母校イベントのあとの懇親会で根掘り葉掘り質問させてもらったが、川内選手の「生活化」されたトレーニングは、パフォーマンス向上の原理・原則に則って粛々と積み重ねられているという印象をもつ。
レーニングの「量」や「強度」を増やす(高める)ことには限界があるが、それらの無数の組み合わせに盛り込む「質」の向上は無限である。
もし彼の取り組みが特異なものに見えるならば、そのときは自分がかけているメガネの不具合を疑ってみる必要がある。

■38キロ過ぎからのデッドヒート、川内に軍配
「今井(正人=トヨタ自動車九州)選手は気持ちで出てくるのはわかっていたので、それなら僕も気持ちで出てやろうと思って……。どっちが勝つかの根比べになると思って走っていたけど、世界選手権(9月、韓国・テグ)の時に給水の時にペースを上げられて苦しかったから、そこで上げれば他の選手も苦しいかな、と思ってペースを上げたりしました」と、川内優輝(埼玉県庁)は終盤の激闘を振り返った。(…)
気温13.7度、湿度49パーセントという気象条件の中で、始まったレース。10キロ付近では気温も18度に上がったが、その後は少し下がり、ペースメーカーも5キロを15分前後で引っ張る、ほぼ想定通りという展開になった。
その中で、ペースメーカーが走るのを止めた25キロでいきなり動いたのが、初マラソンのダビリだった。スルスルッと前に出るとペースを一気に上げ、追いかけるのはジェームズ・ムワンギ(NTN)だけ。トップ集団に残っていた日本勢の今井と前田和浩九電工)、岡本直己(中国電力)はけん制し合う展開に。ダビリが30キロまでを14分32秒で突っ走ったのに比べ、15分39秒とペースを落とした。
さらに32キロの折り返しを過ぎてから岡本が遅れると、3位争いをするふたりのペースは5キロ16分14秒まで落ちたのだ。
■一度集団から離された川内が猛烈な追い上げ
そこで生き返ったのが、20キロ過ぎから遅れ始め、30キロ地点では今井や前田に23秒差をつけられていた川内だった。
「目標は来年2月の東京マラソンに置いていたので、あまり40キロ走もできていなくて。走り込み不足だからでここで離れてもしょうがないかなと思っていました。でも中間点通過が1時間3分34秒だったので、何とか粘っていけば、それなりのタイムで行けるかなと思って。それに25キロでペースメーカーが外れれば、きっと何人かは前から落ちてくるだろうと信じて走りました」
こう話す川内にとって幸いだったのは、身長190センチの長身ランナー、ドミトリー・サフロノフ(ロシア)が前の集団より少し遅れるだけの、ちょうどいいペースで引っ張ってくれたことだ。(…)
「30キロ付近で前がそんなに離れていないのを知りました。今井選手と前田選手はけん制し合ってペースが落ちているようにみえたから、あれだったら追いつくかもしれないと思えて。そうしたら、2位になった世界選手権団体の表彰式で見た日の丸が頭の中に浮んできて……。もう一度メインスタンドに日の丸が揚がるのを見たいと思い、そのためには前を追い抜くしかないと思いました」
サフロノフと交互に引っ張り合い始めた川内は35キロで今井、前田との差を15秒にすると、その直後にはサフロノフを引き離して前に迫り、36.4キロでふたりを捕らえた。一気に主導権を握った川内がコースのアップダウンを利用して、ペースを上げるなどの揺さぶりを掛けながらのデッドヒートを繰り広げた。そして38.4キロの給水所で頭から水をかけると、掛け声を掛けて自分に気合いを入れてスパートしたのだ。
■スパートのタイミングを誤った今井「未熟さが出た」
今井は先行する川内に39.5キロで追いついた。だが指導する森下広一監督が「まだ動くな。まだ動くなと思っていたら出てしまった」と言うように、39.7キロで仕掛けてしまった。結局、今井は川内に仕掛け返され、39.8キロからはジワジワ離され始める結果になったのだ。(…)
「一歩一歩前進していると思うが、今回のレースは僕の未熟さがでてしまって悔しいのひと言です。川内くんに追いついた後のスパートが無駄だった」と、2時間10分32秒でゴールした今井は反省する。
森下監督は「40キロ走は去年より3〜4分速いペースでやっていたし、今日の気象条件なら2時間7分台は無理でも8分台は出せる力にはなっていると思う。11月中旬に30キロ+5キロをやって、最後の5キロを14分台で上がるまでになっていたが、そこから体調がガクッと落ちてしまい、体の重さが抜けないままレースを迎えてしまった」と言う。
結局、今回の日本人トップ候補だった今井と前田は、最後の最後で調整に失敗。彼らは「ここで結果を出さなければいけない」という、レース前の戦いでミスをしていたのだ。(…)
東京マラソンも“異例”の出場予定
「2時間10分を切る可能性もあると思っていたけど、このレースは2時間11〜12分で十分だと思っていました。日本人トップは2時間7〜8分台で走るだろうと思っていたから、3位という順位は予想外で嬉しい」
こう言う川内は、練習の一環として出場した福岡で9分台を出せたことを、目標にしている東京につながると顔をほころばせる。(…)
(2011年12月5日 スポーツナビまたも吹き荒れた川内旋風 市民ランナーが五輪選考を盛り上げる=福岡国際マラソン(折山淑美氏)』より抜粋)

実業団選手達の「調整失敗」がどの程度のものなのか寡聞にして知らないが、川内選手は1週間前から風邪をこじらせて体調が万全でない中、レース前半をキロ3分ペースで走ることと、疲労が到来した25km以降の粘り方についての「予習」をきっちりとやってのけた。
そして「出場は無謀」といわれた2週間後の防府読売マラソンでは、2時間12分33秒(2位)の自己サード記録をマークする。

ペースメーカーが抜けた25キロ。川内は「40キロの距離練習のつもりだったけど、誰もいかないならいってやろう」とスパート。ついてきたのは前回王者で、五輪や世界陸上に合計7度出場しているバトオチルだけ。1万メートル28分台と“格上”の実業団ランナーたちは、あらがうことができなかった。
日本人トップの3位で五輪候補に名乗りを上げた福岡から中13日。「足が動かなかった」と36キロ付近でバトオチルにスパートされ2位。マラソン初優勝はお預けとなったが、09年東京から続いていた“お約束”の医務室直行がなかった。五輪2大会代表の瀬古利彦さん(55)から以前「倒れるうちはプロじゃない」とゲキを飛ばされたという川内は「気持ちだけはプロだと思っている。少し近づけたかな」。(…)
大一番の東京へ、2つのハーフと奥むさし駅伝に出場予定。レースで強くなるスタイルは変えない。「2時間7分台で五輪代表を勝ち取りたい」。(…)
(2011年12月19日 スポーツ報知『川内、中13日でも強い!日本人トップ2位!…防府読売マラソン』より抜粋)

あのね「1万メートル28分台と“格上”の実業団ランナーたち(byスポーツ報知記者)」っていうけど、マラソンに関していえば川内選手のほうが数段“格上”なのでアルよ。
キロ3分10秒でペースメイクされたこのレースで、川内選手は自ら仕掛けて25〜30kmで一気に3分ペース(15分03秒)まで引き上げるなどしつつ、前半(1時間6分31秒)よりも後半(1時間6分2秒)が30秒ほど速いペースでフィニッシュしている。
実戦レースを使って、極めて質の高い40kmビルドアップ走を敢行したといえるだろう。
そして今月5日、本番に向けた最後の「実践的予習」の場である丸亀国際ハーフマラソンで、1時間2分18秒(27位)の自己ベストをマークする。

「順位はかまわない。予定通りベストを更新できたんで、東京に向けていいレースになった」
ハーフマラソン世界歴代3位の記録を持つキソリオが速い流れをつくる展開にも自重した。五輪代表選考レースの東京マラソン(26日)へ向け、自分なりのポイントチェックが目的だった。5カ所の給水所には、ハチミツとレモン果汁の配合を改良したスペシャルドリンクを用意。ボトルの取っ手の部分も、より腕にかかりやすく改良した。
「練習の一環としてやったが、(ボトルを)全てつかむことができた。(東京でも)失敗しなければ、もう倒れることもないと思う」。
(2012年2月6日 サンケイスポーツ川内、ハーフ自己ベスト22秒更新/マラソン』より抜粋)

ラソンを想定した努力感とキロ3分切りのペースとを摺り合せる「予習」の場でみせたこの走りは、7分台を射程に入れたことを予感させるに十分な結果であるといえる。
・ ・ ・
筆者が注目するもうひとりの選手は、2008年の東京マラソンで2時間8分40秒(2位)をマークし、2009年ベルリン世陸代表に選ばれた経歴を持つ藤原新選手である。
先の丸亀ハーフでは、最初の5kmを14分20秒のハイペースで入りながらもキロ3分切りペースを維持し、2006年にマークした自己記録を43秒上回る1時間1分34秒(6位)の好タイムでフィニッシュしている。
どの程度の努力感で走破したかにもよるが、東京マラソンに向けて順調に仕上がっていることを示す結果といえるだろう。

「走っているうちに『あっ、来た』という瞬間がある。『はまった』という感じです。そうなると足音まで変わる。その理想のフォームさえつかめば、エネルギーがかすかすの状態でも、どこまでも走れる」
「フォーム至上主義者」になったのは高校時代にさかのぼる。諫早高(長崎)2年のとき、5000メートルと1万メートルで当時の長崎県記録をマークした。
しかし、年が明けると停滞した。「練習はしているし、やる気もあるのに記録が伸びなかった。体力は確実に増しているのだから、遅くなるわけがないのに」
■走る技術はデリケート
そのとき気付いたのだという。「問題があるとしたら、フォームしかない」と。(…)
長距離走のトレーニングというと、心肺機能と脚力を高めることに焦点を絞りがちだが、藤原はランニングの本質はそこにあるのではないという思想に至り、フォーム、つまりランニングの技術の追究をスタートした。(…)
今年2月の東京マラソン(2位)では20キロの手前、初優勝した5月のオタワマラソン(カナダ)では17キロ過ぎで「これだ」というものに至ったという。しかし、一夜明けると、どこかがずれてしまう。
だから、藤原は「理想のフォームの再現性を高める」ことに力を注ぐ。「これだ」というものを、いつでも再現できるようにするには、感性を研ぎ澄ませ、認識力を高めておく必要がある。
■感性でマラソンを走る
走っているうちに「いま、楽だ」と感じたとき、自分の体がどう動いているのかを正しく認識することが重要だと考える。
舗装路ではなく、高尾山(東京)など不整地でトレーニングを重ねるのは、認識力を高めるためでもある。
でこぼこがあり、起伏のある山で安全に疾走するには、路面についての情報をたくさん処理しなければならない。その積み重ねで感性が磨かれ、認識力が高まるはずだという。
藤原は感性でマラソンを走る。それは、ひらめきに任せてという意味ではない。感性を豊かにして、複雑に絡み合ったものを解きほぐし、洗練された理想のメカニズムを追究する。
■理屈をどこまでも突き詰めていく
そのデリケートな動きを、だれもが、いつでも再現できるように「言葉で簡単に表せるようにしたい」と話す。
多少、完ぺきを求め過ぎているきらいがあるかもしれない。しかし、理屈をどこまでも突き詰めていく執念のようなものが、2年後のロンドン五輪を目指すこのマラソンランナーの力の源泉になっている。
(2010年11月29日 日経電子版『理想の走り追い求め十余年 マラソン・藤原新(上)』より抜粋)

2010年3月、駅伝に重きを置く実業団のあり方に疑問を抱いた藤原選手は、マラソンに特化した活動を行うためにJR東日本を退社する。
「マラソンをやると言うと、チームワークを乱しているように思われる。駅伝に出ず、しかもマラソンに失敗したら責任を問われる。そんな状態だから、若い選手がマラソンに挑戦しにくい(by藤原選手)」
とはいえ独立の道は順風ではなく、2010年7月に健康美容商品を手がける企業とスポンサー契約を結ぶものの、翌年10月に突然の契約解除。
現在は東京陸協に所属しながら、母校の拓殖大学などでトレーニングに励んでいるようである。

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びのプロも遊びの活動の本質を少しも変えはしない。たしかに彼は遊んでいるとはいえない。彼は仕事をしているわけだ。運動選手や俳優は、報酬と引きかえに遊びをするプロであり、楽しみしか期待していないアマチュアではないとしても、競争あるいは劇の本質は変わりはしない。〔プロとアマとの〕差異は、ただそれを行う人間だけに関わることなのである。

「プロフェッショナリズム」という言葉の意味を調べてみると、「プロ」「職人」「専門家」「専門職業」「くろうと」といった言葉のあとに「気質(かたぎ)」「精神」「意識」などが付随しているが、そこに「報酬の有無」は一切問われていない。
確かに、アスリート個人が「真に遊ぶ人(byホイジンガ)」か否かについては、いわゆる「プロかアマか」という単純な二元論には収まりそうにない案件である。
公務員として働きながら「市民ランナー」として五輪を目指す川内選手と、実業団を退社し「プロランナー(現在は市民ランナー?)」として五輪を目指す藤原選手。
孤独に、真剣に、かつ独創的にマラソンに向き合う両選手の姿には、「遊び」と「労働」の共通性や連続性が見てとれるだけでなく、「遊び(自由)」と「労働(拘束)」という二律背反やダブルバインドを超えた「スポーツ」というメタ・コミュニケーションの本質が垣間見えるのである。
26日の9時10分、選手達が行ってきた「予習」の内容を評価する「テスト」が始まる。