スポーツの二律背反

moriyasu11232011-02-20

コラムニストの小田嶋隆氏が、「育成と勝利」「自由と規律」「エゴイズムと自己犠牲」といったサッカーにまつわる「二律背反」をあげつつ、ザッケローニ監督のアジアカップ采配について論考している。
これらの背反度合い?は、個人スポーツかチームスポーツか、対人スポーツか記録スポーツか、あるいは選手やチームの発達段階などによっても程度は異なるが、畢竟あらゆるスポーツが抱えている問題といって差し支えないだろう。
スポーツには、小田嶋氏が挙げた以外にも「失敗と成功」「自律と依存」「強制と放任」など、あらゆるタイプの「二律背反的なもの」が含まれているが、それらはまさに我々の人生を取り巻く「二律背反的なもの」と同様のバリエーションをもって顕在化しているともいえる。
我々がスポーツに熱中する理由は、その絶妙かつ皮肉なバランスにあるのかもしれない。

少年サッカーの現場では、「育成」と「勝利」が常に対立する課題として、指導者の上にのしかかっている。
育成を重視し、チーム力の底上げをはかるためには、幅広い選手起用が求められる。
そのためには、一つの試合に多様な選手を使うだけではなくて、一人の選手に多様なポジションを経験させる必要がある。そうしてこそ、個々の選手は多様な経験を通じて成長し、チームもまた、全員が芝を踏むことで団結を深めていく。
さてしかし、目先の試合に勝つためには、最強の布陣で敵に当たる必要がある。
と、メンバーはおのずと限定される。ポジションも同様。よく走る選手はサイドを走らせる。カラダの強い選手はセンターバックに固定する。ボール扱いの上手な子供はトップ下を任せる。そうやって、チームの形を決めてかかった方がその時点でのチーム力は出しやすい。
ということはつまり、この時点で、「育成」と「勝利」は、矛盾しているわけで、実にここのところのポイントで多くのコーチはアタマを悩ませているのである。(…)
今回のアジアカップに限って言うなら、ザッケローニ監督は、「育成」と「勝利」を両立した。
優勝した瞬間のメンバーの笑顔が、これまでの日本代表の中でもとりわけハッピーに見えたのは、ザッケローニがチームの全員(正確には招集した25人のうちで、追加招集の一人と第三GKをのぞく23人)を起用したことと無縁ではない。(…)
たとえばジーコの時の代表は、レギュラー組とサブ組がモロに分かれていて、傍目から見ても、その二つのグループの間にすきま風が吹いているサマがありありと感じ取れた。それほどチームの一体感は希薄だった。
おそらく、ジーコに言わせれば「勝つためには信頼できる選手を使うのが当然で、とすれば嫌でもチームは固定される」ということなのだと思う。(…)
でも、ザッケローニは、全員を使いながら、それでも勝った。
なーんだ。やればできるんじゃないか。
というよりも、勝利と育成は、長い目で見れば、一致しないといけないんじゃないのか?
特に秀逸だったのは、一度失敗した選手(レッドカードを貰った川島、1回目の出場でサエなかった李忠成、初回の試合で機能しなかった岩政)を再起用した点だ。しかも再起用された選手のすべてが、見事に汚名を返上している。
私自身は、真意を測りかねていた。
「えー? 川島かよ」と思ったし「岩政はヤバいだろ」とも思った。
「おいおい、この期に及んで李か?」と、李忠成の投入に至っては、全力で反対し、あやうくツイッターを起動しそうになった。
が、意外なことに、一度失敗した選手たちは、むしろ高いモチベーションでピッチに現れて、非常に献身的に働いたのである。
私は、大切なところを見ていなかったわけだ。というよりも、「一度失敗した選手は、次も失敗するはずだ」という、どうにも平凡な先入主に囚われていた。
私自身、一度失敗をすると、その失敗を引きずって同じ失敗を犯しがちなタイプであるだけに、若い選手が、ああいう舞台で失敗を取り返せるとはまったく思っていなかった。
が、リーダーの持って行き方が良かったのか、チームのムードがそうさせたのか、彼等は見事に活躍した。いやあっぱれ。私の負けだ。
・ ・ ・
育成と勝利以外にも、サッカーには「自由」と「規律」という有名な二律背反がある。
これは、日本のサッカー界がこの10年ほどずっと引きずってきていた問題で、私たちの日本代表は、ながらく、この二つの言葉をめぐって不毛な回り道を余儀なくされていたのである。
発端は、2002年当時、日本サッカー協会の会長の職にあった川淵さんが、「トルシエの規律かジーコの自由か……」みたいな話をメディアの前でしつこく繰り返したあたりにある。
より詳しく述べれば、《トルシエが強制する「規律」に個々の選手が従うことで実現する「戦術」はもはや古い。ジーコのもとでの「自由」を体現しながら、個々の選手がより高いチームワークを発揮するのでなければ、ワールドクラスのサッカーには……》といった調子のお説教が、当時の協会御用達の鉄板のサッカー理論だったということだ。
今回のアジアカップの勝利で、わがサッカー界は、上記の川淵発の無意味な禅問答と、ようやく決別することができた。その意味で、この度の優勝はまことに意義深い。(…)
二つのチームが対峙している時、より高い力量を発揮している側のチームが、結果としてより戦術的に闘うことができる。当然だ。しかも、自分たちのチーム戦術を思うままに貫徹している優勢なチームは、より自由でもある。これまた当然。ということはつまり、「戦術」と「自由」は、川淵さんの言っていたように相反するのではなくて、両立(勝っているチームにとっては)しているということだ。
・ ・ ・
もうひとつ、芝の上には、「エゴイズムと自己犠牲」という二律背反がある。
この厄介なパラドックスは、多くの場合「死ぬ気で走れ」「チームのためにオノレを捨てろ」というブラック企業ライクな精神論として選手の前に立ちはだかる。
が、その一方で、「ストライカーはエゴイストたるべし」ぐらいな、お気楽な金科玉条として、スカした評論家の口から出てくる場合もあるからあなどれない。
実に厄介な課題だ。(…)
このエゴイズム論争に「日本人は農耕民族だから」式の、俗流文化人類学由来の自虐史観が裏打ちされると、「自己責任」だとか「横並び」だとかいったいつものオレオレ議論になる。(…)
具体的に言うと、「オレ以外の日本人」を卑下するという一回り屈折した回路を経て、最終的に選民思想(←「ミラニスタのおれって素敵」ぐらいな)に着地する自虐史観が、議論を陰湿にしているということだ。(…)
これについても、ザッケローニは答えを出してくれた。
要するに、「エゴイストにはパスが来ない」ということだ。
得点の瞬間にエゴイズムが必要なことは確かだ。
が、得点の瞬間に、結果を恐れずに突進していく勇気も、得点とは無縁な場所でカバーリングに走る選手の無償の献身も、結局は「チームの勝利」というより高いゴールを目指している人間にとっては、究極的には同じものになる。
サッカーはキツい競技だ。
延長後半の最も消耗した場面で最後の一歩を踏み出させるための要素は、「献身」や「根性」といったあたりの話になる。
つまり、より献身的に走る選手をかかえたより根性のあるチームが勝るわけだ。
精神論。
なんという凡庸な結論。
結論は凡庸でも、その結論に至る方法は深遠なはずだ。
(2011年2月4日 小田嶋隆のア・ピース・オブ警句『私の「もやもや」を晴らしてくれたザッケローニ監督』より抜粋)

サッカーに限らず、スポーツは思うに任せないものである。
「守り」に徹すれば「攻撃」が機能しなくなり、「戦術」を徹底すればプレーの「柔軟性」が損なわれ、「フィジカル」を追求すると「テクニック」の重要性を見失いがちなるのは、なにもチームスポーツに限った問題ではない。
陸上競技のような個人(記録)競技でも、「技術と体力」、「スピードと持久力」、トレーニングの「走行距離と強度」といった二律背反(と思われているもの)は、常に選手や指導者の頭を悩ませる問題である。
しかし一方で、このような「言葉」をつくり、それを「二律背反」として捉え、その矛盾に引き裂かれているのは、我々人間の自縄自縛であるとも言える。

「矛盾」とは、つじつまが合わないという意味ではない(そういう意味もある)。
「あらゆる盾を貫く矛」と「あらゆる矛を跳ね返す盾」は両立しない。しかし、この「矛盾」に耐えなければ武具の進化もない。
優れた矛の存在無くして、優れた盾は存在し得ないのである(逆もしかり)。
ボトムアップトップダウンによる推論の「確度」を高めることと、その推論そのものを「疑う」という「矛盾」が、自身のコーチングへの「確信」を深めていくことに繋がる。
この「半信半疑」状態を、より質の高いものにするためには、自身の理論と実践の往復、すなわち「学び」続けるよりほかに道はない。
そういう指導者を、我々は「優れた指導者」と呼ぶのである。
(2009年2月26日 拙稿「トップアスリートの育て方2」より抜粋)

「なーんだ。やればできるんじゃないか(by小田嶋氏)」は、このような二律背反を乗り越えるために必要な「構え」を端的に表したものといえる。
小田嶋氏は、上記の論考のなかで数多くの重要な指摘をしているが、特に目を引いたのは「得点の瞬間にエゴイズムが必要」だが「エゴイストにはパスが来ない」というサイドラインである。
「エゴイズム」と「エゴイスト」の違いは何なのか。
個が個として機能することを前提に存在するのが「チーム」である以上、個の「エゴイズム」は不可欠である。
そして個の「エゴイズム」の質を高めるためには、まずは個のなかに存在する様々な「二律背反」を超克する必要がある。
そのときに、「個の集合体=チーム」と考えるか、あるいは「個の相互作用=チーム」と捉えるかによってこの「エゴイズム」の質は大きく変わってくる。
「エゴイスト」というスタンドアローンの足し算では、チームのパフォーマンスは高まらない。
時々刻々の移りゆく状況を的確に読み解きながら、様々な二律背反の振り子をバラバラにではなく共振させられたときにトレーニング効果は最大化され、その積み重ねによって個人およびチームのパフォーマンスが向上するのである。
ザッケローニ監督のプロフィールは、彼がそれを熟知しているであろうことを物語っている。
失敗をした選手を再び使うことも、実戦のなかで様々なポジションを試すことも、全ては個の「エゴイズム」の質を高め、チームのパフォーマンスを向上させるための「マネジメント」であり、それが監督を「マネジャー(manager)」と呼ぶ所以でもある。

嘉納治五郎著作集 (第1巻)

嘉納治五郎著作集 (第1巻)

精力善用ということを考えていれば、不摂生、睡眠不足、過度の勉強等のゆるされないことはもとよりとして、怠けることももちろん出来ない。いかなる益友・善人であるからといって、いたずらに無益の談話をして日を消し、時を過ごすわけにもいかなくなる。またやむを得ず好ましからぬ人と席を同じうして談話を交える場合でも、この主義によって行動するならば、その接触関係を最も有利に導くことも出来るはずである。あるいはまた不幸に出逢った時でも、すでにふりかかった身の不幸をただくよくよ思っているような無益なことをやめて、これを転換して幸福の源ともなし得ようし、いかなる僥倖がつづいたにせよ、この主義を体得していれば、うっかり油断などをすることはゆるされぬこととなろう。所詮この簡潔な四字が示すところによって、百千の教戒・訓喩を一層有力に実行そることが出来る。(…)
さらに人の本性として、すでに社会を成し団体生活を営んでいる以上、その団体・社会を組織している各成員が、その他の成員と相互に融和協調して共に共に生き栄えることほど大切なるはあるまい。各成員がことごとく相互に融和協調しておれば、己のはたらきが己自身の益となるのみならず、他をもまた同時に利し共々幸福を得るは明らかであり、他の活動がその人自身のためばかりでなく、己を始めその他の一般の繁栄を増すはもちろんのことである。かような次第で、その融和協調の大原則はつまり自他共栄ということに帰する。ただただ他のためにつくせと言っても、その尽くさねばならぬ理由をいずこに求めるのであるか。また自己の便のみをはかろうとすれば、たちまし他と衝突するは必然のことで、かえってそのために大なる不便をまねくにきまっている。かく自分をいたずらに捨てることも人情にそむき、また理由もなく己の我儘勝手ばかりを主張すれば、他の反対によってそれが妨げられるばかりでなく、ついには自己の破産に陥ることになる。そう考えてくると、どうしても人が人として社会生活を全うし、存続発展していくには、自他共栄の主義以外には有るべきでない。
(1925年12月 嘉納治五郎『何故に精力最善活用・自他共栄の主張を必要とするか』より抜粋)

「結論は凡庸でも、その結論に至る方法は深遠なはずだ(by小田嶋氏)」
本質的なことというのは、総じてシンプルなものである。
故に、今回のアジアカップ制覇という結果(情報)に浮かれることなく、そこに至るまでにザッケローニ監督(と選手たち)が辿った「(情報化)プロセス」について可能な限り深く、そして正確に読み解く必要がある。