日本陸連400mH研修合宿 in NTC

moriyasu11232011-11-17

11月11日〜13日、ナショナルトレーニングセンター(NTC)にて日本陸連ハードルブロック研修合宿が行われた。
この合宿には、すでにロンドン五輪参加標準記録を突破している男女400mH選手計4名(+スタッフ3名)が参加。
初日の夕食後、アスリートビレッジ(冒頭写真)の研修室にて、レース映像およびレースパターンのデータを参照しつつ各選手からの今シーズン振り返りを拝聴。
終了後、翌日の個別ヒアリングで聞き取る予定の項目(ロンドン五輪以降の中長期目標、来シーズンの目標(記録および成績)、自身の現状分析と課題(心技体を問わず)、トレーニング目標(重点化および優先順位付け)、具体的なトレーニングおよび試合計画など)についての事前アンケート用紙を配布する。
翌12日の午後より、各選手に記入してもらったアンケート内容の行間を埋める質的な情報収集のための個別ヒアリング。

コーチングのそもそもの意味は、「相手の望むところへ導くこと」と考えられる。
そして、その「望むところ」は、単なる客観的な目標に留まらず、その状態であったり、あるいは技術やスキルなどなど様々であるため、相対する人間の背景を知らず、また関心を寄せることもなくそこに導くことは、ほとんど不可能である。
相手の「背景」を知ると、その捉え方が「点」から「線(あるいは面)」に移行する。
(2009年12月24日 拙稿「背景への関心」より抜粋)

レースパターンを含む分析データは単なる「情報(点)」に過ぎないが、そのデータの背景にある質的情報(プロセス)が重ね合わせられると、それが「線(面)」としての意味を帯びてくる。
「線(面)」としての意味内容を共有しようとすれば、互いの背景にまで意識が及び、表面的な「決めつけ」が起こらなくなくなり、より合理的な「判断」をするための「新たな問い」を立てることができる。
我々強化スタッフは、日々の選手の動向を観察できる立場にはないが、客観的な量的・質的データをもとに異なる観点や枠組みを示すことは可能であり、時にそれが選手や指導者の理論を再構築する契機となることもある(が足を引っ張る危険性もある)。
聞き取った内容を概観すると、共通する課題は「スタート〜アプローチの改善・安定化」と「ハードリング(特に逆脚)技術」および「ベーシックな走力(スプリント力)およびスピード持久力を高めるためのトレーニング」などに集約される。
これらの課題に対して、110mHと400mHのスペシャリストとして共に日本歴代10傑に名を連ねる陸連ハードル部長および強化委員から、示唆に富んだ実践的なアドバイスが数多く呈示された。
このトータル3時間にもおよぶ個別ヒアリングを受けて、「心技体の相補性」を考慮したトレーニング構築にむけた情報提供を行う。
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400mHのパフォーマンスは、おおよそ1台目のハードル前後までに立ち上がる最高速度の高さと、その速度をどれだけ長く維持できるかによって決まるという原理・原則がある。
無論、単に最高速度が高いだけ、あるいは速度を長く維持できるだけで、そのパフォーマンスが高まるわけではない。
ここには「スピード」と「持久力」という二元論的対立を乗り越える「相補性」という発想が必要となる。
「レース(ペース)戦略」とは、時々刻々の疲労情報から未来(フィニッシュ)を予測し、その予測情報をもとに時々刻々の努力感を調節する「制御システム」のことを指す。
このシステムの「安定」は、同時にパフォーマンスの「安定」を意味するが、パフォーマンスを「向上」させるためには、このシステムの「解体&再構築」が必要となる。
そのためには、苦しさや疲労の度合いといった主観的な情報と走スピードとの関係によってつくられた脳の「プログラム」を書き換えなければならない。

『ザトペックが創造したインターバルトレーニング
 私は考えたわけです。繰り返すだけでは復習しかないことと同じだと。
 予習、すなわち新しいことを習わなければ、進歩がないと。
 そこで予習とは何だろうと思ったときわかったのがスピードです。
(山西哲郎「創造性とスポーツトレーニング」体育の科学 58巻2号より抜粋)

400m×100本に代表される究極の反復トレーニングを構想したザトペックをして『繰り返すだけでは復習しかないことと同じ…予習、すなわち新しいことを習わなければ、進歩がない』と言わしめるインターバルトレーニングの本質とは何か?
例えば200m以上の走種目においては、より短い距離を走れる「スピード」や、より長い距離を走れる「持久力」が必要であるとよくいわれる。
400mHでいえば、400mの走力はもとより、100〜200mのスプリント力や、400m以上の距離を走れる持久力がそれにあたる。
そこには、400mHパフォーマンスの歴史的変遷から導かれた、ある種の「経験則」が含まれているとみて間違いはないだろう。
しかし同時に我々は、単にスピードや持久力のキャパシティーを高めることが、直ちに400mHのパフォーマンスの向上に繋がるわけではないという「経験則」も併せ持っている。
パフォーマンス向上のために獲得を目指す能力は、あくまでもその種目の「特異性」を踏まえた「専門的」なものでなければならない。
畢竟400mHにおいては、可能な限り効率よくレース前半の走速度を高めていくこと、すなわち「楽に」かつ「速く」という矛盾に引き裂かれたトレーニングの積み重ねによって各選手独自の「前半型」を追究することが鍵となる。
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各選手に1台目までの努力感を聞いたところ、全ての選手が「8.5〜9割」と回答した(長い距離の走トレーニングの出だしもほぼ同じかそれよりも遅いイメージ)。
しかし生理学的に考えれば、無気的(特にATP-CP系)エネルギー供給の貢献度が高いレースの序盤で大きな速度を獲得しておくという戦略には一定の合理性があることに加えて、近年ハイペースで入って素早く酸素摂取量を立ち上げることがその後の酸素利用を促すといった有気的エネルギー供給の観点での有効性を示すエビデンスも散見される。
世界トップレベルの選手達のレースパターンを概観する限り、そのようなアプローチを実践している選手も少なからずいるように思われる。
以前、前ハードル部長から「(世陸ファイナリストになる前に)長めの距離を走るトレーニングにおいて後半まで速度を維持できる技術&体力を確立した結果、自信を持って前半からハイペースのレースパターンに挑めるようになり、それがさらなる前半型追求への布石となった」という話を聞いたことがある。
これこそ、まさに心技体の相補的トレーニング(効果)の神髄と呼べるものであろう。
このエピソードは、前述の内容と矛盾すると思われるかもしれないが、ここにひとつの「情報」を加えると、その神髄たる所以を理解することができる。
ヒアリングの際に、前部長の大学の後輩にあたる強化委員から「500mなどの長い距離を走るときにも、最初の50mを全力で入るなどスピードをしっかりと立ち上げた上で、それをどう維持するかを模索するようなトレーニングが必要ではないか」というアドバイスがあった。
このトレーニングは、大学生時代に前部長の指示のもとで行われたトレーニングのひとつであるという。
1台目のアプローチが安定しないのは、「8.5〜9割」という微妙な努力感の調整が困難であるが故と考えられなくもない。
確かに「速く入る → 後半疲れる」という方程式は一般論としては成立するのであるが、その入り方には無数のバリエーションが存在し、かつその後の走り方との組み合わせも無限に存在するのである。

気づけば手段が目的化するという事がよくあります。手段が目的化すれば、その手段でしか目的は達成されないと思い始め、思考の硬直が起き始めます。そして試行錯誤が無くなり、成長が止まる。これを防ごうとするならそもそも何の為にやっているのかをその都度問い直すのが重要でしょう。
考え方として大切なのは、練習の前になぜそれをするのか、なにを達成すればその練習は成功なのか、を決めておく事です。(…)確かにどんな練習をしても何らかの練習効果はあるでしょう。鍛えれば何かは強くなります。問題は、練習で強化されるものは自分の競技力向上に最も有効かという事です。こういう思考の繰り返しにより、合理化された効率の良い練習方法が確立されていきます。合理化された練習を限界までやればより効果が高いのはいうまでもありません。
(2011年11月16日 為末大オフィシャルサイト「練習の辛さと、練習効果の関係について」より抜粋)

ザトペックのいう「予習」とは、自分の現状を超えた未知に遭遇(体験)し、その反復(経験)によって自らの既知を押し広げることにほかならない。
400m×100本という反復は、身体システムの再構築を目的とした「予習トレーニング」、すなわちマラソンを今以上に速く走るために必要な技術(ペース)で40キロを「走り込む」ために編み出された極めて合理的なトレーニングなのである。
「長い距離を走り込む」ことは、手段であり目的ではない。
「手段の目的化」というピットフォールは、これを細心の注意を払いつつ回避し続ける必要がある。

敗因は,アウェーであるための対処が出来ていないこと.
ほとんどの選手がイギリス人のいいなりに動いてしまうこと.そのため要領を得ず,常に後手後手の行動に走ってしまうこと.
また,外国人とのリズムや自身でつくる「あいつらは速い」といった先入観にとらわれてしまって,走りの効率性を欠いてしまったこと.(…)
経験によって,様々な状況を排除してくことが出来ますが,あとは自身がそれらの方法について気付けるのか,否か.
少なくとも日本に帰って,日本人と走るのが楽になると思いますが,それらより上を見て欲しいと思っています.
(2010年3月2日 山崎一彦のたわごと「イギリス練習風景1」より抜粋)

昨年1月に行われた 福岡での強化合宿でのヒアリングにおいて、吉形政衡選手が『(イギリス合宿の経験から)レストが単なる「休息」ではなく、トレーニングの「流れ」の中にあることが分かってきた』とコメントしていた。
彼方(イギリス)の練習(75秒間走×3本を5分レスト、200m×3本×2セットを90秒レストなど)におけるレストは、此方(日本)のそれに比べてかなり短い。
このレストが30秒長短するだけでも、身体への心理学的および生理学的な刺激は大きく変わるのである。
「トレーニングの流れの中にあるレスト」
大変重要な指摘である。
「科学的トレーニング」とは、トレーニング効果を最大限に引き出すために「心・技・体」のあらゆることが「綜合的」に考慮されたトレーニングのことを指すのであり、そこで考慮されていることの多寡とその優先順位付けの妥当性がトレーニングの「科学性」を決定づけるのである。

『相補的予習トレーニングの創発に向けて』

  • 乳酸は「疲労物質」というイメージから…乳酸をエネルギーと捉え、出して使うイメージの追求へ(乳酸シャトルの高速回転、楽に速くの飽くなき探求…)。
  • 走速度低下(疲労)に「耐える」から…3E(経済性・効率・有効性)の改善による疲労の先送りへ(スタート1歩目からの技術的改善…)
  • 走行距離やタイムを目標とする発想から…動きや感覚(努力感など)のモニタリング重視、主観的ペース戦略の結果としての走行距離やタイムの参照、起伏や負荷軽減法などを利用したステレオタイプ化の回避へ
  • 低強度トレーニングによる持久力の養成(維持)から…レースペースをベースとした走トレーニング体系の構築、インターバル(レスト)による負荷調整の合目的化による持久力強化へ

(研修会スライドより抜粋)

一度自分の限界を超えることができた人間は、必ずその「自分の限界を超えたやり方」に固執する。しかし、優れた選手や指導者は「そのやり方」に固執してはならないということ、すなわち「変化の仕方自体を変化させる」ことが重要であることに気付く。
「変化の仕方自体を変化させる」ことは、自身の身体システムの「構築」と「解体」という矛盾に引き裂かれながら鍛錬(再構築)し続けることにほかならない。
この知的/身体的フレームワークの再構築には、必ずある種の「酸欠状態(苦しさ・違和感)」がつきまとうが、この「酸欠状態」に挑み続ける人間しか自身のパフォーマンスを高め「続ける」ことはできない。
さらに言えば、そのように錬磨された「身体知」でなければ、たとえ科学的で高級そうに見えるエビデンスであったとしても、ほとんど使い物にはならないのである。

本を読む本 (講談社学術文庫)

本を読む本 (講談社学術文庫)

「理論的」とか「実践的」とかいう言葉は、誰でも使っている。だが、誰でもその意味が分かっているというわけではない。とりわけ、理論家をいっさい信用しない実務家タイプの人には分からない。そういう人にとって「理論的」とは、空想的とか神秘的ということで、「実践的」とは、目に見えた効果があって現ナマがすぐ返ってくるようなことである。この考え方にも一片の真実がないわけではない。実践的なことは、なんらかの形で、遅かれ早かれ目に見える効果を生むものと関係があるし、理論的なことは、見たり、理解したりするものと関係がある。このおおざっぱないい方をさらにつきつめていくと、知識と行動という区分に達する。
(byアドラー氏)

選手や指導者は、「現実の世界で実際に観測されている事実・事象」をもとに、「仮説」すなわち「頭の中で考えられた検証される前の理論」をたててトレーニングを進めていく。
そして、頭の中で考えた「仮説」の妥当性を、トレーニングや試合でのパフォーマンス(事実)とつけあわせつつ検証するという作業の繰り返しによって、「実証された事象間の関連(こうすればああなる)」としての「理論」が構築される。
この「理論」は、「信じつつも疑う」という矛盾した作業の中で、より洗練化していく必要がある(でないとパフォーマンスは高まらない)。
レーニングの本質が「変化」と「安定」の絶えざる更新にあるとするならば、トレーニング科学の本質は、運動の「実践」とその「観察や分析」を往復しながらの「実践知」と「理論知」の絶えざる更新にある。
今回の研修合宿を「(科学的)事実」を認識するための「理論的予習の場」と位置付けるならば、年末から来シーズンにかけて複数回予定されている強化合宿は、高いレベルで互いに試行錯誤し合う「実践的予習の場」となり得るだろう。
レーニングの「量」や「強度」を高めるには限界があるが、量と強度の無数の組み合わせに盛り込むべき「質」は無限である。
選手&スタッフの皆様、お疲れ様でした。