福翁から「学び」を学ぶ

moriyasu11232009-01-08

文部科学省は22日、23年度の新入生から実施する高校の学習指導要領の改訂案を発表した。「英語の授業は英語で行うのが基本」と明記し、教える英単語数も4割増とする。
高校の改訂案では英語で教える標準的な単語数が1300語から1800語に増加。同様に増える中学とあわせて3000語となる。中高で2400語だった前回改訂の前をさらに上回り、「中国や韓国の教育基準並みになる」という。
改訂案は「授業は英語で」を初めてうたった。長年の批判を踏まえ「使える英語」の習得を目指すという。
(2008年12月22日 朝日新聞

最近の「英語」に関する教育行政の迷走ぶりには、目を見張るものがある。
すべての授業を英語ですべしとなれば、英語教師の多くがパニックに陥ることであろう。
百歩譲って「できる」として、なぜその必要があるのだろうか。
高度な英語力を身につけるためには、英語で理解し話せるだけでなく、英語で「思考」する必要がある。しかし、そのような能力を必要とする人、また身につけようと考える人は、国民のごくごく一部に過ぎない。
そんなことを高校生「全員」に押しつけようとするのは、愚かというよりほかない。
日本の英語教育は、「(中学・高校を通じて)6年間も勉強しているのに、全然英語が話せない」と批判され続けてきた。記事にある「長年の批判」とは、恐らくこのことであろう。
これには、大いなる事実誤認がある。
6年間といっても、英語の授業はせいぜい週3時間である。
(年52週 − 休業8週) × 3時間 × 6年 = 792時間(33日)
つまり、我々の英語学習は、せいぜい1ヶ月程度のことなのである(睡眠や食事の時間が考慮されていないなどのご批判は一切受け付けない)。
私たちは、短期の海外や駅前留学を終えた後、多少は上がった(はずの)会話力が間もなく元に戻ってしまうことをよく知っている。
したがって、もし「文法」ではなく「会話」を重視するのであれば、週3時間ではほとんど効果は望めない。
さらに言えば、「話す」を重視するあまり、「読む/書く」がこれまで以上に疎かになることのデメリットについてリアルに考量されているのかと問いたくなる。

外国語は「私がそのような考え方や感じ方があることを想像だにできなかった人」に出会うための特権的な回路である。
それは「私が今住んでいるこの社会の価値観や美意識やイデオロギーや信教」から逃れ出る数少ない道筋の一つである。
その意味で外国語をひとつ知っているということは「タイムマシン」や「宇宙船」を所有するのに匹敵する豊かさを意味する。
けれども、それはあくまで「外部」とつながるための回路であって、「内部」における威信や年収や情報や文化資本にカウントされるために学習するものではない。
外国語は「檻から出る」ための装置であって、「檻の中にとどまる」ための装置ではない。
役人たちは国民を「檻の中に閉じ込める」ことを本務としている。
その人々が外国語学習の本義を理解していると私は考えることができないのである。
(2008年2月17日 内田樹氏ブログ「小学生に英語を必修させる必要があるのか?」より抜粋)

日本の産業は、その多くが内需でまかなわれている。
輸出品にしても、それを造るために英語は必要ない。
英語が話せなくてもノーベル賞が取れることも判明した。
それくらい「必要のない」ことに、これほどまでエネルギーを割く必要があるのだろうか。
語学力なんて、必要があれば身につくのである(必要がなければ身につかない)。
中学生のとき、丸善の洋書売り場に居並ぶ原書(ほとんど英語)を見回し、その膨大な量のテクストを自在に読めない自分に「腹が立つ」といって、英語の猛勉強を始めた友人がいた。
私は、さほど腹が立たなかった。
彼は、世界貿易センタービルにて勤務中の2001年9月11日に同時多発テロに遭遇し、ビルの中階から間一髪逃げおおせるくらい「国際的」に活動している。
私は、英語論文も書かず(書けず?)に「国内的」な活動にいそしんでいる「タイム職人」である(自慢ではない…たぶん)。
そして我々は、いまだに友人である。
それでよいではないか(誰も文句言ってないけど…)。
閑話休題
語学の勉強といえば、真っ先に緒方洪庵適塾が思い浮かぶが、なかでも福澤諭吉はトップクラスの「猛者」である。

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

何のために苦学するかといえば、一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。名を求めるどころか、蘭学書生といえば世間に悪く言われるばかりで、既に已に焼けに成っている。ただ昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がっているようなもので、実に訳のわからぬ身の有様とは申しながら、一方を進めて当時の書生の心の底を叩いてみれば、おのずから楽しみがある。これを一言すれば−西洋日進の書を望むことは日本国中の人に出来ないことだ、自分たちの仲間に限って斯様なことが出来る。貧乏をしていても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位で、ただ六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽という境遇であったと思われる。たとえば、この薬は何に利くか知らぬけれども、自分たちより外にこんな苦い薬を能く呑む者はなかろうという見識で、病の在るところも問わずに、ただ苦ければもっと呑んでやるというくらいの血気であったに違いはない。
(by福沢諭吉氏)

その勉強ぶりは、熱病を患って床に就いたとき、過去一年間「夜具を掛けて枕をして寝るなどとうことは、ただの一度もしたことがない」ことに気づいたほどであったという。
この猛勉強ぶりは、こう結ばれている。

兎に角当時緒方の書生は、十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却って仕合で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く末ばかり考えているようでは、修行は出来なかろうと思う。さればといって、ただ迂闊に本ばかり見ているのは最も宜しくない。宜しくないとはいいながら、また始終今もいう通り自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したら金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心引かれて、齷齪勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う。
(前掲書より抜粋)

現在の教育では、「自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したら金が手に這入るだろうか(…)というようなことにばかり心引かれて」勉強することをデフォルトにしたプログラムが構築されている。
それは子どもたちを、知識や技能を習得することそれ自体ではなく、そのことによって得られる「利得」へと向かわせる。
これを、心理学用語で「外発的動機づけ」という。
重要なのは「利得」であり、知識や技能はそのための「ツール」にすぎない。
となれば、子どもたちが「ツール抜きで利得を得る方法」、すなわち「少ない学力(努力)で高学歴を得る方法」の考案に熱中するようになるのは自明である。
「中学生程度の学力で一流大学に合格する」のは、「ワンクリックで1億円稼ぐ」のと同類の「クレバーな生き方」なのである。
なぜ親たちが、あれほどまで幼児期から子どもに英会話を教えたがるかといえば、それによってネイティブのようにしゃべれるようになると信じているからではない(だってほとんどの子はしゃべれないし)。
「うちの子ね、もう英語でしゃべるのよ。やっぱり英語はネイティブの先生につけないとね〜おほほほ〜」などと言いまわると、周囲の親たちは「ああ、うちの子は取り返しのつかないビハインドを負ってしまった…ガックシ…」と意欲を喪失したり、「こうしちゃいられないわ!」と子どもの首根っこをつかんで英語教室に通わせたりする。
こうして、めでたく「英語嫌い」の子どもが量産される。
「おほほほ〜」な人たちは、自分の子ども以外の学力をまとめて低下させることが、自分の子どもの学力を相対的に高める最も「コストパフォーマンス」の高い方法だと(無意識のうちに)知っているのである。
既に子どもたちは、「利得」のめどが立てばコストパフォーマンスのよい勉強をするが、めどが立たなければ全く何もしなくなるというかたちで「二極化」している。
これは、子どもの体力低下や、スポーツのタレント発掘などにも通底する問題である。
教育に関わる人間は、「粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位」が、一体どのように生み出されるのかについて、一度思い巡らせてみてもよいのではないか。
返す刀で、自らも「自分たちより外にこんな苦い薬を能く呑む者はなかろうという見識で、病の在るところも問わずに、ただ苦ければもっと呑んでやる」というくらいの気概を持って学びに向かわねばなるまい。