メディアの行く末

moriyasu11232010-04-11

メディア、特にマスメディアの凋落ぶりが語られるようになって久しい。
新聞の発行部数と広告収入は落ち込み、テレビも視聴率低下と番組の画一化・低俗化に拍車がかかり、雑誌は廃刊が相次いでいる。
巷間、マスメディアの報じる内容が社会のニーズを満たせなくなっているという感覚も、少なからず拡がっているようだ。
そもそも「マス自体」が存在しない成熟社会に「マスメディア」が存在できるはずがないという向きもあるが、昨今の衰退ぶりを見るにつけ、いよいよそれが現実のものとなってきた感は否めない。

スポーツ報道論―新聞記者が問うメディアの視点

スポーツ報道論―新聞記者が問うメディアの視点

インターネットという手段でだれもが自己表現できるようになった今、これは時代の流れと割り切るしかないのだろうか。それぞれの選手のコメントや考えを新聞社やテレビ局が全てすくい上げられるわけではない。だから、選手がファンとの対話を自ら求めるのも理解できる。ただし、メディアと選手との関係において、「メディアに話す必要はない」という風潮になってしまうことを恐れる。今、そういう選手は決して多くはないが、選手との信頼関係を普段から築いていかなければ、メディアはそっぽを向かれてしまうだろう。信頼関係といっても、それはお友達関係を築くことではない。しっかりとした専門性や批評眼を持った記者でなければ、いずれ相手にされなくなるのではないか。選手がインターネットで一方的に発言するのではなく、彼らのプレーや生で語る言葉に第三者の評価も必要だと思う。そのためにも「プロの目」を持った記者の養成は欠かせない。
(by滝口隆司氏)

専門性や批評眼を持った記者の育成が、マスメディア浮沈を左右する案件の「ひとつ」であることは言を俟たない。
しかし、ジャーナリストの佐々木俊尚氏は、既にマスメディアを支えてきた社会や技術の構造そのものが変わった以上、仮に景気が持ち直したとしても、その衰退に歯止めがかかることはないと喝破する。

2011年新聞・テレビ消滅 (文春新書)

2011年新聞・テレビ消滅 (文春新書)

垂直統合がバラバラに分解して、新聞社やテレビ局は、単なるコンテンツ提供事業者でしかなくなった。パワーは、コンテナを握っている者の側に移りつつあるのだ。もちろん、コンテンツの重要性が失われるわけではない。良い記事、良い番組コンテンツはこれからも見られ続けるけれども、そのコントロールを握るのはいまやコンテナの側にシフトしはじめているのだ。
これこそが新たなメディアプラットフォームの時代である。
コンテナを握る者こそが、プラットフォームの支配者−すなわち握っている人がすべてをコントロールするプラットフォーマーになっていく。
(by佐々木俊尚氏)

カタカナが多いな…
メディアによる情報配信は、「コンテンツ−コンテナ−コンベヤ」の3C構造になっている。
テレビの場合は、個々の番組が「コンテンツ」、CMを載せたり番編を担うテレビが「コンテナ」、「コンベヤ」は地上波、衛生放送、CATV…となる。
新聞の場合は、これまで(今もそうだけど)「記事を書く人(コンテンツ)」「新聞紙面を作る人&印刷する人(コンテナ)」、そして名目上は別企業の形をとる販売店も「専売店(コンベヤ)」というかたちでネットワーク化されている。
このように、紙面制作から印刷、流通、そして配達までがひとつの企業(新聞社)の中で統合されている仕組みのことを「垂直統合」と呼ぶ。
この3C構造の中で暴利を貪ってきたのは「パッケージ」部門を管轄する「コンテナ」部分であるが、ネットの出現によって「垂直統合がバラバラに分解(by佐々木氏)」し始めており、新聞が独占してきた「コンテナ」はインターネットに、テレビが独占してきた「コンテナ」はyou tubeほかに移行しつつある。
この「コンテナ」さえ押さえられれば、これまでマスメディアを支えていた「希少な伝送路をもつことの優位性」はほとんど意味をなさなくなる。
つまり、「コンテナ」に戦線移動できずに単なるコンテンツ制作者と化したマスメディアは、現在のような高コスト構造を維持し続けることができない(し維持し続ける理由もない)というのが佐々木氏の指摘である。
なるほど。
確かに、「垂直的統合」がばらけたことによるマスメディアの凋落というロジックはよく分かる。
しかし、業績不振や赤字状況がしばらく続いたとしても、長年の独占経営によってかなりの内部留保を貯め込んでいるマスメディアは、それを償却していけばそう簡単にはつぶれない。
既得権益の中で守られたオールド(マス)メディアが、新しいメディアの登場を妨げながら、劣化した大きな図体のままで生きながらえてしまう可能性は十二分にある。
しかし、我が身の実感として、マスメディアに「とほほ…」を感じる理由は他にもある。
それは、マスメディアの「知的劣化」である。
偉そうに言うが、それが実感なのだから仕方がない。

難解な問題を分かりやすく伝えるために最大限の努力を傾けることの重要性は、全く否定するものではない。
しかしそれは、問題そのものを簡単にしてしまうこととはまるで違う。
問題そのものを簡単にするということは、その問題の本質を、既に知っている問題に対する回答へと切り下げてしまうからである。(…)
「分かりにくい」ことを「分かりやすく」伝えようとすれば、そこには必ず矛盾が生じる。(…)
「分かりにくい」問題の本質を切り下げることなく「分かりやすく」伝えていく「術」、それを編み出していくのがメディアの真骨頂であり、そのような矛盾の超克がメディアを「文化」として発展させてきたはずである。
(2008年5月29日 拙稿「メディアの使命」より抜粋)

マスメディアは「沈黙」が許されない商売である。
新聞もテレビも、毎日何かしらを発信しなければならない。
とてもじゃないけどマネできない(週1回が精一杯)。

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

この本は、哲学の問題を取り扱う。そして―私の考えでは―われわれの言語の論理が誤解されているとき、そうした(哲学的)問題が問われる、ということを示す。この本全体の意味は、次のように言ってよいだろう。およそ語られうることは、明晰に語られうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない、と。
それゆえ、この本は、思考に一つの境界線を引こうとする。(…)
その境界線はただ言語の中で、引かれることができる。
(byウィトゲンシュタイン氏)

「沈思黙考」は、思考する人間が手放すことのできない特権であり、物事を徹底的に考え抜くための「must」でもある(とヴィトゲンシュタイン先生も言っている…のかな?)。
定期的に一定量の情報を発信することが「must」であり、かつそれがビジネスにもなっているマスメディアのピットフォールは、「沈思黙考」が許されていないことにある。
彼らには、なぜ自分はこんな話ばかり書くのかと自問してみたり、自身の文体に心の底から飽いてみたり、自分とは別の切り口で思索を深めている人を探し回ったりする時間的余裕がない。
この「自省機会の欠如」によって、本来メディアとして有すべき批評性の本質的部分がゆっくりと、しかし確実にメルトダウンしてきたのである。
「広告収入減」や「インターネットの台頭」は、マスメディア終焉に向けて引かれた最後のトリガーに過ぎない。

14日付の日経新聞朝刊スポーツ面に掲載されたコラムが、われわれ運動部の中でかなりの話題になった。筆者は野球評論家、元西鉄の強打者で知られる豊田泰光さんである。(…)
「野球記事に限らず、新聞が選手の言い分をそのまま載っけるようなコラムばかりになってきたような気がする。取材する側、取材される側の間の緊張感が伝わってこない。業界の内輪話ではあるが、そういう記事はこそばゆいばかりでなく、選手を育てるという益もないから困る」
そう切り出した豊田さんは、昔の記事を振り返り、「今の記事のように選手の裏話を盛り込むわけではないから、淡々としている。しかし、その寸評は相当の見識があって成り立つものだった」と書く。(…)
私たちも気がついている。どこの社でも、記者の専門性が薄れていき、ただ試合を見て、試合後に聞いた選手の話をつなげて原稿を書いていることに危機感を覚えている。自分たちが書く原稿に手応えがなく、選手や読者からの反応が少ないことも気になっている。(…)
コラムの最後は「新聞は説教の道具ではないが、朝起きて楽しみ半分、怖さ半分で開いてみるくらいが選手にはほどよいのではないか」と結ばれている。“コーチ”となりうる新聞記者がどれだけ育つか、記者が専門性をいかに持ちうるか。その最大の課題を豊田さんは指摘してくれている。
(2010年1月15日 滝口隆司氏「新聞というコーチがいた時代」より抜粋)

新聞記事の書き方には、一種の「定型」がある(たぶん)。
それさえ覚えれば、すぐに「新聞記者らしいテクスト」が書けるようになる(たぶん)。
さらに、同じキーワードで検索した新聞(またはネット)記事をいくつか読めば容易に分かることだが、その多くが二次情報であり、新聞記者が独自に取材した情報などはあまりない。一次情報は、ほとんどが記者クラブ仕入れた官公庁や企業・団体のプレス発表であり、よくて識者や担当者のコメントをとる程度である。
したがって、やや誇張して言うと、「(記事の内容は)自分が書きたくて書いたものであり、全責任は個人で引き受ける」という固有の名前と自己史をもった人間(私)が、どこにも存在しないということになる(一部の署名記事は別として…)。
また署名記事であったとしても、例えば誤報名誉毀損剽窃などがあった場合、その責任は書いた本人ではなく会社にあるため、裁判に負けて賠償金を支払うのは会社である。
そんなとき「極めて遺憾である」と謝罪コメントをする広報担当者は、もちろん記事を書いた本人ではなく偶々その立場にある人間に過ぎない。
誰も個人で「責任」を取らなくていい、というよりも個人で「責任」を取ることができないようなシステムになっているのである(そうでないと困る部分もあるが…)。
一方、マスメディアに対抗するくらいの成長可能性が期待されていた「(市民記者が情報発信をする)市民メディア」も、昨年から今年にかけて「オーマイニュース」「ツカサネット新聞」などの老舗?が相次いで経営破綻するなど苦境に立たされている(日本インターネット新聞社のJANJANは休刊回避)。
PJニュースの編集長である小田光康氏は、市民メディアの課題として「より多くの身近なニュースの集積」「オピニオンの多様性と質の担保」「最小限コストでの運営」「少額広告主を多数集めるような経営手法の開発」によるマスメディアとの差別化を挙げているが、市民メディア存続の最も重要な条件は、参加する市民記者各自の「独立自治」と「責任ある社会参加」に尽きると指摘する。
おお、ここにも「責任」の文字が…

人間も人間の作り出す社会も、善と悪で二分できるような単純なものではないことは誰でも知っているはずである。にもかかわらず、善悪、正邪でしかものごとを判断できないのもまた人間である。
正義の記者は、自分たちが虐待というおぞましい出来事の外部に存在していると考えているのだろう。そうでなければ、もっと丁寧に「加害者」に取材しただろうし、悪の芽を摘むなどという「正義の言葉」は吐かなかったはずである。
さらに言えば、この記者は、本当に「正義」のために病院を指弾したのだろうか。あるいはもっとべつの、自らの欲望の赴くところにたまたま正義が転がっていたというのは言い過ぎだろうか。
人間とは、誰も自身の欲望と無縁ではいられないだろうし、同時にこの欲望それ自体は、正義や悪とは無関係の次元に存在する。
(2008年6月3日 拙稿「メディアの暴走」より抜粋)

ネット上では、とりあえず自分の発した言葉の責任を個人で引き受けることができる。
インターネットの真の「強み」は、書き手が「ほんとうに伝えたいこと」を書く自由と、その「責任」をとる権利(≠義務)が担保されていることにあるのかもしれない。