感動の押し売り?

moriyasu11232010-07-03

政治ジャーナリストの上杉隆氏が、「安上がりに感動している」とメディアのW杯報道を批判している。
特にテレビに対して、公共の電波を使って「感動したり」「お礼をしている」ヒマがあったら、日本の敗因について解説してもらいというご指摘である。

そもそも、今回の日本代表の戦前の目標は、ベスト4であったはずではないか。それは岡田監督自らが設定したものである。
にもかかわらず、結果はベスト16であった。善戦したとはいうものの、自ら目指した目標に到達しえなかったのは間違いない。それならば、なぜそうした結果に終わってしまったのか、という点をサッカージャーナリズムは分析しないのか。
一般のファンならば仕方がない。しかし、まがりなりにもメディアの人間であるならば、そしてサッカーを取材している者であるのならば、ファンと一緒にお礼をしていないで、自らのやるべき仕事をきちんとこなすべきである。(…)
サッカージャーナリズムはそれによって口を糊しているのだ。浮かれている場合ではない。自らの仕事を遂行すべきなのだ。
民放のテレビ局だけではない。NHKの解説者までもが同様に応援団と化したことは、いつものことではあるが極めて残念である。
「勇気をもらった」という素人のようなコメントをアナウンサーまでもが連発し、ひどいことにサッカー解説者まで同様に呼応する。
はっきり言おう。パラグアイ戦の、とりわけ後半で、いったいどこに勇気があったというのか。ピッチで戦っているイレブンに文句を言っているわけではない。戦術をあずかる岡田監督に対して、そう思うのだ。(…)
南米や欧州のサッカーが強いのは、こうした敗戦の中から教訓を探し、未来につなげてきたことにある。
確かにファンは熱狂する。だが、メディア、とりわけサッカージャーナリズムの中の者は、そうした雰囲気の中でも敗因をみつけ、将来のチームのために、あえてそれを提示してきたという過去がある。サッカージャーナリズムが、あえてその憎まれ役を演じてきたからこそ、自国のサッカーが強くなってきたという背景があるのだ。ファンと一緒に感動している場合ではない。あなた方はそれでお金をもらっている。立場が違うのである。
カメルーンに一勝したときに巻き起こった陶酔状態について考えるべきだ。ゴールをした選手だけに注目の集まる日本のサッカーは、評論も含めてもっとレベルアップの必要がある」
オシム前監督が、このように健全な批判精神で日本のサッカー界のために語っている裏側(民放裏番組)で、サッカー解説者の一人はこう叫んでいた。
「俺たちは誰ひとり代表選手を責めない。日本の誇りだ。胸を張って帰ってこい」
このセリフを聴くに及んで、日本にはスポーツジャーナリストが育ちにくいことを改めて確信した。(…)
ベスト8の出揃ったワールドカップは、まさしくこれから佳境に入る。世界最高レベルの選手たちが、世界最高の舞台で、最大の実力を出しきる真剣勝負の時がやっと始まるのだ。
サッカーというスポーツを本当に愛し、日本チームのことを思う者であるならば、敗退した日本代表と、ベスト8に残った上位国の代表のプレーにどのような違いがあるのかを知りたいはずであろう。まさしくそれを知ることが今回の日本の敗因を分析する最大のチャンスにもなるのだ。
少なくとも相手国であったパラグアイの個々の選手が、なぜ足元、身体の近いところで長くボールをキープすることができるのか程度は、研究してほしいものだ。
すべてのサッカー評論家やサッカージャーナリストには、これからのワールドカップの最大の見どころである準々決勝以上の試合について、ぜひとも真の「感動」を私たちに伝えてくれることを期待する。
(2010年7月1日 週刊・上杉隆ワールドカップ敗退で歓喜している国に、ベスト4など永遠に無理な話だ」より抜粋)

上杉氏の批判は、誠にごもっともなものである。
が、敗因分析というのは一朝一夕にできるものではなく、また相応の知性と能力を兼ね備えた人間が行わなければほとんど意味がないということも押さえておく必要がある。

「沈思黙考」は、思考する人間が手放すことのできない特権であり、物事を徹底的に考え抜くための「must」でもある(とヴィトゲンシュタイン先生も言っている…のかな?)。
定期的に一定量の情報を発信することが「must」であり、かつそれがビジネスにもなっているマスメディアのピットフォールは、「沈思黙考」が許されていないことにある。
彼らには、なぜ自分はこんな話ばかり書くのかと自問してみたり、自身の文体に心の底から飽いてみたり、自分とは別の切り口で思索を深めている人を探し回ったりする時間的余裕がない。
この「自省機会の欠如」によって、本来メディアとして有すべき批評性の本質的部分がゆっくりと、しかし確実にメルトダウンしてきたのである。
(2010年4月11日 拙稿「メディアの行く末」より抜粋)

毎日新聞の滝口隆司氏が、先の上杉氏の批判に対して自虐的な反応を示している。

各紙を眺めながら、違和感を覚えずにいられなかった。PK戦でパラグアイに敗れた日本代表に対し、新聞が伝えているのは「よくやったニッポン」の連呼である。そんな時、痛烈なスポーツジャーナリズム批判に出くわした。
フリーランスの政治ジャーナリスト、上杉隆氏がインターネットのコラム(「週刊上杉隆」)でこのパラグアイ戦の報道を次のように論じている。(…上記参照)
私は深夜のパラグアイ戦が明けた翌日の夕刊番デスクだった。編集局内の雰囲気だけでなく、テレビも、他紙も一様に「よく健闘した。感動をありがとう」の論調だった。「駒野泣くな」「サムライよ 胸を張れ」といった内容の情緒的な見出しが並んだ。私はせめて運動面だけでも冷静な見出しに出来ないものか、と編集者に訴えたが、何も変わらずじまいだった。
五輪の時にも思うことだが、いったんメディアの「スイッチ」が入ってしまうと興奮と熱狂の盛り上げに制御がきかなくなる。今回はカメルーン戦の勝利でその「スイッチ」が入り、大会前の批判など忘れて一斉に「手のひら返し」をやってしまった。今回の報道を批判されても、私には反論の言葉が見つからない。
上杉さんの言うように、一般のファンが興奮し、熱狂するのは当然かも知れない。普段はスポーツと無縁なメディアの人たちがファン感覚で煽るのにも、心外ながら目をつむろう。だが、そんな中にあっても専門家であるべきスポーツ記者は冷静な視点を失ってはいけない。それが「やるべき仕事」だ。
かつてアメリカのコラムニスト、ピート・ハミルが著書「新聞ジャーナリズム」(武田徹訳、日経BP社)でこんなことを書いていた。
「新聞記事の中には、読者を涙がこぼれるほど笑わせるように、面白おかしく書かれたものもあるが、新聞本来の使命は、熱狂や夢を読者に与えるものではない。ラテン的な、楽しくなくては人生の意味がないと考える人々が暮らす国でも、新聞は一般市民に真実を伝えるために存在した」
ハミルの言葉と比較すれば、われわれメディアは「熱狂」「夢」「感動」を安っぽく叫び、自分たちも明らかに興奮している。確かに戦術論の報道がないわけではない。だが、余りにも細部に込み入り込んでしまい、日本サッカーが世界の潮流の中でどういう位置にあるのか、大局的な視点が少ない気がする。
帰国会見は、闘莉王のものまねをする今野と、南アフリカの歌まねをする森本の"パフォーマンス"で笑いの中、締めくくられた。アットホームなチームの雰囲気を伝えたかったのだろうが、負けて帰ってきた日本代表の会見としては場違いに思えた。それを「結束力、チームワーク」と好意的に取り上げるテレビ映像。スポーツジャーナリズムの使命とは何か、と考え込まざるを得ない。
(2010年7月2日 スポーツアドバンテージ『「よくやったニッポン」でいいのか』より抜粋)

考え込んでいる場合ではない(to滝口氏)。
この問題は、メディアおよびジャーナリストの資質云々もさることながら、マスメディアの持っている構造的な問題として捉えるべきと心得る。
そのことは、「せめて運動面だけでも冷静な見出しに出来ないものか、と編集者に訴えたが、何も変わらずじまい(by滝口氏)」という一文にもよく現れている。
さらに言えば、官房機密費が政治評論家やマスコミ幹部へ流出していた問題を追及しているため、現在マスメディアから総スカンをくらっている上杉氏ご自身も十分に内面化している問題であるといえるだろう。
蛇足だが、記者会見で選手にムチャ振りする岡田武史監督の姿に、マスメディアの毀誉褒貶に対する仕返しの姿勢を見て取ったのは私だけだろうか。

戦前、満州進出で全国紙が軍部礼賛に染まるなか、地方紙に反骨の言論人がいた。桐生悠々(きりゅう ゆうゆう)。信濃毎日新聞主筆である。
日本が国際連盟を脱退した昭和8年、彼は「関東防空大演習を嗤ふ」という社説を書いた。
陸軍が、国民の好戦気分をあおるため思いついた防空訓練。空襲を想定し灯火を消して、お祭り騒ぎで行われた。
桐生悠々の社説、概略はこうだ。
「そもそも敵機が日本の上空に来る状況になったら、紙と木でできた東京の街は滅茶苦茶に破壊されて、日本の大敗北に決まっている。敵機が来襲するようなことがないようにすることが大切であり、このような架空の演習は何の意味もない」
その後の軍部の怒りは当然予想していただろう。案の定、信濃毎日に対し在郷軍人会の不買運動が起こり、桐生は退社を余儀なくされた。
そのころのマスコミ全般の報道がどうであったかを考えると、桐生の記事がいかに特異であるかがわかる。
軍部の暴走を新聞、ラジオが後押しする。その関係は昭和6年の満州事変からはじまった。
マスコミを利用して国民の好戦気分を盛り上げたい軍部と、「勝った、勝った」とお祭り騒ぎの戦争報道で部数を増やしたい新聞、ラジオの思惑がぴたりと一致した。
新聞社の幹部連中が、星ヶ岡茶寮などの料理屋で陸軍の機密費による接待を受けていたことが、永井荷風の日記などからうかがえる。
戦地に派遣されたエース級の記者がどんな記事を送ってきたのか。半藤一利氏の「昭和史」に、朝日新聞荒垣秀雄氏の記事が紹介されている。
「眉間から入った弾が頭蓋骨と皮膚の間をクルリと通って後頭部からぬけたのをホンの軽傷と思って戦っていた北山一等卒」
「胸部から背中に穴をあけられて息をするごとに出血しながら敵と格闘していた米山上等兵
あり得ないような話を書きなぐり、日本兵の武勇をたたえ、国民はそれをそのまま受け取って、勝利の報道のたびに、ちょうちん行列で気勢を上げていたのだ。
ちなみに、荒垣氏は戦後、「天声人語」の執筆者として著名になった大ジャーナリストである。
桐生悠々信濃毎日を退社後、「名古屋読書会」を主宰し太平洋戦争開戦直前に亡くなった。
桐生悠々のように、世の中の大勢に逆らって、身を危険にさらしてでも、信じる言論を貫くジャーナリストが今の日本にどれだけいるだろうか。少なくとも全国に情報発信する大マスコミを見渡す限り、探し当てるのは難しい。
(2010年6月17日 永田町異聞「むかし言論人ありけり」より抜粋)

「感動」である(が押し売りはしない)。
機密費によるメディア接待ってのは最近の話ではないのね(今気づいたわけではないけど…)。
ともあれ、パラグアイ戦評については、オシム前監督の即時的分析をもって急場を凌ぐこととしたい。

(試合前のスタジオにて)
ひとつ大事なことを申し上げたい。
カメルーン戦のあと日本代表のメンタリティが変わった。そして相手が日本をリスペクトするようになった。すでに日本代表の戦術は高度な分析の対象となっている。
試合前にリスペクトされるかどうかは大変重要なことだ。相手がこちらをリスペクトすれば、試合開始からこちらに主導権がある。逆に日本は、必要以上にパラグアイを恐れないようにしなければいけない。
パラグアイは手ごわい。彼らも世界的な名声を得ようとしている。
世界的なステイタスは自動的に得られるものではない。戦って勝ち取らなければならない。勝った方が世界的なステイタスを得るのだ。
日本はそのステイタスを手に入れる絶好のチャンスを目の前にしている。ただ勝つだけでなく、どんな試合を、どんなクオリティを持っているのか、勝ち進んだ場合に、次の相手の方が日本を怖がるような試合をしてほしい。
とにかく、今日の試合は勝たなければいけない。
そのためには怖がらないで勇敢に戦うことだ。
勇敢であればこそ、これまでの3試合で発揮した以上の力を発揮できるのだ。
もう一歩も二歩も先に進んでほしい。この後の日本サッカー界のステイタスのために、日本の子供たちのために。今の代表世代が成功を収めることができれば、日本のサッカー史だけでなく世界のサッカー史に名を残すことになる。

(前半)

  • 松井はパラグアイ人のようなプレイをしている。それでいい。
  • 阿部もっとシンプルに。持つと削られるぞ。
  • いいボールが入っていたらあぶなかった。駒野はよくスペースを消していたな。
  • もっとグループでボールを運べ。
  • 一発で狙うな。早く細かいパスで回せ。
  • 阿部がよくない。
  • こっちが早く決めないと向こうに決められるぞ。
  • (20分松井シュート)いいシュートだ。運がよければゴールだった。
  • 今度はファーポストの角を狙うんだ。
  • もっと落ち着いて。ボールを早く回すんだ。
  • サンタクルスは今日はついていない。反転のスピードがおかしい。
  • 松井はレスリングをするな。はたいて走れ。
  • (39分松井からのパスを本田がシュート)もうひとりいたのに。

(試合前半のオシム解説・ハーフタイムのスタジオにて)
率直に言ってがっかりだ。
ミスをしたくないという恐れが見て取れる。選手がかたまっている。このままいけば、ああすればよかった、こうすればよかったと後悔することになる。
パラグアイに勝たなければチャンスはない。
ディフェンスはしっかりしていた。前からもプレッシャーをかけて、球際も強く、こぼれ球もよく拾っている。ただ、こぼれ球を拾ったところからチャンスにつなげることができない。
イデアが足りない。体だけでなく頭も疲れているのかも知れない。
大事な試合であることはわかるが、もっとスピードを上げなければいけない。
南米相手によくボールを拾っている。しかし、日本も相手に奪われている。ミスで失ったボールの数は日本の方が多いのではないか。このままだと、どちらかが偶然のゴールで1対0で終わってしまうかも知れない。
もっと勝ちたいという気持ちを感じさせるプレイを、こうやって勝つんだというアイデアをみたい。
イデアのあるフレッシュな選手を入れるべきかもしれない。
もっとリスクを冒せる勇気のある選手を。
後半は、もっと走って数的な優位を取れる展開を期待している。

(後半)

  • 攻撃のイメージは昨日のドイツのショートカウンター
  • ドリブル以外のアイデアを出せ。
  • 松井に代わって俊輔、大久保に代わって岡崎の時間だ。
  • ブラボーユウジ!

(膠着状態で口を開かないオシム

  • 駒野がもっとダッシュする機会をつくれ!
  • 中村憲剛投入)中盤の選手がシュートを打てていないから憲剛に打たせるのか

(延長戦)

  • 向こうは決定的なチャンスが二つ、日本はもっとあった。決定的なチャンスをいかせ。
  • (玉田投入)今日入れないと一生ないぞ、玉田!

PK戦

  • 川島が助けてくれるに違いない。

(試合後半および延長&PK戦オシム解説・試合終了後のスタジオにて)
未来と言うものは過去の出来事から創られる。
きょうの試合は、将来やってはいけないことの見本だ。きょうの試合を一言で言えば、自分たちが成し遂げたい一歩先のステップと、現在自分たちがいる場所との間の、中途半端な地点で終わってしまった試合だ。
先に進みたいという気持ちが、微かの差で勝ったパラグアイが勝利した。
この試合で改善すべきことは何だったかを考えるべきだ。相手に勝たせないサッカーなのか、自分たちが勝ちたいというサッカーなのか。
決勝Tでこのような勝つ可能性のある相手と戦うチャンスはめったにない。
非常に残念だ。
準備の段階から、自分たちのプレイに自身を持っていなければ、実際に試合が始まって勝つことは難しい。
つまり、信じるのか信じないのか。全員を信じるのか誰も信じないのか。
試合前半は、非常に良い戦術で始まった。パラグアイ相手に何もさせないのだという気持ちがあった。しかし、勝つために必要なことを全部したかと言えば、そうではなかった。
それが非常に残念だ。
自分だけの力でゴールをあげるという誤解を持ったプレイがあった。このようなプレスのかかる試合では、組織で突破しなければ勝てない。
残念です。本当に残念です。こんなチャンスはめったになかったんです。
教訓をどう引き出すか。
このワールドカップで日本は自信を手にした。
ワールドカップの予選突破ではなく、本大会でどこまで勝ち進められるか、それを目標にしたトレーニングが必要だ。
それを成し遂げるために、今日から準備を始めなければならない。
こぼれたミルクは元にもどせない。今日の日本はミルクこぼしてしまった。
今日のPK戦をもって、日本はワールドカップからサヨナラしなければならない。しかしこの結果は、準備の段階からの結果なのだ。
選手やスタッフはよくやった。
今回の大会で言えば、日本はかなりの強豪と対等に戦えることを証明した。
もう少しだけ勇敢に、勇気を持って、リスクを冒すことができれば、もっと良い結果を手にすることができたかも知れない。
選手は今日は休んで明日から考えてほしい。
まず1勝して巻き起こった陶酔状態は正しかったか?
ゴールを挙げた選手だけを取り上げるメディアを含めてレベルアップしなければいけない。結果だけからの批判は誰でも出来る。
ヨーロッパのサッカー界は、日本サッカーのスタイルについてポジティブに取り上げている。
選手にはおめでとうと言いたい。
Jリーグで、良いプレーをすることだ。Jリーグでもっと走る。Jリーグでもっとリスクを冒す。そうでなければ代表だけが短期間で勇気を身につけることはできない。
Jリーグのレベルアップをしなければ、代表のレベルアップはない。サッカーファンも代表だけを応援するのはやめてほしい。
選手たちは、Jリーグの一つ一つの試合のディテイルにこだわってプレイの質を上げてほしい。
ファンはもっと選手にプレシャーを与える応戦をしてほしい。クラブ同士の競争ももっと激しく、緊迫感のあるダービーマッチも必要だ。お客さんのプレッシャーがサッカーのレベルを向上させるのです。
スタジアムを満員にしようではありませんか。
話しすぎました。
残念でしたが選手とスタッフには、ご苦労様、おめでとうと言いたい。
気持ちはよくわかります。私もここで座りながら戦っていました。
でも葬式ではない。もっと明るくなりましょう。
サッカーはまだまだ続くのですから。
明日の日本のサッカーが今日のサッカーより良くなることを期待します。
(2010年6月30日 きょうのオシムと世界標準『オシムの言葉「日本×パラグアイ」完全収録』より抜粋)

この続きは、「全国に情報発信する大マスコミ」にいながらにして「世の中の大勢に逆らって、信じる言論を貫くジャーナリスト」に任せることとしよう。
忠鉢っちゃんよろしく!