梅棹忠夫氏死去
日本の文化人類学の開拓者で文化勲章受章者、国立民族学博物館(民博)初代館長で顧問、民族学者、京都大名誉教授の梅棹忠夫氏が、老衰のため自宅で逝去した。
民族学、家庭論、情報産業論などへと学問の垣根を超え、それぞれの分野で第一級の業績を残した氏の最初の専攻は「動物学」。
大量のオタマジャクシを水槽で飼い、その動きを数理解析した論文で理学博士号を取得。
戦前、調査に訪れたモンゴルで家畜の群れを見て、どういう法則で動いているのかを考えたのがきっかけだったという。
そのユニークな着想は、比較文明学に文転した後にスケールの大きな「梅棹学」として結実する。
氏は、すぐ北を万里の長城が走り、中国とモンゴルという二つの文明が出合う大草原に馬やラクダで乗り出しながら、「遊牧の起源は動物の群れと人間の家族の共生にある」という仮説を見いだしていく。
1955年には、カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊の一員としてアフガニスタンなどを訪問。
イスラム文明とヒンズー文明に接したことによって生まれた「文明の生態史観序説」は、「戦後提出された最も重要な世界史モデルの一つ」と評されている。
日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している、一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。
- 作者: 梅棹忠夫
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おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族とのちがいであろうとおもう。
1974年、民族学会の悲願だった民博を設立。
1986年、突然の失明に襲われた際には「我が人生もこれで終わり」と観念したというが、その後も「フィールドワーカー」の姿勢を崩さず、月1冊のペースで新著を出版して周囲から「月刊うめさお」と驚かれた。
自らを「教育者でなくアジテーター」と評する氏は、後進の育成にも尽力する。
60年代から、人類学を志す若者らを自宅に集めて明け方まで議論する通称「梅棹サロン」を開いて、世界各地の探検や調査に送り出した。
哲学者・梅原猛氏によれば、氏が何かの都合で中座すると誰もまじめに話さなくなったという。
理由は、戻ってきた氏が思いがけない説を出して、会議の結論を一気に覆すことがわかっていたかららしい。
今年の4月まで、毎週木曜日にはスーツにネクタイ姿で民博に顔を出し、全国の研究者から送られてくる刊行物や論文を読む2人の秘書の声に熱心に耳を傾けていたという。
スーツにネクタイ姿というところに、「妻無用論」を唱えた後に「女にもてるエリート男の議論に過ぎない」と批判されたといわれる氏のダンディズムが垣間見える。
『余録:梅棹忠夫さん』
1960年代のことだ。亡くなった民族学者の梅棹忠夫さんは「ヨーロッパ探検」の学術調査費を文部省に申請した。だが「ヨーロッパは探検の対象ではなく、学びに行くところだ」と文部省はいう▲梅棹さんが「ならば、フランスのお百姓が、どんな家に住み、どんな服を着、どんな物を食べるか知っているのか」と聞くと誰も知らない。申請は認められた。「探検」は西欧文明による未開地域の一方的な博物誌作りだと多くの人が思いこんでいた時代のことである▲「私は人類最後の探検家だ」と梅棹さんは言っている。学生時代にまだ地図上で白紙だった大興安嶺探検に加わり、その後アジア、アフリカをはじめ南極を除く世界全大陸で調査・研究を重ね、気がつけば地球上から空白の土地が消失した21世紀を迎えていたからだ▲注目を浴びた「文明の生態史観序説」が生まれたのはアフガニスタンからインドを横断した調査行での米国人学者との議論からだった。西欧中心の進歩史観にがんじがらめとなった戦後日本人に、生態学の発想をもとに文明が並行発展する世界史像を示したのである▲「自分の足で歩き、自分の目で見、自分の頭で考える。それが学問です」。理系と文系の学問の境界も、人と人を分かつ文化や制度の溝も、あらゆる障壁を越えた探検で開かれたのは比較文明論をはじめ多くの知の扉だった▲梅棹さんは自伝で自分の「市民的平等感覚」は生まれ育った京都の町衆文化のおかげだと書いている。京の町家に発し、全世界を往還した知の探検は、諸民族の多彩な文化が等しく世界の豊かさを織りなす時代をはっきり見届けて終わった。
(2010年7月7日 毎日jp)
大陸の山脈、草原、砂漠と壮大なスケールの行動範囲をもっていた氏は、自らの人生をドイツ語で「トラウム(夢)とタート(行為)だった」と表現している。
「自分の足で歩き、自分の目で見、自分の頭で考える。それが学問」
彼方では、早速レヴィ=ストロース氏との議論を始めているに違いない。
ひょっとすると、一緒にインドネシアに行っているかもしれない。
合掌。