サイエンスと科学(その3)

moriyasu11232011-07-11

『川内選手と為末選手が初対面』
8月に韓国・大邱(テグ)で開幕する陸上の世界選手権に日本代表として出場する県職員の川内優輝選手と、世界陸上銅メダリストの為末大選手が3日、県立春日部高校(松田敏男校長、生徒数1092人)で初対面。互いにエールを送った。
同校は昨年度、文部科学省からSSH(スーパーサイエンスハイスクール)に指定され、この日は科学の視点から「スポーツパフォーマンスとサイエンス 文武両道の本質とは?」と題した特別講演会を実施。会場の体育館に全校生徒と保護者らが集まった。
壇上には、同校出身で日本体育協会スポーツ科学研究室主任研究員の森丘保典氏と為末選手が登壇。為末選手は400メートルハードルで47秒89の日本記録保持者。為末選手が出場した試合の走行タイムなどを数値化したグラフをスライドに映し出し、「勝つにはどうしたらいいのか」といったことなどを詳細に分析した。
為末選手は「成功体験はこびりついていて、いったん全部壊すことも大切」と大阪ガスを退社し、プロに転向した理由を語った。
最後にスペシャルゲストとして、同校定時制事務職員の川内選手が登場。拍手が沸き起こり、ぶっつけ本番の対談となり、陸上に懸ける互いの思いを語り合った。約2時間の講演会は、応援団のエールで締めくくられた。
(2011年6月4日 埼玉新聞webより抜粋)

更新に時を要したことについて反省しつつ前回の続き。
講演タイトルを「サイエンス→科学」に変更した理由について考えてみたい(新聞はそのままだけど…)。
「科学」という言葉を広辞苑で引くと、下記のように説明されている。

か‐がく【科学】クワ‥
(science(フランス)・(イギリス)・Wissenschaft(ドイツ))

  1. 体系的であり、経験的に実証可能な知識。物理学・化学・生物学などの自然科学が科学の典型であるとされるが、経済学・法学などの社会科学、心理学・言語学などの人間科学もある。
  2. 狭義では自然科学と同義。

広辞苑 第五版より抜粋)

古代ギリシアにおいてアリストテレスが構想した「(プロテー)フィロソフィア(φιλοσοφία)」は、単に抽象的原理(思想)を問うだけの今日的な「哲学」と異なることはもちろん、いわゆる「サイエンス(Science)」をも含んだ広範な射程をもつ学問全体を指すものであった。
しかしアリストテレス後の「フィロソフィア」は、世界の根本成立や、物や人間の存在理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える学問分野として、「高次な−」「−の後ろの」などの意味をもつ「メタ(meta-)」という接頭語をもった「メタフィジックス(形而上学)」に形を変え、文字通り「自然学(フィジックス)」の「後ろ(別)」に置かれることになる。
「自然学(フィジックス)」の流れをくむ「サイエンス(science)」という言葉は、18〜19世紀の科学革命を契機として、自然科学が哲学から分離した学問分野として立ち上がってきたときに欧州(イギリス)を中心に使われた言葉であり,以降はほぼ「自然科学」だけをさす言葉として使われてきた。
西周が考案したとされる「科學(科学)」という言葉は、もともと「専門的知識の体系全体」を指すドイツ語の「Wissenschaft」の訳語であるといわれており、その意味はアリストテレスの「フィロソフィア」や日本語で言う「学問」に近いと考えられるが、今日では欧米に倣って「自然科学(science)」だけを指す言葉として狭義に用いられるのが通例である。
文部科学省が推進する「スーパーサイエンスハイスクール(SSH)」という取り組みも、まさにその流れのなかにあるといって差し支えないだろう。
SSHの内容は、おそらくほとんどの高校において所謂「物化生地(+数学)」という理(数)系科目で構成されているはずである(全部みてないけど)。
したがって、母校のSSHに「体育(スポーツ科学)」が含まれていることは、いろいろな意味で特筆すべきことであるといえる。
さらに「体育(スポーツ科学)」が単に理数系科目プラスαという位置づけではなく、文系および理系科目と関連づけた学際的(総合的)アプローチに発展すればとっても素晴らしい。

「分析」とは、ある部分に焦点化するために、他の部分を無視する営みでもある。したがって、一面的・断片的な分析結果は、そのまま直接的にパフォーマンス向上に還元できるものではない。
その間には「不可逆的な関係性」が横たわっている。
しかし我々は、この「不可逆性」を理解しつつも、スポーツのトレーニングやコーチングに限らず、日常生活、仕事、恋愛…人間的な営みの全てにおいて「分析」することから逃れられないし、それが我々の「認識」のベースになっていることもまた事実である。
科学的な「分析」は、パフォーマンス全体をみていない(みようとしていない)という批判を耳にするが、そもそも「分析」とはそういうものである。
研究と現場の「ギャップ」は、あって当然なのである。
重要なことは、その間を架橋するために何が必要かということを問い続けることであり、それが選手個々の、ひいては一般理論としての「トレーニング原理・原則」構築への第一歩となるのである。
(2009年2月22日 拙稿「トップアスリートの育て方1」より抜粋)

400mHのレース分析は、ハードリングの巧拙、ハードル区間内での速度の増減などなど、様々なものを「無視」することによってレース全体の特徴を浮かび上がらせる「情報(データ)」を得る営みである。
したがってその「情報」の意味や価値は、それがどのような情報化プロセスによって生み出され、どのような解釈可能性を含んでおり、どのように役立てることが可能かなどについて十分に吟味されているかどうかによって決まる。
畢竟「情報」とは、「誰」が「どのように」用いるかによって、その有用性が異なるものなのである。

単純な脳、複雑な「私」

単純な脳、複雑な「私」

僕らの行動ってよく考えてみると、情報の「利用」と「収集」というふたつに集約されるよね。情報の利用というのは、たとえば「今まで使ってきたこのスロットマシーンが一番いいから、今回もこれを使う」というような、過去の情報を信頼して利用するということだね。一方、情報の収集というのは「もっとほかにいい台がないか」と、新たな情報を集めること。
このふたつの行動がシーソーのように交互に入れ替わる。
(by池谷祐二氏)

「木」を分析するためには近づいてじっくりと観察することが必要であり、「森」を分析するためには全体が見渡せるところまで離れて観察することも必要になる。
とりわけ「人間」が「身体」を用いて行う「スポーツ」を「科学」するためには、「木(部分)を見て森(全体)も見る」というフットワークが必須であり、そのようなプロセスによって錬磨された「身体知」でなければ、たとえ科学的で高級そうに見えるエビデンスであったとしても、ほとんど使い物にならない。

日本人の足を速くする (新潮新書)

日本人の足を速くする (新潮新書)

為末大 走りの極意

為末大 走りの極意

(本を出すきっかけは)一番大きな理由はオファーがあったからだが、以前から自分の頭の中を整理してみたいという欲求はあった。ただ書いている当時から、これは1年後の自分に否定されるだろうと思いながら書いているようなところがあった。いま自分が話していることも、1年後の自分から見れば陳腐なものに感じられるだろうし、それが前に進んでいるということでもある。足跡を残すということは、振り返ってみると恥ずかしいことでもあるが、頭を整理するという意味ではよい機会だったし、この時点ではベストの理論だったと思う。
(by為末大氏)

いずれも、拙稿を補完する情報&情報化プロセスがふんだんにちりばめられた「スポーツ科学の書」と呼ぶに相応しいものである。

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

江戸時代には、朱子学の後、陽明学が主流になった。陽明学というのは何かといえば、『知行合一』。すなわち、知ることと行うことが一致すべきだ、という考え方です。しかしこれは、『知ったことが出力されないと意味が無い』という意味だと思います。これが『文武両道』の本当の意味ではないか。文と武という別のものが並行していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がグルグル回らなくては意味が無い、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。
(by養老孟司氏)

「要素【還元】主義」から「要素【関連】主義」へと向かうためには、各要素の関連性(相互作用)を考慮しながらパフォーマンス向上の「原理・原則」に接近するためのリテラシーと情熱が必要である。

「心を鏡のごとく磨け。人は磨き切った己の鏡の心をよりどころとして行動せよ。知っていながら行わないということは、まだ知らないに等しい。(by王陽明)」
陽明学の神髄はここにある。
養老氏の「学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない」を一歩進めれば、「学んだことと行動とが互いに影響しあえばこそ、高いパフォーマンスに行き着くことができる」となるだろうか。
さらに言えば、「文武両道」の本来的な意味は、学んだこと(理論)と行動(実践)の間を架橋し続けようとするトップアスリートの生き様を見ていれば、容易に気づくことなのである。
無論、「理論」と「実践」の間に橋を架けるのは、そう簡単なことではない。
トップアスリートは、同時にその難しさをも、我々に気づかせてくれるのである。
(2009年4月10日 拙稿「文武両道の意味」より抜粋)

畢竟「文武両道」とは「理論(文)」と「実践(武)」の往復運動のことであり、西周はそのことを「科學」と名付けたのではないかと思われるのである(妄想)。
というあたりで第一部終了。
この後、ご自身の母校以上に我が母校の名前を全国にアピールしてくれた川内優輝氏がご登壇。
諸般の事情により、壇上にて初対面のぶっつけ本番となる(以下にやりとり概要)。

<両氏による相互質問>
為末氏:(川内氏に対して)一番大事にしている練習はなにか?
川内氏:これという練習があるというよりは、5日の練習と2日の休養の流れを崩さないことを重視している。
川内氏:(為末氏に対して)多岐にわたる活動をされているが、そういう発想はどこから生まれてくるのか?
為末氏:面白いこと、普通じゃないことが好き。川内さんもそうだが、かつて例がない。世界大会をみてもプロ選手ばかり。会社を立ち上げたのも、仕事のキャリアを持ちながら競技も続けていく普通じゃなさが面白いと思った。なかでも、陸上競技は一番面白いので今も続けている。
<与えられた条件(制約)での工夫について>
為末氏:ある「制限」のなかでどのように工夫すれば一番効率が上がるかを考え始めると、常識を疑わざるを得なくなる。長距離では「走り込み(走行距離)」が重要といわれるなかで、川内さんもそれを疑わざるを得なかったはず。そういう人を見ながら、何を考えているのか考えたりするのが面白い。
川内氏:仕事との両立である意味「制限」されているからこそ、限られた時間に集中できたり、走りたいという気持ちを強く持つこともできるが、常識を疑う必要も出てくる。例えば、長距離では1日に2回以上練習するのがスタンダードだが自分は1回しかできないし、高地トレーニングが当たり前というなかで「山ごもりトレーニング」などを行っている。陸上界で常識と思われていることに対しては、常に疑いの目をもっている。
<指導者不在について>
川内氏:昨年の夏までは大学時代のコーチとマンツーマンに近い感じでやっていたが、体調を崩したこともあって自分の中で「やりたい」という気持ちを大事にしようという思いが沸いてきた。自分ひとりでやるようになって、ますます陸上が愉しくなってきたし、今まで以上にいろいろと考えるようにもなった。
為末氏:「守・破・離」のような感じだと思う。生徒の皆さんも、恐らく10年くらい経つと、いま習っていることを否定するために考えるというような「殻」を破ろうとする瞬間というのが来ると思う。でも、殻がなければそれを破れないということもある。
川内氏:「面白くやりたい」というのが強い。(一人になって)何が変わったかといえば、「一人になって一人じゃなくなった」ということ。マンツーマンのコーチングから離れて、いろいろな人たちと一緒に切磋琢磨しながら走れるようになった。
<スポーツによる生活>
為末氏:ハードルのことを考えている感じと、会社や仕事のことを考えている感じにそれほど違いはない。これから10年くらいの間に、スポーツと仕事の垣根がどんどんなくなっていくのではないか。自分の場合は、全てがスポーツという感じ。いろんな事を学んだら、それを全部スポーツに突っ込んでしまえという感じ。
川内氏:「仕事」と「スポーツ」の間には明確な境界線があるが、陸上競技が生活の一部になっていることは事実。歯を磨いたり、風呂に入るのと同じような感じで走り続けていきたい。

一度成功した人間は「そのやり方」に固執したがるが、優れた選手やコーチは「そのやり方」に固執してはならないこと、すなわち「変化の仕方自体を変化させる」ことが重要であることに気付く。
「変化の仕方自体を変化させる」ことは、自身の身体システムの「構築」と「解体」という「矛盾」に引き裂かれながら鍛錬(再構築)し続けることにほかならない。
最後に、お二人から『「意義ある高校生活とは何か」を自問自答しながら日々を過ごし、学問と部活動に取り組んでいる(by春高ホームページ)』生徒諸君へのメッセージを頂戴する。

川内氏:学生時代は「勉強と陸上」、社会人になってからは「仕事と陸上」の狭間で自問自答しながら生活する日々だが、どちらかに偏らず両立させていくためには自分にあったスタイルの確立が求められる。常識というのは多くの人に合ったスタイルともいえるが、人間には個性があって全ての人に当てはまる答えはない。限られた時間で両立させていく「文武両道」に向けて、自分自身で考えながら発見していく必要がある。
為末氏:人間は何かの「制約」があるときにこそクリエイティビティーが発揮される。もし大学入試が小論文だけになったら、今とは全く異なる勉強をしなければならなくなるだろう。ルールのもとで行動が選択されていくが、そのルールを誰かが決めていて、そのルールにどんな影響を受けているかについて常に「問う(考える)」ことが大切だと思う。「問う」ことと「逆らう」ことは違う。競技人生で大事だったものは「大いなる勘違い」。「世界一になるぞ」というのも「勘違い」だが、「勘違い」は人に迷惑をかけない。大きな勘違いをして、どんどんそれに向かっていって欲しい。

お二人のコメントの後、『春高生にとって「文武両道」は目指すものではなく、日常そのものである。(by春高ホームページ)』という言葉をもって講演を締める。
若干の質疑応答の後、母校の応援指導部が満を持して登場。
為末、川内両氏に向けて応援歌斉唱とエールが切られる。

『第一応援歌「秩父の嶺」』
1.秩父の嶺を西に見て 利根川の歌きくところ
  八木崎原頭鉄腕うなる アポロに似たり我が選手
2.マースの盾と矛持ちて 立てる男の子を君見ずや
  若き血潮に心は躍る 見よローレルは輝きぬ
春日部高校応援指導部公式Web「校歌・応援歌」より抜粋)

「マースの盾と矛持ちて…(by秩父の嶺)」
「矛盾」という言葉の意味は、「辻褄が合わない」だけではない。
「あらゆる盾を貫く矛」と「あらゆる矛を跳ね返す盾」が同時に存在すれば「辻褄があわない」が、そこに「時間」を挿入すれば「矛盾」という言葉がパフォーマンス向上の原理として浮かび上がってくる。
「あらゆる盾を貫く矛」の存在を知った以上は、「あらゆる矛を跳ね返す盾」づくりの欲望から逃れられないのが武具職人の本分である。
優れた「矛」の存在無くして、優れた「盾」の存在はあり得ない。
「文武両道」の本質とは、私たちを取り巻く様々な「矛盾」に耐えることによってのみ「パフォーマンス」が向上するということにある。
そして「文武両道」が多くの学校で校訓とされる所以には、何故に学校教育のなかに「勉強(学問)」と「課外(部)活動」が共に重要なものとして位置づけられてきたのかという学校制度の人類学的意味も包含されているのである。
母校の生徒達が、学校という「想像の共同体」に親しみ、安らぎと癒し、そして生きる知恵と力を得んことを祈念する。