サイエンスと科学(その2)

moriyasu11232011-06-27

前回からのつづき。
為末大氏が400mHを専門種目にすることを決意してから3年後の99年、山崎一彦氏が一度は苅部俊二氏に譲った日本記録を再び取り戻す。
この年5月の静岡国際では、記録こそ48秒台後半(48.96秒)であったが、レース中盤の速度低下はかなり抑えられていた。
そしてその5日後の大阪グランプリで、48.26秒の日本新記録をマークする(動画はコチラ)。
この2つのレースでは、5台目ハードルを21.2秒前後のハイペースで通過しながらも、48秒台を連発していた95年に12.9秒程度を要していた中盤(H5-8)の区間時間が12.5〜12.6秒まで短縮されており、我々が47秒台の条件の一つと考えていた前半から中盤の速度低下率(5%以下)もしっかりとクリアされていた。
50秒以内で終了する競技において、その1/4程度の距離に要する時間が0.3秒以上も短縮されることは、レース全体が「別もの」に変化したといっても過言ではない。
このとき、47秒台に向けて準備が整ったことを確信し、改めて山崎氏に47秒台に向けたモデルパターンを提示する。
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その大阪グランプリのレースに、茶髪&ピアスの為末氏が登場。
会場のザワザワ感を察知した為末氏が、『この頃のボクは悪い子だった(笑)。小指が入るくらい大きな穴のピアスをつけていて、よく審判から「走る前に外しなさい」と言われていた。』と補足。
97〜99年の3年間は、斎藤嘉彦氏、苅部氏、そして山崎氏のいわゆる「ビッグ3」を中心に日本の400mHのレベルがさらに上がっていく時期になるが、それは為末氏の「コーチをつけない選択とスランプ(大学1〜3年)」の時期に重なる。

(コーチをつけないことについて)中学の時から「本当にそうなのか?」と思うことが多く、高校以降はその思いがいっそう強化された。教科書と呼ばれるような理論に対して疑問があり、それを自分自身で検証して、自分の教科書を作ってやろうと思っていた。「実験〜検証〜仮説〜実験」という科学研究のようなプロセスを、自分なりに辿ってみたいというのが一番大きかった。
実際、ひとりで練習を始めてみると思ったよりも上手くいかず、実力が落ちていることに対する焦りも感じていた。世の中に評価してもらいたい自分と、成績を出すことができない自分との間で葛藤し、悶々としていたのが大学前半。トレーニングでも、例えば「走り込み」なども本当に効果が挙がるのか?という疑問をもっていたが、実際には500m×20本など「量」のトレーニングに軸足を置いていた時期でもある。朝7時にグラウンドに行って、夜の9時まで走っていたこともある。そういうトレーニングで足が速くなると思っていたが、実際にはまったく速くならなかった。
(茶髪&ピアスについて)人間は注目されたい生き物。自分という存在を丸ごと受け止めてもらいたいと思っても、大人になるにつれて周囲に母親のような存在はいなくなってくる。世の中から注目されたくて派手に振る舞う子どもがいるが、自分はその典型。そうしていないと自分のアイデンティティを保てない気がしていた。自分のイメージするパフォーマンスと実際の成績とのギャップが大きくて、消えそうな自分と注目されたい自分との狭間で揺れ動きながら、もがき苦しんでいた時期である。
(by為末氏)

山崎氏と為末氏の歩数配分(5台目まで13歩、7台目まで14歩、10台目まで15歩)は全く同じであるが、この「スランプ」時期の為末氏のレースパターンは、歩数切り替え(5台目)以降、すなわちレース中盤の速度低下が大きいという95〜96年頃の山崎氏のそれと酷似していた。
為末氏は恐らく、山崎氏が世界大会や海外レースで初めて体験したギャップと同じものを、国内のレースで山崎氏らと同走することによって感じていたと思われる。
この99年以降、少しずつスランプ脱出のきっかけをつかんでいくが、いくつかのきっかけのひとつに日本陸連の合同合宿があったという。

選手がよくはまるスランプに「なりたいもの」と「なれるもの」の混同によるものがある。18歳のときに初めてカール・ルイスに会ったが、とにかくルイスみたいになりたかった。自分とは体型も大きく異なる選手にあこがれて、マネしてみたくなって、その選手の動きやトレーニングにはまってスランプに陥ることは少なくない。
それではダメだと思い始めて、そこから自分の特徴、例えば背が低い、手足はそこそこ長い、理屈っぽい…などなどいろいろなものを挙げてみて、自分に一番よく似ていたのが山崎さんだった。98〜99年あたりの陸連合宿では、山崎さんのストーカーと化していた。(具体的には)ウォームアップからトレーニングまで、とにかく何をしているかをつぶさに観察し、特に「ハードル」というものをどのように捉えているかに注目していた。ライバルだから教えてはもらえないので、とにかく盗もうとしていた。
一番参考にしたのはレースパターン。当時「中盤を上げれば速くなる」という原則にはみんな気づいていたが、どうやってその中盤を上げるのか。持久力を高めるのか、スピードを高めるのか、テクニックなのか…様々な答えが想定できるが、山崎さんが出していそうな「答え」を観察によってひねり出そうとしていた。山崎さんは恐らく「テクニック」だと思っていて、もちろん走力に裏打ちされたテクニックなのだが、それを盗もうと意識していたのを覚えている。
山崎さんより短期間で中盤の走りを修正できたのは、身近にお手本があったからだと思う。最初にブレイクスルーするのは難しいが、「方法」さえ見つかればあとはマネをすればいいだけ。モノづくりなどの技術も、そうやって革新されていく。
(by為末氏)

レースパターンを参照する限り、中盤の走りの改善に約4年もの歳月を要した山崎氏に対して、為末氏はおおよそ2年でその「テクニック」をモノにしていく。
そして、満を持して挑んだシドニー五輪の予選では、8台目まで先頭を快走していたものの、強風に煽られ9台目のハードルを引っかけて転倒する。

オリンピックは一度出ると大変。地元には講演会ができ、「○○君を送る会」も頻繁に開かれ、それが500人規模にまでなっていく。親類縁者も多数見守る中での大転倒だったので「申し訳ない」という思いでいっぱいだった。4年間もかけてきて60秒で終わってしまうのかとしばし放心状態に陥ったが、よくよく考えてみれば失敗には理由がある。その理由のひとつを「経験不足」と考えて、翌年(01年)にヨーロッパを転戦する。この年は全てのことが順調に運んだ。本格的にグランプリ(賞金レース)を転戦し始めた年だったが、世界ランキング10位以内の選手達を相手に3〜5位が続いていた。もしかしたら世界はそれほど遠くないのではないかと思い始め、少しずつ自信もついてきた。
(トレーニングについて)この時期までは、まだトレーニングすれば足が速くなる(スプリント能力が高まる)と感じていたと思う。レースパターンをイメージして、それを身体に染み込ませるトレーニングをやって、それを試合で試すということを繰り返していた時期といえる。
(by為末氏)

そして五輪転倒から1年後、為末氏はエドモントン世界陸上で見事に銅メダルを獲得する。
「レースのみどころは、二つ目(第3)のコーナー(by為末氏)」というコメントの後に、決勝レースの動画を再生する。
見終わったあと、会場から思わず拍手が沸き起こる。
この拍手は、そこに至るまでの「物語(ナラティブ)」を会場全体で共有していたが故に起こったものといっても差し支えないだろう。
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エドモントンのレースパターンは、速度曲線というよりは「美しい直線」と呼ぶにふさわしいものである(冒頭グラフ参照)。
実はこの「直線」は、山崎氏に提示した「47.9秒」のモデルレースパターンとほぼ重なるものであり、タイム職人として、山崎氏から為末氏にその「meme」が受け継がれたと確信した瞬間でもあった。
しかしこの銅メダル以降、為末氏は「どん底からの再チャレンジ(02〜05年)」を強いられることになる。
02年に大阪ガスに入社した為末氏は、シーズン終了後の冬季トレーニングの拠点としてアメリカ(サンフランシスコ)を選択する。

海外(アメリカ)を選んだのは、他の国にどんな「meme」があるのかをナマで見てみたかったから。
日本人の場合、全体の調和を優先し、ある部位に支障があれば、それはどこかとの関係で起こっているのではないかと考える。腕が痛い原因は、膝の動きが悪いからとか、走り方そのものに原因があるのではないかとか、関係性を見ていくのが日本人の特徴だと思う。
逆にアメリカ人は、「いろいろなものを区切って考える」という特徴がある。例えばどこか具合が悪ければすぐにそこを手術するのと同様に、ウエイトトレーニングなどでも「部分」をしっかり鍛えて後で足し合わせればよいと考える。アメリカの選手は「練習量は少ないがスピードは速い」というイメージを持っていたが、それを肌で感じてもみたかった。
(by為末氏)

翌年(03年)の日本選手権に優勝してパリ世界陸上代表にも選ばれるが、結果は準決勝敗退。

完成されたレースパターンをどう進化させたらよいのかが分からなかった。完成された絵には、筆を付け足さない方がよい。この時期は『壊す』こと、完成された絵を切り裂いて、もう一度真っ白なキャンバスに絵を描くにはどうしたらよいかを模索していた。成功したときの絵が忘れられずに、もう一度それを描こうとしている自分もいた。その絵を浮かんでは消し、浮かんでは消しているうちにハードルまで乱れてきてパフォーマンス(成績)も低下していく。
当時26〜27歳で「そろそろ終わりかな…そこそこ知名度も上がったので別の道で生きていこうかな…」と考えたこともあった。でも、高校の時と同様に「これで終わっていいのか?」という思いも捨てきれず、もう一度チャレンジするには自分の人生そのものをデザインし直さなければならないと思い始め、大阪ガスを辞めてプロになろうと決意する。
大阪ガスはとてもいい会社(たぶん潰れないし)。成績も問わないから思う存分に競技をやっていいといわれたが、そうなると世界で何番になるかよりも何回日本一になるかを考えるようになる。自分が弱いということもあるが、そういう状況に耐えきれなくなった。失敗してもいいから、もう一度世界で何番になるかに拘りたいと。サドンデスのような状況に身を置かないと世界では戦えないという思いもあったし、そうしないと世界と戦うモチベーションが沸いてこないとも感じていた。
自分は、何ごとも論点を絞っていって「つまり…」と考える癖がある。400mHで勝つには、つまり「前半を速く入ってそのスピードを殺さないようにする」ことさえ実現できれば、自分の最高のパフォーマンスを発揮できる。つまり「足が速ければハードルはおまけである」というコンセプトで、「ハードル」練習を減らして「足が速くなる」トレーニングに傾注していく時期でもある。
(by為末氏)

この「どん底からの再チャレンジ」は、紆余曲折ありながらも少しずつ実を結び始め、04年のアテネ五輪では全体の10番目の記録(48.46秒)で惜しくも決勝進出を逃すが、翌05年のヘルシンキ世界陸上では3組2着プラス2のプラス2番目、すなわち8番目ギリギリ(記録的には6番目)での決勝進出を果たす。

準決勝までの走りをみれば、普通はメダルを考えないが、ファイナリストには若い選手が多く、彼らの心理は痛いほどよく分かった。シドニー五輪(22歳)でパニックになって転倒した経験もあり、経験がないことの怖さもよく分かっていた。当時は27歳だったが、自分より若い選手はほとんどいなかった。選手はおおかたビビっていて、天候不順の中でのレベルの高いレース経験も少ないはず。そこにつけいる隙があるだろうと思った。
悪天候のためサブトラックも使えず、携帯電話も繋がらない地下通路でしかアップができない状態だった。競技進行の情報を得ることもままならず、時々やって来るスタッフからの情報も二転三転して、若い選手達はイライラしているように見えた。自分がやるべき事をしっかりやれば、周りは自滅するのではないかと思い始めた。
(by為末氏)

果たして結果は、見事2度目の銅メダル獲得(動画はコチラ)。
驚くべきことに、豪雨&強風という悪コンディションのなか、47秒台をマークしたエドモントン世界陸上よりもさらに速い入りをしている(冒頭グラフ参照)。

ハードルがあってトラックを1周する競技は、後半に力尽きて転倒することなどに対する恐怖感もあるため、なかなか行けるところまで飛ばしてしまえとは思えない。特に天候が悪いときなどは、本当に止まってしまうかも…という怖さもあって保守的に考えがちである。そういうときに選手が一番やって欲しくないのは、なりふり構わず先行されること。「それなりにゴールしようよ」という空気があるときに、その空気を読まない選手がいるのはとてもイヤなこと。
(メダルを取るとは)その日のその瞬間に3番以内でフィニッシュするということ。陸上競技では、対人競技のように「自分が勝つ=相手が負ける」という発想にはなりにくいが、このときばかりは「3番に入る」ことよりも「5人を自分より後ろで走らせる」ことを考えていた。他の選手達が、7レーンにいる自分にいちばんやって欲しくないことは何か、一番困るレースはどんなものか。もちろんの自分の力を出し切ることが最重要ではあるが、普段とは違うことを考えて実行した結果が、恐らくエドモントンより僅かに早いスタートから2台目までのデータにも表れている。

このときの「48.10秒」という記録は、銅メダリストの記録として、他の世界陸上と比べても全く遜色のないレベルであることを付記する。

人間の身体のような「なまもの」は「正しい治療」をすればさくさくと治癒するというものではない。
「正しくない治療」をしても、治療者が確信をもって行い、患者がその効果を信じていれば、身体的不調が治癒することがある。
新薬の認可がなかなか下りないのは、「画期的な新薬」を投与したグループと「これは画期的な新薬です」と言って「偽薬(プラシーボ)」を投与したグループのどちらの患者も治ってしまうので、薬効のエビデンスが得られないからである。(…)
「なまもの」相手のときは、マニュアルもガイドラインもない。
「なまもの相手」というのは、要するに「こういう場合にはこうすればいいという先行事例がない」ということだからである。
どうしていいかわからない。
どうしていいかわからないときにでも、「とりあえず『これ』をしてみよう」とふっと思いつく人がいる。(…)
現場にとどまり続けるためには「わからないはずなのだが、なんか、わかる」という特殊な能力が必要である。
(2011年1月20日 内田樹氏ブログ「特殊な能力について」より抜粋)

無味乾燥な「情報(データ)」も、その背景にある「情報化プロセス」を知ると、その見え方(意味)が大きく変わってくる。
実はそこにこそ「人間」という「なまもの」が行う「スポーツ」を「科学(≠サイエンス)」することの本質があると思われるのである。
またもやつづく