サイエンスと科学(その1)

moriyasu11232011-06-22

『川内選手と為末選手が初対面』
8月に韓国・大邱(テグ)で開幕する陸上の世界選手権に日本代表として出場する県職員の川内優輝選手と、世界陸上銅メダリストの為末大選手が3日、県立春日部高校(松田敏男校長、生徒数1092人)で初対面。互いにエールを送った。
同校は昨年度、文部科学省からSSH(スーパーサイエンスハイスクール)に指定され、この日は科学の視点から「スポーツパフォーマンスとサイエンス 文武両道の本質とは?」と題した特別講演会を実施。会場の体育館に全校生徒と保護者らが集まった。
壇上には、同校出身で日本体育協会スポーツ科学研究室主任研究員の森丘保典氏と為末選手が登壇。為末選手は400メートルハードルで47秒89の日本記録保持者。為末選手が出場した試合の走行タイムなどを数値化したグラフをスライドに映し出し、「勝つにはどうしたらいいのか」といったことなどを詳細に分析した。
為末選手は「成功体験はこびりついていて、いったん全部壊すことも大切」と大阪ガスを退社し、プロに転向した理由を語った。
最後にスペシャルゲストとして、同校定時制事務職員の川内選手が登場。拍手が沸き起こり、ぶっつけ本番の対談となり、陸上に懸ける互いの思いを語り合った。約2時間の講演会は、応援団のエールで締めくくられた。
(2011年6月4日 埼玉新聞webより抜粋)

随分と日がたってしまったが、母校でのイベントが紹介された記事を再掲しつつ、その内容について振り返ってみたい(動画はコチラ)。
講演の冒頭、「サイエンス→科学」にタイトルを変更することと、「パフォーマンス」には「記録などの数量的なもの」だけでなく「(質的な)できばえ」という意味を含んでいることについて確認しつつ、為末氏に所属チーム名「a-meme」の意味を問う。

リチャード・ドーキンス氏の著書「利己的な遺伝子」で述べられている考え方。なぜ人は生誕後に変容していくのかを考えるとき、生得的に持っている「生物学的遺伝子(gene)」だけでなく、世の中から受ける影響としての「文化的遺伝子(meme)」の存在を想定せざるを得ない。
「gene」は子ども以外には伝わらないが、「meme」は他人にも伝えられる。様々な文化が、時代に応じて様々な影響を受けながら発展または衰退していくが、「meme」とは何なのだろうかについて考えてみたいという思いから、新しいチームの名前をアスリートの「a」と「meme」を合わせて「a-meme」とした。
(by為末氏)

その後、日本男子400mハードル(400mH)の「meme」について、山崎一彦氏と為末氏のレース分析データを援用しつつ検証していく。

日本の400mHは、78年に長尾隆史氏が49秒台に突入して以来、93年の斉藤嘉彦氏と苅部俊二氏による48秒台突入、95年世界陸上イエテボリ大会での山崎一彦氏の決勝進出(7位)、そして為末大選手の01年世界陸上エドモントン大会(47.89秒の日本記録)および05年世界陸上ヘルシンキ大会銅メダルなどをエポックメーキングとしながらパフォーマンスを向上させてきた。
第1回の世界陸上が開催された87年から06年までの20年間にわたる世界10傑平均を概観すると、88年の47.86±0.53秒を最高値として、現在まで47秒台後半から48秒1〜3台を推移している。一方、日本10傑平均は、87年が50.61±0.69秒と世界から約3秒もの差を付けられていたものの、93年には50秒を切り(49.91±0.88秒)、05年には49.20±0.73秒(世界平均との差は1.39秒)まで短縮するなど、着実に世界との差を縮めているとみることができる。
(2008年5月8日 拙稿「締め切り迫る…」より抜粋)

日本人が初めて48秒台に突入した93年は、日本と世界の10傑平均の差も初めて2秒を切るなど、世界大会での決勝進出が現実味を帯びてきた年であり、以降は世界と戦える種目として位置づけられてきた。
当時、大学院生だった私は、現日本陸連科学委員長であるボスの指令のもと、このレースを分析して陸上競技マガジンに寄稿することになるが、自分の分析したデータと書いた文章が初めて書店に並んだ感慨は未だに忘れられない(初心忘るべからずだぞオレ)。
為末氏にこのレースの記憶を問うと『雑誌で読んだ記憶はあるが、当時は100mと200mを中心に取り組んでいたためレース自体の記憶はあまりない。(男子400mHが)日本のなかでレベルの高い種目であるという印象はもっていたが、自分がやるとは思っていなかった』とのこと。
当時中学3年だった為末氏は、自分でも「向かうところ敵なしの中学時代」と振り返るように、日本陸上界を席捲していた。
なにしろ100m、200m、400m、110mハードル、三種競技AとB、さらには走幅跳でも中学ランキング1位だったというから、その表現も大げさなものではない(会場からも「すげ〜」という感嘆の声)。
ちなみに200mの21.36秒は、昨年まで17年間破られなかった日本中学記録であり、母校の後輩で大阪インターハイの100mに優勝、200mで4位入賞した後藤乃毅選手(現大阪ガス)の記録(21.32秒)とほとんど変わらない。

(自分のポテンシャルについて)なんでもできると思っていた。中3のとき、どの種目で(全日本中学選手権に)優勝できるかと考えたら10種目くらい挙げられた。身体のポテンシャルはかなり高かったと思う。現在、身長170cm、体重66kgくらいだが、当時とほとんど変わっていない。一言でいえば「早熟型」で、体格という意味ではこの時期にほぼ完成していたといえる。それが他の選手に比べて図抜けていて、何をやっても勝てた理由だったと思う。
(指導者との関係について)基本的にわがままで、高校以降はあまり人の話を聞かなくなるので、指導者の方針に従っていた最後の時期といえる。ただし、言われていることに対しては、常に疑いの目を向けてもいた。トレーニング方法や走り方についても、本当にそうなのか?と常に考えながら、先生にも問いを持って接していた。先生も「答えを出す」というよりは「考えさせる」「投げかける」という接し方をされていたように思う。
後で分かったことだが、先生が当時つけていたノートの最後に「10年後、400mハードル」と書いてあるのをみて驚いた。そういうビジョンを持って接してくれていたし、幸運な出会いであったことは間違いない。
(by為末氏)

この「日本人初48秒台達成」や「ウルトラ中学生登場」の舞台裏で、虎視眈々と世界の扉をこじ開けようとしていたのがほかならぬ山崎氏である。

(山崎氏の)93年は、春先に大腿部の肉離れを起こし、日本選手権が初レースとなる(5位)。このレースで、斎藤、苅部両氏が、日本人初の48秒台をマークする。結果的に、世界陸上の選考からは漏れるが、秋には自己ベスト記録(49.08秒)をマークする。
94年は、シーズンベスト記録(49.29秒)も前年を下回るなど、『スランプの年』という位置づけとなる。具体的には、『走り方のポイントがよく分からずにバラバラ(…)インターバルで力を出そうと思っても空回りする』感覚だったという。
この時期、国内3番手から脱出したいという思いが強まり(91〜94年の日本ランキングは3位)、トレーニング科学の知見や単身での海外転戦などを取り入れつつ、自身のトレーニングを体系化する試みも開始するなど、パフォーマンス向上に向けて強く動機づけられるようになる。また、レースパターンは、いわゆる「前半型」であったが、終盤での逆転負けが続いていたことから、レース前半の速度を抑えて後半に備えるべきであるという声も少なからず聞こえていたようである。しかし、「前半から優位に立たないと後半固くなってしまう」「世界のハイペースのレース展開に乗れないと好記録は出せない」「前半型の方がエネルギー消費の効率がよい」といった信念によって「前半型」にこだわり続ける。
(拙稿「陸上競技男子400mハードル走における最適レースパターンの創発:一流ハードラーの実践知に関する量的および質的アプローチ」トレーニング科学 第20巻3号より抜粋)

山崎氏とは、イエテボリ世界陸上のファイナリストに輝いた翌年(96年)のアトランタ五輪前に初めて対面し、95年の日本記録レース(動画はコチラ)を含む過去のレースパターンデータをフィードバックしている。
その要点は、91〜93年時に比べて、レース全体にわたる走速度に大幅な向上がみられるが、歩数切り替えにおける速度低下が大きく、それがレース中盤の速度低下に影響していることであった。

(山崎氏は)歩数切り替え時の減速については、『外国人と接近して走れるようになって、(…)レース中盤の歩数を切り換えるところ(H5-6)で相手に差をつけられる』ことは実感していたものの、この区間で『力を抜く事を(身体が)覚えてしまっていた』し、『歩数も増えるし、ちょうど200mくらい(H5-6は185〜220m地点)でひと休み』するのは、ある程度やむを得ないと考えていた。
(前掲拙稿より抜粋)

当時の私の関心は、速い選手たちのなかで「走り方(ペース配分)」に差があるのかということにあった。
50秒以内の一流選手に絞ってレースパターンの傾向を分析してみると、レース中盤(H5-8)のペースが相対的にも速い傾向にあった(それらをまとめて13ヶ月もの査読期間をへてめでたく「研究資料」にされた歴史的?論文)。
実際のレースにおける主観的感覚と速度曲線という形で可視化された自身のレースパターンを摺り合わせること、そしてそれを一流選手の全体傾向や世界トップ選手達と比較することによって、レース中盤の走りの改善が明確な課題として意識されていく。
そして我々は「レース中盤で必要以上に速度を低下させることにメリットはない。中盤で休まないというリスクを負ってもトータルで記録は縮まる」という仮説を立てて、「上げた速度を維持する部分を増やして、レースパターンの効率化をおこなう(速度が直線的に《きれいに落ちていく》イメージを目指す)」という課題を設定する。
この頃の為末氏は、高校1年〜2年時に肉離れなどのケガに見舞われたものの、高3時にはインターハイおよび日本ジュニア選手権で優勝(400m)、世界ジュニア選手権で4位(400m)、地元広島国体では400m(45.94秒)と400mH(49.09秒)の二種目に優勝(いずれも日本ジュニア新記録)。
特に400mHの49.09秒は、今年の世界陸上参加標準Aを優に突破する世界レベルの記録である。
しかし、我々からみると「超中学級から超高校級」へと順調に伸びてきたという印象をもつこの時期のことを、当のご本人は「焦燥感にとらわれ続けた高校時代(94〜96年)」と称している。

一言でいうと「こんなはずじゃなかった」という高校時代。それまでは「このまま行ったら五輪で(スプリント種目の)金メダルも夢ではない」と思っていたが、ちょっと厳しいかなと思い始めた時期だった。身体的な成長も見込めず、才能のある後輩も入部してきて、今まで相手にしなかった選手達にも抜かれるかもしれないという思いもあった。周囲は優勝したりタイトルを獲っていればOKと思うが、自分の中では「誰が本当にすごい選手か」は分かっていて(100mでは)将来勝てないだろうと思う選手も出てきていた。
世界ジュニア選手権では、400mで4位に入ったものの先頭から大きく離された。優勝したアメリカの選手が、高校を卒業したらアメリカンフットボールをやると聞いて愕然とした。ただ400mHをみたときに、漠然と「この種目なら勝てる」と思った。ピストルが鳴って、一番最初にフィニッシュした者が勝つのが陸上競技。その時点で、100mを先頭でフィニッシュするイメージは沸かなかったが、ハードルが10台あってトラックを1周走らなければならない400mHなら勝てそうな気がした。そのときに、「勝つとはどういうことか?」「自分は何のために生きているのか?」を考えて、最も「勝つ」可能性のある種目(400mH)をやろうと決意し、実際に走ったのが広島国体だった。
振り返ってみると、「何者かになりたい」という思いと「自分には才能がない」という思いが交錯し揺れ動いていた時期だったと思う。どんなに夢を持っていても「なれないもの」がある。ほとんどの人はそうやって自分なりの道を見いだしていく。このままで終わりたくないという思いと、自分の身体と頭が何に向いているのかを考えて見つけ出した答えが「ハードル」だった。
(by為末氏)

この翌年から、二人のハードラーは同じ土俵(トラック)で勝負することになる。
ということで、つづく…