大学体育会の危機!?

moriyasu11232009-08-10

1ヶ月以上前になるが、社会学者の小笠原博毅氏(神戸大学)が、毎日新聞に下記のコラムを寄せている。

『相次ぐ「体育会」事件 背後に大学の危機』
(…)京都教育大と近大の体育会学生による「集団準強姦事件」と「強盗事件」に関しては、報道の歯切れは悪かった。なぜなら、京教大の件は、結局何が起こったのか、本当は誰が罪を償うべきなのか、当事者、大学、捜査当局はどこまで何を知っているのかが、よくわからないからだ。
「もっと怒りを、驚きを」という「(大阪本社)紙面研究会」のコラム「交差点」(6月17日朝刊)による、この事件の一報が他紙に比べて「内容も薄い」という指摘はその通りである。その後の短い続報を挟み、容疑者全員の起訴猶予処分が報道されたのが1週間後の6月23日。事件の性格上、被害者への「配慮」は当然だ。しかし、加害容疑者たちやその家族の人生をも狂わせたこの「事件」が、司法制裁が与えられる以前に「示談」で幕を閉じたのは、停学や就職取り消しという社会的制裁が法よりも重視されたということではないだろうか。
ジャーナリズムには、「怒りや驚き」を抱きつつも、それをあからさまにする前に、冷徹で苦々しい現場検証の使命を果たして欲しい。紙面研究会では停学中の息子に学童指導員の仕事を勧めた父親を実名にするか匿名にするかの議論が行われたというが、その前に、不起訴処分になった6人のその後は? メディアの前でうろたえ続けた大学当局のその後は?
「その後」といえば、「近大ボクシング部廃部」(6月18日夕刊)。元部員達はその後どうやってボクシングを続けているのだろう? 事件報道からたった1日で容疑者2人の無期停学と廃部が決定。この迅速さはどのように可能であったのだろう? 歴史ある名門であるが故に責任は重いということか? 京教大の元容疑者達が所属していた部は廃部されていないはずだ。廃部によって何が変わって何が変わらないのだろう? 京教大の件とともに、「その後」の精密な取材を期待したい。
確かに、ここ数年の「学生スポーツ界の不祥事」は止まらないように見える(6月19日朝刊「問われる選手の育成」。同記事のように、勝利至上主義の悪影響や学生の倫理観の低下を指摘することはできる。しかし、なぜいつも体育会なのか? 天文部員が天体望遠鏡でのぞき見をして逮捕されたら、天文部は廃部になるだろうか? 考える前にすぐに答えを求めることを「学習」だと勘違いし、他者との距離の取り方を知らず自分勝手に振る舞うことを「自由」だと勘違いしているのは、体育会学生だけではない。(…)
性急に見える連帯責任措置や毅然とした危機管理力の欠如は、結局体育会が大学の「評判」の広告塔にすぎなくなっているという現実を露呈したのである。大学をそこまで追い詰めている力がある。決して体育会だけの問題ではなく、大学自体が置かれている状況を冷静に判断すべしという警句として、一連の「事件」を再検証する必要はないだろうか?
(2009年7月6日 毎日新聞「新聞時評」より抜粋)

「大学スポーツ」や「連帯責任」に関する私見の一部は既述しているが、日体大大麻事件については、今日までに様々な立場の関係者から報道で公にされていない情報を得ており、それによって認識を新たにしたところも少なからずある。
また、小笠原氏の「体育会が大学の「評判」の広告塔にすぎなくなっているという現実を露呈した」という指摘については一部賛同するが、いずれも「大学スポーツ」や「連帯責任」問題の「本質」に迫る「答え」になり得てはいないと感じる。
京教大の事件については、関係者があまりにも身近な存在であったことからコメントを避けてきたが、事情を聞けば聞くほどメディアの「恣意性」とそれに引きずられる「大衆(世論)」のパワーの大きさを再認識せざるを得ない。
これは、「甲子園が割れた日」の読後に感じた「気味の悪さ」を大幅に上回るものである。
無論、いずれの情報もある種の「恣意性(バイアス)」を孕んでおり、一つの「事実」も眺める立場や関心が異なれば、その見え方や解釈も異なるということは肝に銘じておくべきであろう。
しかし、実はそのことが一連の事件の背後にある「ほんとうのモンダイ」になり得るのではないかとさえ思われるのである。
大衆意識を測るツールの一つに「世論調査」がある。
この調査は、戦後すぐに新聞社によって始められたとされているが、当初は現在のような単なる「大衆の気分」を意味する「(popular sentimentとしての)世論」を吸い上げるものではなく、「(public opinionとしての)輿論」を知るための手段と考えられていたようである。
すなわちメディアの側に、「世論」に惑わされず「輿論」を聞けという意識が共有されており、その「輿論」に基づいた見識を示すという役割もはっきりと認識されていたと考えられる。
しかし、今や「輿論」は「世論」に取って代わられ、メディアがそのコントロールに一役買う時代となっている。
その結果、衆愚政治を回避するための間接民主主義という「代議制」本来の意味と機能は失われ、たとえ長期的には重要であっても短期的に不人気になるような政策の実行が困難になり、いわば大衆の俗情に媚びた決定を繰り返すという直接民主制的なポピュリズム政治に成り下がっている。
学生が起こした事件の発覚後、メディアと大衆によるバッシングに恐々とし、厳罰処分をもって事態を収拾しようする大学当局の対応も、この構造に酷似している。
「教育」を標榜する「大学」という名の自治組織ですら、メディアにコントロールされた世論のパワーには抗えないということか。
想像に難くないが、事件が報道された直後から(現在まで)、「なぜ(加害容疑者とされた)学生達を退学処分にしないのか」という苦情が、大学側に殺到した(している)そうである。
しかし、容疑はあくまでも容疑であり、起訴以前に学生を処分するのは、それこそ人権侵害にあたる行為である。
小笠原氏も述べているように、被害者への「配慮」は当然である。しかし、加害容疑者とされた学生やその家族にも、守られるべき人権というものがある。
にもかかわらず、メディアはこぞって容疑者とされた学生の実名や写真、逮捕の瞬間の映像などを流し続け、その報道に先導された「大衆」は、「犯人」扱いされる「容疑者」やその家族に対して「正義の鉄槌」を食らわせるがごとく激しいバッシングを展開する。
そして、大学当局の記者会見の席上、メディア記者達も「正義」の名の下に責任者に詰め寄るという「お約束の光景」が繰り返し報道され、ついに「大衆」は、直接事件に関与していない関係者までをも攻撃の対象とする。
これに対応する形で、大学側は「当該学生の停学or退学」「指導者の解任」「部の活動停止」「休廃部」等の処分に至るのが「ならわし」である。
結局、「京教大事件」は「示談(不起訴処分)」という形に終着する。
ちなみにこの決着について、古舘伊知郎をメインキャスターに据える報道ステーションで扱われた時間はたったの「10秒」(そのあと無言のうちに天気予報へ)。
逮捕当日の報道とは、あまりにも異なる扱いである。
まさに「正義」というものの危うさと無責任さを象徴する顛末といえるだろう。
小笠原氏の「結局何が起こったのか?」「不起訴処分になった6人のその後は?」「メディアの前でうろたえ続けた大学当局のその後は?」といった疑問に答えるべく取材を継続しているメディアは果たして存在するのだろうか。
メディアの報道には、常にわかりやすい「答え」が用意されている。
その「答え」とは、倫理観の欠如した人間が、自身の欲望のために敢えてルールの一線を踏み越えたというものである。
事実、メディア(とそれに引きずられる世論)は、当該者のみならずその関係者までをも指弾し、法(ルール)もまたそれ相応の罰を科してきた。
いつの時代にも倫理観の欠如した人間はいただろうし、社会のどこを見渡してもルール違反が後を絶たない現況を考えれば、この「答え」は、おそらく間違ってはいないのだろう。
しかし、簡単でわかり易い「答え」というのは、しばしばものごとの本質を隠蔽する。

経済成長という病 (講談社現代新書)

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ほんらい倫理観とは、法律の内側と外側をただ分別するものさしではないはずである。法律内でコストを圧縮し利益を最大化した経営者は賞賛され、その賞賛したもの(メディアも、学者も、一般の人々も)が、まったく同じ文脈で法律を破ったものを糾弾するのだとすれば、その糾弾が照準しているのは、倫理ではなくただ「法」の境界線だけではないのか。この「法」の境界をめぐって、前者はうまくやり、後者は下手をしてしくじったというだけではだけではないのか。
法律とは倫理を明文化したものではない。倫理が及ぶところでは、行為の理非を明文化する必要はないというべきだろう。「法」は、倫理が及ばない人間の行動に規範を与えるために、行動をルール化する必要から生まれてきたのである。
(by平川克美氏)

「常に欲無きもの、もってその妙を観、常に欲有るもの、もってその徼を観る(by老子)」。
常に「欲望」から解放されている者は、その『妙』(本質)をみることができるが、「欲望」から解放されない者は、その『徼(きょう)』(結果)しかみることができない。
他人の不幸は蜜の味」という諺のメカニズムが科学的に証明されたと騒がれる昨今であるが、常に「非寛容」の立場で当事者およびその関係者をバッシングする「正義」の裏には、実はそれぞれの立場や関心による様々な「欲望」があるに違いなく、その欲望から解放されない限りモンダイの「本質」を捉えることはできないと思われるのである。
多くの事件とそれを構成したもの全ての「特殊性」に目を向けるやり方の対極に、それらと自らの「同質性」に目を向ける方法がある。
畢竟それは、彼らと自分との繋がりを「想像」することである。
彼らに欠如していた「倫理観」は、我々にも同じように欠如していて、彼らが追及した「欲望」は、我々も同じように共有していると考えるべきではないか。
ひとりの人間の行動の前にはいくつもの選択肢が広がっており、その善悪は、事後的に判定されるよりほかない。
この順逆を間違えてはならない。
「ジャーナリズムには、「怒りや驚き」を抱きつつも、それをあからさまにする前に、冷徹で苦々しい現場検証の使命を果たして欲しい。」という小笠原氏の指摘は重い。