「思われる」と「考える」

moriyasu11232009-09-08

『2つのキャッチコピーで異例のヒット「東大・京大で一番読まれた本」発売23年目で100万部突破』
お茶の水女子大名誉教授で英文学者の外山滋比古氏の『思考の整理学』(ちくま文庫)の累計発行部数が、1日までに100万部を超えたことが分かった。同書は1986年に刊行された学術エッセーで、23年目にしてのミリオン突破となった。
大台の100万部超えは長いマラソンの結果ではあったものの、最後のラストスパートの加速はすさまじかった。そのきっかけとなったのは2つのキャッチコピーだ。
まず1つ目は2007年のこと。同書はそれまで20年間で累計17万部のロングセラーだったが、盛岡市の書店員が「もっと若いときに読んでいれば…そう思わずにはいられませんでした」という手書きPOPによる仕掛け販売を行って以降、中高年を中心に読まれるようになった。そこで出版社が同じうたい文句を帯に付けると全国の書店で火が点き、1年半後の08年6月には累計51万5000部に到達した。
その後いったん勢いは弱まったが、最加速のきっかけとなったのが2つ目のキャッチコピーだ。東大・京大生協における08年書籍販売総合ランキング1位を獲得したことで、09年2月から「東大・京大で一番読まれた本」とのキャッチで販促をかけると、再びブレイク。6月以降は毎月10万部超のハイペースで重版を続け、先月末についに100万部を突破した。
20年以上も前に文庫化された本がこれほど増刷を繰り返すのは出版業界では異例のことだ。本の内容が優れているのは言うまでもないが、年間の新刊点数が8万点を超えている中、良書というだけではなかなか売れない時代であるのも事実。そのような中、書店で読者の目によくとまるキャッチコピーの存在が同書のヒットに大きな役割をはたした。
(2009年9月4日 MONEYzine)

前回のエントリーの後で何ともタイムリーな記事だと思いつつ振り返ってみると、要するに後輩E君が「東大・京大で一番読まれた本」というキャッチコピーにまんまと引っかかり、ちょうど奈良インターハイの時期に読んでいて、その話題を提供してくれたというのが顛末であると得心した。
この本を最初に手にしたのは、かれこれ15〜16年くらい前。大学院の同級生に勧められたのがきっかけだったと記憶するが、再読してみてもその内容は全く色褪せていない。
原理的・哲学的な内容であるがゆえ、であろう。

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

日ごろ、考えるという言葉を何気なくつかっている。
これはよく考えなくてはいけないと思うことがときどきおこる。うまく考えがまとまらない、といっては、あせったり、悲観したりすることもある。そして、お互いに、自分は相当、考える力をもっていると思って生きている。
ところが、その考えるというのは、どういうことなのか。思うのとどう違うのか。知るのとの関係はどうなのか。いかなる手順をふんで考えているのだろうか。そういうことを改まって反省することは、まず、例外的であろう。
かつての学校では、ほとんどまったく、考えるということについて教えなかった。それでも、気がついてみると、我々はそれぞれ、いつのまにか我流の考え方、自分だけの考えのまとめ方をもっている。
どこで教わったというのではないし、とくに自分で工夫したということもなく、自然にある型のようなものができあがっている。その人の発想は、この型によって規制される。やっかいなのは、その型をみずからでは、はっきり自覚することが困難なことである。
自分がどういう考え方をしているのか、ということを意識するには、ほかの人の型に触れるのが有効である。(…)
考えるのは面倒なことと思っている人が多いが、見方によってはこれほど、ぜいたくな楽しみはないのかもしれない。何かのために考える実利実用の思考のほかに、ただ考えることがおもしろくて考える純粋思考のあることを発見してよい時期になっているのではあるまいか。
(by外山滋比古氏)

本書は、もともと1983年「ちくまセミナー」シリーズの1冊として刊行され、1986年に文庫本化された。
興味深いのは、文庫本化されるにあたって、上記の「あとがき」に加えて「文庫本用あとがき」が加筆されていることである。
この「文庫本用あとがき」は、「考えるというのは、どういうことなのか。思うのとどう違うのか。知るのとの関係はどうなのか。いかなる手順をふんで考えているのだろうか。」という疑問に対する筆者の考えをさらに深めたものになっている。
まず、著者が日本に来たばかりのアメリカ人から「日本人は二言目には「I think…」というが、そんなに思索的なのか」と問われて面食らったという一文から始まる。
外山氏はこれを、何事もむき出しにすることを「はしたない」と感じる日本人の心情に関係しているとした上で、日本人が頻用する「I think…」は、その第一人称に自分の責任においてという自覚は認められず、判断をぼかすためのベールの役割にほかならないと指摘する。
シェイクスピアの時代の英語には、今は使われない「methinks」という言い方があったそうである。
この「methinks」は、I thinkのIの代わりにmeが頭につく造語で、現代英語で言い換えると「It seems to me…」、すなわち「思われる」という意味になるらしい。
外山氏は、日本人が好んで用いる「思われる」「であろう」という表現は、欧米人流の「I think」ではなく、「methinks」すなわち「It seems to me」に近いニュアンスであろうとしている。

ものを考えるにはI thinkという考え方とIt seems to meという考え方の二つがあるということになる。(…)たいていの思考ははじめから明確な姿をもってあらわれるとは限らない。ぼんやり、断片的に、はにかみながら顔をのぞかせる。それがとらえられ、ある程度はっきりした輪郭ができたところで、It seems to meになる。(…)It seems to meは、なお「くらげなす、ただよえる」状態にあると言ってよかろう。
「くらげなす、ただよえる」ものが、はっきりした形をとるようになるには時間の経過が必要である。混沌もやがて時がたてばさだかな形をとるようになる。いつまでも「くらげなす、ただよえる」状態をつづけるものは拡散崩壊して消滅する。こういう時間の整理作用に委ねておかないで、想念を思考化していく作業が「考える」ことである。
「と思われる」という思考はいわば幾重にも衣服につつまれている。(…)その着物を一枚一枚脱がせていくのが、I think本来の思考である。
(前掲書「文庫本あとがき」より抜粋)

そして、この着物を脱がせていくための方法のひとつとして、「ものを書く」ことを推奨している。

書くことで自分の考えを押しすすめる、書くことは考えることである、とのべている人のいることも注目される。漠然としていたことが書く過程においてはっきりする。「思われる」ことの外装がはがされて中核に迫っていくことができる。(…)
I thinkのエッセイが試論であるとするなら、It seems to meのエッセイは随筆、随想をいうことになる。いずれにしてもエッセイストはもっとも身近なところで思考の整理をしているのである。何か考えたら書いてみる。その過程において考えたことがIt seems to meから、すこしずつI thinkに向っていく。われわれはだれでも、こういう意味でのエッセイストになることができる。
思考の整理学はめいめいがこういうエッセイストになることで成果をあげるはずである。
(前掲書「文庫本あとがき」より抜粋)

外山氏は、文庫本化されるまでの3年間、この「思われると考える」というテーマを“寝かせ”、また新しい“素材(英語と日本語)”を加えることによって、この文庫本あとがきという新たな「カクテル」を生みだしたのだろう。
このテーマについては、本ブログの過去のエントリー(「職人と呼ばれたい」「正しいとはどういうことか」)でも拙い思索を展開し、K群馬氏や九州本部氏から貴重なコメントも頂戴している。
いずれにせよ、このテーマに関する「素材(酵素?)」がまた増えた。
とにもかくにも書き続けながら、「I think」に向かって歩を進めていきたい。