カクテル研究

moriyasu11232009-09-01

近畿まほろば総体期間中に、後輩のE君が「今読んでいる本がなかなか面白くて…『朝飯前』っていう話があるんですけどね……」と、その概要を説明してくれた。
ん?どっかで聞いたことがあるような…
書名や著者を尋ねると、今読んでいる本であるはずなのにうろ覚えのE君(当然、突っ込みを入れる)。
自宅に戻って本棚を確認すると、既読であるその本(1986年第二刷)に再会する。

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

遅ればせながら2年ほど前から、斉藤孝氏よろしく3色ボールペンでガリガリと書き込みながら読書しているが、それ以前は、気になったページの角を小さく折り曲げておくようにしていた。
この本のページの角も、あちこち折り曲げられていた。
昔の自分(が何を重要と考え、何を見落としていたのか)と対決?してみようと思い立ち、まもなく通勤のお伴本となる。
外山滋比古氏は、優れた研究(論文)の有り様を「酒」になぞらえて解説している。
まず行うべきことは「素材(発酵素)」を発見すること。
文学研究であれば、まず「作品そのもの」を読み込み、感心するところ、違和感を覚えるところ、分からないところなどを抜き書きしたものが「素材」となる。
次に、これをアルコールに変化させるために「発酵」させなければならないが、そのためには素材とは異質なものとしての「酵素」が必要となる。
そして、これらを撹拌し、しばらくそっとしておく、すなわち「素材」と「酵素」の化学反応が進行するまで“寝かせる”のである。
例えば、シャークスピアや源氏物語の評価が「なぜ時代によって変わるのか?」という疑問を「素材」にしたとする。
あるとき、「諸説紛々の解釈のある文章や詩歌の意味は、諸説全てを含んだものなのではないか」と言っている批評家の存在に気づく。
さらに時を同じくして、どうしてデマが伝播していくのかという人間心理に興味を持ち、人間には尾ヒレをつけずに話を右から左へ移すことができない本能を有するのではないかと考える。
この2つのヒントが「酵素」となり、2〜3年もの間「発酵」させた結果、「人間は正本に対して、つねに異本をつくろうとする。Aのものを読んで、理解したとする。その結果は決してAではなくA’、つまり異本になっている。文学が面白いのはこの異本を許容しているからである。」という「異本論」に行き着き、さらに外山氏オリジナルの「古典論」へと発展させていくことになる。

努力をすればどんなことでも成就するように考えるのは思い上がりである。努力しても、できないことがある。それには、時間をかけるしか手がない。幸運は寝て待つのが賢明である。ときとして、一夜漬けのようにさっとできあがることもあれば、何十年という沈潜ののちに、はじめて、形をととのえるということもある。いずれにしても、こういう無意識の時間を使って、考えを生み出すということに、われわれはもっと関心をいだくべきである。
(前掲書より抜粋)

さらに外山氏は、真にすぐれた学術論文とはいかなるものかについて、複数の酒を使って作る「カクテル」に準えて解説する。

たとえば、ある作家の女性の描き方について。ある独自の見方をする研究者がいたとする。自分の考えがまとまって、それを独創的だと自信をもったら、関係のある先行研究があるかどうかを検討する。
かりに、A、B、C、Dの四つの説がすでに存在するとする。本人の思いついた考えXはこれらのどれとも違っているけれども、しいて言えば、B説に近いとしよう。
ここでもっとも誘惑的な方法は、Bを援用しながら、したがってA、C、D、を否定しながら、自説Xを展開するやり方であろう。へたに、A、C、Dを混合すると、Xの影がうすくなる心配がある。
もうひとつは、女性の描き方、という題目だけとらえて、それをテーマだと自分に言いきかせ、AからDまでの先行研究をさがし出してくる。そしてこれだけをもとにして、論文をまとめようとする方法である。ここでは自分の地酒Xはできていない。まるで他人の酒で勝負する。
A、B、C、Dをまぜ合わせれば、カクテルのようになるであろうが、こういうバーテンダーに本当のカクテルができるわけがない。ちゃんぽん酒である。カクテルもどき、でしかない。
(前掲書より抜粋)

外山氏は、これまでの我が国の人文系の学問において、このカクテルもどきの論文がいかに多いかを指摘しつつ、ものを考える人間は「自信を持ちながら、なお、あくまで、謙虚でなくてはならない。」と強調する。
その上で、新しい思考を生み出す第一の条件は、あくまで「独創」であるとしながらも、それを振り回すことは単なる教条主義でしかないと喝破する。
先の例で言えば、A、B、C、Dそれぞれを適度に参照しながら、新しい調和を考えることが重要であると説くのである。
これは、まさに「現象学的還元(byフッサールほか)」に通じるものである。

今世紀になって、こういう諸説はいずれも、それぞれ必然性をもって生じたものである。完全に否定し去るのは当を得ない。全てを包括する観点に立つべきである─という新訓詁的見解があらわれた。(…)
思考、着想についても同じことが言える。同じ問題について、AからDまでの説があるとする。自分が新しくX説を得たとして、これだけを尊しとして、他をすべてなで切りにしてしまっては、蛮勇に堕しやすい。Xにもっとも近いBだけを肯定しようとするのも、なお我田引水のうらみなしとしない。AからDまでとXをすべて認めて、これを調和折衷させる。
こうしてできるのがカクテルもどきではない、本当のカクテル論文である。すぐれた学術論文の多くは、これである。
(前掲書より抜粋)

論文でも批評文でも、どのような「書かれ方」をしているのかが極めて重要である。
もちろん、内容が重要でないなどと言うつもりはさらさらないが、「内容」と「書かれ方」は別物であると考えたい。
書き手がひとつの言葉を選ぶ背景には、そこで選ばなかった無数の言葉が存在している。
革新的・革命的な思想とか、切れ味鋭いロジックとか、科学的な情報満載というのも結構だが、その思想、ロジック、情報は、あくまでも書き手が自分で調べたり考えたりして生んだその人固有の果実であり、他人が食したところで「ほんとうの味」はよく分からない。
しかし、そこに至るまでの思考錯誤のプロセスや言葉の運用の中に、書き手と自分の同起源を見いだしたり、また含有される「素材」や「酵素」を共有していることに気づいたりすることもあり、それ故に分かりあうことができる、否、分かりあったかのような幻想を抱くことが可能となるのである。
これは、「情報」と「情報化プロセス」との関係にも似ている。
繰り返し述べてきたことであるが、「トレーニングの内容(情報)」と「トレーニングの仕方(情報化プロセス)」は別物である。
選手がひとつのトレーニングを選ぶ背景には、そこで選ばなかった無数のトレーニングが存在している。
そして、そのトレーニングが選ばれた文脈の中には、それを選ぶに至る理由(意味や価値)があり、実はそのことがトレーニング効果を大いに左右する。
科学的、革新的トレーニングも結構だが、それらはあくまでもその選手や指導者固有の果実であり、他人がそのまま食したところで「ほんとうの味」はよく分からない。

昨今、スポーツやトレーニングに関する数値化された情報(データ)が氾濫しているが、その量的データの裏にある意図や意識、得られた感覚や感触といった質的な「情報化プロセス」については「情報化」されにくいという側面がある。しかし、「情報」の本質というのは、「情報と情報化の階層差」にこそ存在し、科学的データという「情報」も、その「情報化プロセス」と付け合わせてはじめて意味を帯びてくる。そのような情報を、選手が自身の腑に落とそうとするとき、最終的な拠り所となるのは自身の身体感覚(身体知)であるといえる。
(拙稿「陸上競技男子400mハードル走における最適レースパターンの創発:一流ハードラーの実践知に関する量的および質的アプローチ」トレーニング科学 第20巻3号より抜粋)

外山氏は、この「カクテル」という章を、こんなふうに結んでいる。
「(本当のカクテル論文は)人を酔わせながら、独善におちいらない手堅さをもっている」
なんとも上手い(旨い?)ことをおっしゃる。
人文、社会、自然といった枠組みを超えた「ひとり学際研究」の究極は、このような「カクテル論文」を書き上げることにあるのかもしれない。