コーチングと科学の「間(はざま)」とは?(その2)

moriyasu11232013-07-11

前回(その1)からのつづき…

Evidence-based Coachingの確立に向けて
いわゆる「専門家」というのは、「他領域の専門家」との議論や協働によってはじめて自身の専門性の限界(何の役に立たないか)について自覚できるものだが、特定分野に閉じた専門家にはその契機が訪れにくい。なぜなら、同じ価値観、同じ専門用語、同じ基準での業績評価を共有する場では、自らの存在理由を説明する必要がなく、かつ有用であるという前提(合意)があるため「その知識や技術の必要性」や「他領域との協働」などについて根源的な問いを立てる必要がほとんどないからである。このことは、スポーツ医・科学の研究者だけでなく、スポーツ現場に立つコーチなどの専門家一般に共通する問題として指摘することが可能である。
拙稿「コーチングと科学の「間(はざま)」―学会と(指導)現場に求められる関係性とは―」抄録より抜粋)

このような問題意識を踏まえて『強化スタッフと研究者による試行錯誤』として、現場と科学研究の融合に求められる視点を提示する。

コーチングとスポーツ科学の“専門家”が協働するためには、「自分にはこれができる(有用性)」ということと同時に「これができない(無用性)」ということを正しく理解し、それを正確に他者に伝えるたうえで、その協働のあり方を模索する必要がある。そのためには、スポーツを研究対象として扱う学会が、スポーツの“実践”を始原とする学際的分野であるという視座に立ち、「コーチング(トレーニング)」というメタな問題意識の共有と互いの立場や関心についての相互理解を図る「場」としての機能を果たす必要があるだろう。
(拙稿「コーチングと科学の「間(はざま)」―学会と(指導)現場に求められる関係性とは―」抄録より抜粋)

最後に、研究と社会との関係を考えるためのメタ理論の一つである「モード論」を援用しながら、「スポーツ(科学)」を扱う学会の役割について私見を述べる。

現代社会と知の創造―モード論とは何か (丸善ライブラリー)

現代社会と知の創造―モード論とは何か (丸善ライブラリー)

【モード①】研究の価値がその学問体系への貢献によって決定されるようなモード。研究評価は研究者内部のピア・レビュー(同業者評価)によって行われ、研究成果は学術雑誌などの制度化したメディアに掲載されるものが重要であるとみなされる。学範(ディシプリン)が明確な知識生産の様式であり、研究テーマの設定から専門職への就職までが学範によって規定される。
【モード②】社会に開放された知識生産のモード。取り組むべき研究テーマは現実の社会に起きた解決すべき課題として現れる。課題の設定ならびに解決は特定の学範(ディシプリン)ではなく、社会の要請によって規定される。そのため、複数の学問領域にまたがる多彩な人びとのコラボレーション(協働作業)が行われやすい。
(byギボンズ氏)

モード論では、研究を「基礎と応用」に二分するのではなく、「学範(ディシプリン)」の関心に駆動されるモードと「個人や社会の関心」に駆動されるモードという「二つのモードの違い」と考える。
改めて言うまでもないが、現場と科学研究の融合に向けては、現場の要請によって規定された課題の「解決(どうすればお互いに満足する結果が得られるか)」の共有を前提とするスポーツ科学の研究者と指導者や選手との連携・協働を通した理論構築が必須である。
したがって、スポーツ(科学)を扱う学会には、その学問体系の全体像を意識しながらも、その中核をなす「スポーツパフォーマンス」を扱う学融的な知識生産と理論化および研究者養成が求められていることを述べて講演を締めくくる。
休憩を挟んで行われたラウンドテーブル・ディスカッション『コーチからみた学会(研究者)、学会(研究者)からみたコーチ』では、県内の有力指導者4名と学会員4名の計8名が登壇し約2時間にわたる白熱した議論が展開される(コメンテーターとして末席に加わる)。
様々なやりとりのなかで最も印象に残ったのは、学会(研究者)とコーチの「間(はざま)」を生じさせる「相互の目的・目標のズレに対する認識の欠如(目標と責任の相違)」と「実践者の内在的な世界および内在的な世界の言葉へのリスペクトの欠如(視点の相違)」の問題である。

学融とモード論の心理学―人文社会科学における学問融合をめざして

学融とモード論の心理学―人文社会科学における学問融合をめざして

異なる学問間の協力という面でいうと、学際的研究という用語がある。また、現場の実践者と研究者の交流という面でいうと、コンサルテーションとか指導・助言という用語がある。(…)
学際的(inter-disciplinary)な研究は、ある課題に関して複数の学問分野が研究を行うことであるが、個々の課題はあくまで学範内の興味であることが多い。また、学際的研究の場合には1つの課題の異なる側面を複数の学問分野がそれぞれ担当するのであり、課題そのものについて共同で作業/検討することは少ないし、ある分野の成果に対して他の分野が異議をさしはさむことでよりよい成果をめざすようなことはほとんどないと言ってよいであろう。学際的研究では、問題は共有されているが、その後の作業や解は共有されなくてもよいのである。(…)
コンサルテーションは、現場で実践をしている人が、その活動について専門家の助言や指導を受けるという意味合いが強い。現場で解決困難な問題について、一歩引いた立場からの助言は有用であることが多いものの、そこでは情報の「交換」というよりは「指導」が行われていることが多く、対等の立場で新しい知識生産が行われているとは言いがたい。
それに対して、学融的(trans-disciplinary)な交流では、実践者と研究者は対等であり、問題解決の妥当性についても厳しい相互チェックが行われることになる。
(byサトウタツヤ氏)

たとえば,スポーツバイオメカニクスとスポーツ生理学の「学際」研究は,お互いの学範が,何らかの事情でスポーツに関する諸問題や対象について研究しようと決め,それぞれの立場から研究をすれば事足りるが,「学融」研究は、実際に解決すべき課題がある時にのみ立ち上がり,その解決こそが目指されるのである。
この「学融的研究」とは、まさに「パフォーマンス向上」という課題(テーマ)を共有するコーチと選手および研究者が、互いにその「間(はざま)」に架橋し合う営みにほかならない。
以下に、実践者と研究者とが対等の立場で交流し、問題解決の妥当性についても厳しい相互チェックが行われた学融的交流の好例を紹介する。

競泳の松田丈志選手は、2008年の北京五輪において200mバタフライで銅メダルを獲得しました。その時の記録(1分52秒97)は彼の自己ベストであり、まだまだ成長を続けられると感じていた彼は、当然のように、次の2013年ロンドン五輪での金メダル獲得を目標に掲げました。
松田選手と当時の指導者であった久世由美子コーチは、金メダルを獲るための課題のひとつに「キャッチの効いた泳ぎを身につけること」を挙げました。バタフライでは、両腕で後方に水をかき、空中で腕をぐるっと前に回してまた手を入水させますが、その入水直後に水をとらえる動作をキャッチといいます。
日本では、キャッチより少し後の胸のあたりで水をかきこむ動作(プル)を重視する指導が一般的で、北京五輪までは、松田選手もキャッチでは少し水を逃がし、プルでダイナミックに水をかくようにしていました。しかし、世界のトップスイマーと隣り合ってレースを闘う中で、海外の選手が自分よりも早いタイミングで水をかき始めていること、すなわち、キャッチを効かせていることに気づき、自分が次のステージに登るためには、この技術を身につける必要があると感じたのです。
数値化とトレーニング考案
ここで、我々サポートスタッフの課題は2つありました。1つは、キャッチが効いた状態を数値化することです。感覚的にはわかるものの、データとして蓄積したり、よいときと悪いときを比較したりするためには数字として残す必要があります。そのために我々は、国内全てのレースで水中にカメラを沈め、映像をコンピュータに取り込み、時々刻々のスピードの変化を分析しました。キャッチと同時に加速が起こっているかを検証するためです。
もう1つの我々の課題は、キャッチが効いた泳ぎを身につけるための練習を提案することでした。我々は、フィン(足ひれ)をつけて泳ぐドリルを提案しました。フィンをつけるとキックによる推進力が飛躍的に高まり、自力で発揮できる以上のスピードで泳ぐことができます。その速いスピードでも遅れずに水をキャッチすることを意識してもらい、技術的な負荷を高めようと考えたのです。
しかし、久世コーチは、我々の提案に難色を示しました。スピードが高まると、どうしても手のひらにかかる力が小さくなり、これまで培ってきた力強い泳ぎが失われるのではないかと懸念したのです。久世コーチは、パドル(手に装着する水かき)を使用して手に加わる抵抗を増し、水をとらえる力を向上させるトレーニングを行いたいと考えておられました。我々の提案とはかなり違う意向です。スピードを重視すると力はおろそかになり、力を重視するとスピードがおろそかになる─この2択は正反対の結果を生じると考えられました。しかし、コーチの直感を信じ、パドルを使ったドリルを行うことにしました。ただし、その練習は、一日の練習の最初の方に、できるだけ高いスピードで行ってほしいと伝えました。疲労がなく集中力も十分ある時に、よい動きを繰り返して欲しかったからです。
前進と後退
(…)2011年の4月から11月にかけては、まさに理想的な変化が起きました。キャッチが効くようになり、加速のタイミングが早まったのです。ところが、2012年の4月にはまた元に戻ってしまいました。これは、前年の変化に自信を持った我々が、次のステップとしてキックの意識を変えることを提案したためでした。バタフライでは、キャッチを効かせるとどうしても上半身が起き上がってしまうので、それを打ち消してより効率よく前進するためにキックのタイミングを早めようと提案したのです。しかし、これにより泳ぎのバランスを崩してしまいました。キャッチは効かなくなり、加速のタイミングが遅くなってしまったのです。記録も低下しました。幸い、オリンピックへの出場権は確保できましたが、順調に記録を伸ばしていた時に水を差すような形になってしまったのです。一部の報道では、「科学的サポートは役に立たない」という批判の声も上がりました。しかし、松田選手は、「キックのタイミングは気になっていたポイントなので、いずれ改善したいと思っていた。うまくいかなかったのは確かだが、オリンピックの半年前に課題を整理することができてよかった」とコメントしてくれました。
この後も様々な調整を繰り返し、松田選手はロンドン五輪に臨むわけですが、最終的には、前回に続いて銅メダルという結果でした。記録も1分53秒21と自己ベスト更新はなりませんでした。2大会連続のメダル獲得は大変立派な成績ですが、やはり本人の目標は金メダル獲得でしたから、さぞ悔しかったことだろうと思います。我々もオリンピック半年前の判断ミスがなければ…と責任を感じています。
科学的サポートの役割
さて、みなさんの目には、この一連の科学的サポートのあり方はどのように映ったでしょうか。少なくとも、科学的な測定や分析が、どんな場合にもよい結果を生むわけではないことがご理解いただけたと思います。それでは、スポーツの競技力向上のために科学にできることはいったい何でしょうか。松田選手のようなトップアスリートは、体力と技術が最高のレベルで調和しています。しかし、更なる競技力向上のためには、その調和を一度崩す必要があります。これは非常に勇気がいる挑戦です。このような挑戦は、誰も成し遂げていないこと(スポーツに限らず、勉強でも仕事でも同じです)を達成するときにはどうしても避けて通ることができません。私は、その挑戦を後押しするのが科学の役割だと考えています。問題を構成する様々な要素に優先順位をつけ、改善すべき点を見つけたり改善の方法を提案したりして選手とコーチに納得してもらい、挑戦に必要な強い意志を引き出す、それが科学的サポートの役割だと考えています。
トップアスリートが勝負を終えて発する言葉には、それが勝者であれ敗者であれ感動を呼ぶ何かがありますが、そこに到達するまでにどんな試行錯誤があったのか、どうやってそれを乗り越えたのかというプロセスにもう少し目を向けると、感動以上の、自分の生き方に直接的に役立つ心身の操作法が見いだせるかもしれません。
(窪康之『科学的サポートとは』Sports Japan 2013年7・8月号(vol.8)より抜粋)

上記は、先のエントリー(その1)冒頭記事への回答(反論)ともいうべきものといえるだろう。
出身ラボの学兄(年下だけど)である氏の論考に触れて、院生時代にボスから繰り返し教え諭された以下のことを思い起こした。

スポーツバイオメカニクス20講

スポーツバイオメカニクス20講

スポーツバイオメカニクスでは、体育やスポーツにおける運動や人などが主要な対象となる。そして、「人の動きがどうなっているか」(運動の記述)、「なぜそのような動きになるのか。どんな筋力や外力が働いているのか」(運動の原因の説明)、「どのようにしたら、うまくできるか。よくなるか」(運動の改善や最適化)、そして、「こんな動きはできないか。こんなことはできないか」(運動の創造)を常に考えることが重要である。
(by阿江通良氏)

実社会においても、いわゆる現場の人間は様々な知見の活用について日常的かつ学融的に試行錯誤している。
例えばゲーム機の開発などでは、インターフェース設計には心理学や生理学、ソフトウェア開発には脳科学、回路設計には工学、価格づけには経済学…などなどの学問的知見を応用しながら、製品開発および最適化を図っているはずである。
さらに言えば、巷間みられる新規性の高い実践や成果のほとんどは、いわゆる「学融」プロセスの集積であり、いまさら何か目新しいことのように言うのはおこがましいという批判もあるかもしれない。
しかし、このような「学融的交流」や「知識生産」のプロセスについて、様々な分析ツールを駆使しながらその妥当性や普遍性について検証し、得られたエビデンスを(当事者レベルを超えて)伝え広めていくための「科学的な記述」として蓄積していくことが「科学」の大きな役割であり、我々に与えられた課題でもあると再認識した次第である。
コーチングと科学は、「演繹と帰納」、「質的と量的」、「芸術(Art)と後(Art)追い」などの様々なキーワードによって二元論的な相対関係で語られることも少なくないが、「科学的なコーチ」や「科学的ではない研究者」が少なからず存在することをみるまでもなく、その前提となるべき「科学的な態度」には共通する部分があると思われるのである。
もちろんこの「態度」は、メディアの方々にも不可欠であることは言を俟たない。
というわけで、大変僭越ではありますが、本日から拙ブログのタイトルを「ひとり学融日記」に改めますことを申し添えます。
なかなか更新も儘なりませんが、今後ともよろしくお願いいたします。