コーチングと科学の間(はざま)とは?(その1)

moriyasu11232013-06-30

日本は年27億円の国費を五輪選手の支援に向けている。スポーツ科学の専門家が助言する「アスリート支援」はその一つ。北京五輪に続いて競泳男子200メートルバタフライで銅メダルを獲得した松田丈志は、助言に従って泳ぎ方を変えたことがある。4月の日本選手権の前だった。
バタフライには両手を前に出したときの第1キックと、両手を後ろにかいたときの第2キックがある。松田の泳ぎを分析した専門家は、第2キックを早めて両手をかききる前に打つように勧めた。足と手の2段階で力を出せば効率よく推進力を得られるはずだという提案で、マイケル・フェルプスの泳ぎをモデルにした。
松田は取り組んだが、タイムは変わらなかった。日本選手権の記録は1分54秒01。昨年の世界選手権とまったく同じタイムだった。
ハードな練習の感触ほど速く泳げなかったと松田は感じ、専門家と改めて話し合った。「あとは自分の感覚でやってみます」
それからは、手と腕で水をかく技術に意識を移した。たとえば板(パドル)を指先で持って泳ぐ練習。普通、パドルは手のひらに固定するが、そういう練習法があると平泳ぎの北島康介から聞いたのを思い出し、試すと水をかく技術を磨くのに効果的だった。
スポーツ科学が無用だったわけではない。最後の追い込みをした高地練習では、血液検査で疲労を確認しながら練習の強度を限界まで上げた。苦手のスタートとターンの対策では、筋力トレーニング時の動きを理学療法士に見てもらい、背中と腰の動きを改善した。
だが、速く泳ぐために体をどう動かせばいいのかを見つけるのはいつも自分の感覚だった。「科学の専門家の意見に従うだけなら、ただ迷っているのと同じ」
陸上長距離で圧倒的な強さを誇るケニア人の速さの秘密を探る科学者が世界中にいる。バルセロナ五輪の男子3000メートル障害銀メダリストで今はコーチとして活躍しているパトリック・サングにそのことについて聞くとこう言った。「科学者は速い者が速い理由を知りたがる。すでにわかっていることを、彼らの方法で証明するにすぎない」
遺伝から生活習慣まで諸説あるが、科学はケニア人の速さの理由を特定できていない。
科学は理解を助けるが、科学でメダルをとることはないだろう。
(2012年8月8日 朝日新聞デジタル〈五輪を語ろう〉メダル、科学だけでは取れぬ」より抜粋)

上記の記事は、昨年8月3日に紙面掲載されたときのタイトルが「科学では…取れぬ」だったが、Web掲載時には「科学だけでは…取れぬ」に変更されている。
タイトル変更の理由は判然としないが、「科学(だけ)でメダルを取れた」とは一体どういう状況なのかが示されていない(無理だろうけど…)だけでなく、松田選手および競泳とは無関係の第三者の断片的なコメント引用から結論が導かれているあたりは「結論ありきの恣意的なレトリック(by某私大准教授)」と酷評されても致し方あるまい。
とはいえ、我々「スポーツ科学」の研究者には、この手のレトリックに対してどのような説得的なロジックを提示できるのかが問われているともいえる。
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昨年の7月、大分県スポーツ学会主催の第2回ワークショップにお招きいただいた。
会の冒頭、仕掛け人?である九州本部氏から、「おおいたコーチングサミット―(その1)本学会は指導者に対していかなる貢献ができるのか―」というテーマを設定した趣旨について説明がなされる。

スポーツ指導(コーチング)の現場と研究(科学)は、生産的な関係性を築けているのでしょうか? スポーツ科学への関心を抱きつつも、まだまだ「経験知」を尊ぶコーチングの現場が存在しています。見方を変えると、科学者は数々の「経験知」を有する指導者たちの声にどれほど傾聴できているのでしょうか。 本ディスカッションでは、コーチングと科学をめぐる「間(はざま)」の存在を自覚し、両者間のあるべき関係性について議論・検討を深めてみたいと考えています。

引き続き、1時間ほどの時間を頂戴して『コーチングと科学の間(はざま)―学会と指導現場に求められる関係性とは―』というテーマで自身の試行錯誤について紹介する。

スポーツトレーニングにおける総ての基本的「手段」は運動であり、その基本的「方法」は種々のタイプの反復にある。
これらの運動は、専門とするスポーツ競技の試合運動の基本的な運動形態・機能を基準に、より近縁関係にある「専門的運動」(試合的運動を含む)と、反対により遠縁関係にあり理論的にはあらゆる運動を含む「一般的運動」とに大別される。
これらの運動はまた、それぞれに内在する多面的な側面とそれらの諸細目によって理論的に特徴づけられ、明示的(時には非明示的)なトレーニング課題や目的として扱われる。
これらは技術(戦術を含む)、体力、および心理面であり、更にそれぞれで諸細目に区別される。しかし、総ての運動自体は不可分な全体としてのみ現象し、これら多面的側面とそれらの諸細目は、観察者の意図と観察装置とに基づく一定の定量可能な範囲での相互作用による観察結果に過ぎない。
(村木征人「相補性統合スポーツトレーニング論序説: スポーツ方法学における本質問題の探究に向けて」スポーツ方法学研究21巻1号より抜粋)

講演の冒頭、「観察」や「分析」とは、ある部分にフォーカスするために他の部分を無視するという「理論負荷性」を負うことが不可避な営みであるが、この「不可逆性」への挑戦こそがコーチングと科学の「間(はざま)」を架橋する営みでもあることを確認する。

エビデンス(根拠)とナラティブ(物語)
「根拠に基づく医療(Evidence-based Medicine)」の本来的な意味は、研究によって得られた「最良の根拠(エビデンス)」と「臨床家の経験」および「患者の価値観」などを統合し、よりよいケアに向けた“意志決定”を行うことにあるが、このエビデンスの活用プロセスには、①臨床現場の問題意識から発せられる「クリニカル・クエスチョン」の立て方、②患者や一般人への伝え方および反応のフィードバック方法、③エビデンスが「使われ過ぎる or 使われなさ過ぎる(エビデンス・診療ギャップ)」などの課題も併存するといわれている。このような課題を踏まえて、患者自身が語るナラティブ(物語)から病の背景を理解し、抱えている問題に対して全人的なアプローチを試みようとする臨床手法(Narrative-based Medicine)の重要性も指摘されている。今日の医療にいわゆる「エビデンス」は不可欠なものとなったが、臨床現場にはそれだけで対応しきれない場面があることも言を俟たない。
(拙稿「コーチングと科学の間(はざま)―学会と(指導)現場に求められる関係性とは―」ワークショップ抄録より抜粋)

上記の「臨床家」を「コーチ」、「患者」を「アスリート」に置き換えれば、客観的(量的)に測定可能な事象と主観的(質的)な事象が同居するスポーツ現場に関わる研究分野への指摘として読み替え可能であり、これらのことを踏まえれば、コーチングと科学の「間(はざま)」は、以下のような問題によって生起されると考えられる。

  • 理論負荷性)「客観的な事実(理論)」は、常に「誰が」「どのように」観察したかに影響を受けるという認識の欠如。
  • (権力関係の相違)科学的コミュニケーションにおける権力関係に起因する「欠如モデル(教える側と教わる側)」の採用。
  • (目標と責任の相違)相互の目的・目標(研究? or 現場の問題解決?)のズレに対する認識の欠如。
  • (視点の相違)「実践者の内在的な世界」および「内在的な世界の言葉」へのリスペクトの欠如。
  • (コミュニケーションの考え方)「正しく」伝えることの過剰な重視による「わかりやすく」、「楽しく」伝えるという視点の欠如。

(荒川歩とサトウタツヤ「セク融・学融を妨げる要因の検討と構造構成主義による解決の可能性とその適用範囲立命館人間科学研究9号より抜粋および一部改変)

このような問題意識を踏まえて『アスリートと研究者による試行錯誤』をテーマに、トップアスリートとの関わりを通して学んだことについて紹介する。

研究方法の科学性
そもそも自然科学(≒量的)研究における科学性と、人文科学(≒質的)研究の科学性は異質なものである。一般的に、量的研究は、仮説の検証や一般性のある知見を生み出すことに向くとされているが、特定の前提(モデルなど)がなければ成立しないため「前提そのもの」を問うことはできない。一方、質的研究は、仮説の生成や前提自体を問い直すことが可能だが、仮説検証や一般性のある知見を生み出すには不向きである。
また、「一般性の高い知見(理論)」が、必ずしも多くの場合に有効とは限らないことにも留意すべきである。比喩的にいえば、「90%の人に当てはまるが、10%しか説明できない(一般性の高い)」理論よりも、「10%の人にしか当てはまらないけれど90%説明できる(一般性の低い)」理論のほうが、むしろ現場では役に立つことも少なくない。狭義の「科学研究」の枠組みにおいては、一般性の低い知見を提供する(と考えられている)「事例研究」の説明範囲の狭さを問題視するが、そのプロセスを適切に記述するための手続きが整理されていれば、複数の知見の組み合わせによって既存理論の修正および一般化が可能になることも十分に考慮されるべきである。
(拙稿「コーチングと科学の間(はざま)―学会と(指導)現場に求められる関係性とは―」ワークショップ抄録より抜粋)

我々がコーチや選手に提供する分析(量的)データは単なる「情報(点)」に過ぎないが、その背景にある質的情報(プロセス)を知るとデータの見え方(解釈)は変化する。
実はそこに「人間」が行う「スポーツ」を「科学」することの本質があると思われるのである。

コーチングのそもそもの意味は、「相手の望むところへ導くこと」と考えられる。
そして、その「望むところ」は、単なる客観的な目標に留まらず、その状態であったり、あるいは技術やスキルなどなど様々であるため、相対する人間の背景を知らず、また関心を寄せることもなくそこに導くことは、ほとんど不可能である。
相手の「背景」を知ると、その捉え方が「点」から「線(あるいは面)」に移行する。
(2009年12月24日 拙稿「背景への関心」より抜粋)

「線(面)」としての意味内容を可能な限り共有しようとすれば、互いの背景にまで意識が及び、表面的な「決めつけ」が起こらなくなくなり、より合理的な「判断」をするための「新たな問い」を立てることができる。

文武両道(理論と実践の往復)の本質
アスリートやコーチは、「事実=現実の世界で実際に観測されている事象」をもとに立論された「仮説=頭の中で考えられた検証される前の理論」に依拠しながらトレーニングを実践していくが、この「仮説」の妥当性が日々の実践のなかで繰り返し検証されることを通して「理論=実証された事象間の関連」が構築されていく。換言すれば、確固たる「事実」の裏づけがあり、かつこの「理論」に基づいて「事実」が起きていると多くの人に(または自分の中に)確信として現れたものが「(科学的)理論」ということになる。この「理論」は、それを「信じつつも疑う」こと、すなわち一端「構築」した理論を再び「解体」することの矛盾に引き裂かれながら「再構築し続ける」ことによってのみ洗練化が可能となるが、この作業は古の表現を借りれば「文武両道」、すなわち「理論と実践の往復運動」にほかならない。
(拙稿「コーチングと科学の間(はざま)―学会と(指導)現場に求められる関係性とは―」ワークショップ抄録より抜粋)

このような問題意識を踏まえて『乳酸研究をベースとした新しい評価方法の開発』というテーマで、乳酸が「疲労物質」ではなく代謝サイクルで「エネルギー源」として再利用されるという考え方に依拠した、新しいロングスプリントや中距離走のパフォーマンス評価法および指標開発の試みについて紹介する。

高いレベルの競技力を維持または向上させるためには、極めて高い体力、技術力および精神力はもちろん、トレーニングを合理的かつ効果的に遂行するための複雑かつ高度な循環型思考を働かせる必要があるが、この思考の精度・確度を高めるためには、日々のトレーニング実践にかかわる客観的(量的)および主観的(質的)な情報に基づく総合的な判断が必須となる。トレーニング負荷は、いわゆる体力論的には、運動の強度、時間、頻度および休息時間などの「量的」負荷によって決まるとされているが、そこで考慮されている心理的・技術的な「質的」負荷によって得られる効果が異なることは自明である。競技力向上に関する研究に求められているのは、これら様々な情報とパフォーマンスの「間(はざま)」で行われているコーチング(トレーニング)現場の試行錯誤について、様々な研究方法を駆使した学際的アプローチによって可能な限り精度よく検証・記述していくことであるといえるだろう。加えて、このアプローチには、それぞれ研究手法の特長や限界を理解しつつ目的に応じて取捨選択する能力が必須であり、それは1つの研究方法に習熟してそれを突き詰めていく能力とは異なることを踏まえておく必要もある。
(拙稿「コーチングと科学の間(はざま)―学会と(指導)現場に求められる関係性とは―」ワークショップ抄録より抜粋)

このような問題意識を踏まえて「コーチと研究者による試行錯誤」というテーマで、大学女子中距離選手とそのコーチが4年間かけて「理論と実践」を再構築していくプロセスに関わった経験について紹介する。
というわけでつづく。m(__)m