嘉納治五郎先生の遺言

moriyasu11232012-07-20

今年度から装いも新たに船出した新情報誌「Sports Japan」では、「スポ研Now」という実にありきたりなタイトルによる連載がスタートしている。
この連載は、現在進行中の医・科学研究プロジェクトを紹介するのが主な目的であるが、第2号で「日本体育協会創成期における体育・スポーツと今日的課題─嘉納治五郎の成果と今日的課題─」について紹介した拙稿を再録する。

本研究の目的は、日本体育協会の初代会長である嘉納治五郎氏(以下、嘉納)にまつわる様々な文献を紐解きながら、我が国の体育・スポーツに関する今日的課題、とりわけ嘉納がスポーツの「大衆化(国民スポーツ推進)」と「高度化(国際競技力向上)」をどのように結び付け、発展させようとしていたのかを明らかにすることにある。
嘉納の体育・スポーツ振興への貢献は、大きく「学校体育の充実」「国民体育(生涯スポーツ)の発展」「オリンピック参加」の3つに分けられる。
東京高等師範学校長であった嘉納は、長距離走、水泳実習、柔道・剣道の必修化のみならず、課外に行う運動部活動も奨励していた。現代日本において義務教育から高等教育に至るまで実施されている「体育授業」や「部活動」を全国に広めたのは嘉納とその教え子であったといえよう。
嘉納の「国民体育」は、老若男女、得意不得意にかかわらず誰でもできる運動、とりわけ「長距離走(歩)」を重視していたが、地理歴史や農工商業について学べるように名所旧跡を巡りながら走ることなども提案しており、このような考え方は後に「箱根駅伝」の実施へと繋がっていく。また、水泳(水術)の指導にも熱心であり、泳力別の班編成による遊泳実習という特徴に加えて、海浜での様々な楽しさを味わいながら技術を身につけられる手だてが講じられていたようである。今日のランニングブームや水泳(スイミング)の普及をみるにつけ、嘉納の「国民体育」は、まさに今日の「生涯スポーツ」の姿を先取りする炯眼であったといえるだろう。
上記のような思想をもっていた嘉納が、なぜ「オリンピック参加」を志向したのか。その理由については、「スポーツのもつ競技性を取り入れたほうが興味を惹きやすい」が故に「オリンピック参加を契機に国民体育のさらなる普及を図ろうとした」と解釈するのが一般的であるが、スポーツの「大衆化」と「高度化」の関係や矛盾、さらには両者をどのように関連づけていくべきかについての本質的な議論はほとんどなされていないのが現状である。
思想家の故吉本隆明氏は、「偉人と一緒に生き埋めにされる習慣があった時代に自分がいたらどう思うかということと、それは現在からみればひどく野蛮な行為であることの両方が見えていることが大切であり、一方しか見ていなければ何も見ていないのに等しい」と喝破する。スポーツ基本法とスポーツ宣言日本のスポーツ定義に共通する「世界共通(人類共通)の文化」と「健康で文化的な生活を営む上で不可欠のもの」という記述に違和感を覚える人は、スポーツの「内」にはほとんどいないのだろう。しかし、スポーツの「内」にも、ライフステージやライフスタイルに応じて多種多様なスポーツ需要があること、そしてスポーツの「外」には、スポーツに依拠することなく健康で文化的な暮らしを営んでいる多くの人々がいることについては十二分に認識しておく必要がある。
繰り返しになるが、本プロジェクトの目的は、日体協創成期の嘉納の葛藤や試行錯誤を通して、これまでの体育・スポーツの「功と罪」をリアルに考量しながら、次の100年に向けた展望を示すことにある。そのような「総括」なしには、国民の体力向上も、地域スポーツクラブの定着も、オリンピック招致の支持率も、オリンピックのメダル獲得も…およそスポーツ界が望む方向には向かわないと思われるのである。
(拙稿『嘉納治五郎先生の遺言(連載・スポ研Now)』Sport Japan(Vol.2)より抜粋)

関連する拙稿「体育・スポーツの今日的課題(その1その2 )」もご笑覧いただければ幸甚である。
というわけで、今後とも「Sports Japan」のご愛顧をよろしくお願いいたします。