遊びとスポーツ

moriyasu11232009-05-23

『入江「もう一度、記録を出す」=今夏の世界水泳に照準−競泳水着問題』
競泳男子200メートル背泳ぎで入江陵介(近大)が世界新記録を出した際に着用した水着が国際水泳連盟FINA)の認可外とされたことを受け、入江は20日夜、大阪市内で記者会見し「悔しさもあるが、ゼロからに戻れたことでうれしい部分もある。もう一度、世界記録を作るチャンスを頂いた」と前向きに話した。
今後使用する水着について、入江は「(新基準で)公認された水着の中で、自分がいいなと思うものを着たい」と明言は避けた。しかし、「前半の入りやバサロの改良があったからタイムが出た」と自分の力に対する信念は揺るがない。昨年に続く水着騒動に「悲しいの一言。水着の影響じゃない、と必死に努力している選手の姿を見てほしい」と表情を曇らせた。
今夏の世界選手権(ローマ)での目標がはっきりとした。日本水連が記録を公認したことで、仮に日本記録の方が世界記録より速いという異例の事態になったら、それも解消するつもりだ。「ローマでは、世界新であり日本新であるタイムを目指す」と力強かった。
(2009年5月20日 時事通信

北京五輪から尾を引いているこの水着問題は、単なるメディアネタに留まらず、スポーツ社会学の研究者にとっても恰好の研究テーマであるといえる。

スポーツ的身体の歴史的変容を概観すると、古代ギリシャの軍事テクノロジーによる武装化した肉体を誇る「闘技者」、道徳のテクノロジーによって教育化した肉体をレスペクトする「スポーツマン」、そしてテクノロジーによって目的合理的に肉体をスポーツ化した「アスリート」が浮かび上がる。このスポーツ的身体のメタモルファシスに注目するとき、そこにはテクノ化した肉体に隠されている理想化した身体のイデオロギーが見えるのである。(…)
つまり、肉体のためのテクノロジーではなく、テクノロジーのための肉体である。アスリートのスポーツ化身体は、最も具体的な肉体でありながら最も抽象的(意味喪失)な肉体であることによって、現代における体力とテクノロジーの関係の近未来を予兆するのである。
(佐伯年詩雄「体力とテクノロジーの「これから」を考える ─スポーツ的身体のメタモルファシスに注目して─」スポーツ社会学研究 第17巻1号より)

大変興味深い視点であるが、このようなスポーツテクノロジーパースペクティブは他の論考に譲るとして、ここでは少し違った視点でこの問題を考えてみたい。
渦中の入江選手は、この一件でずいぶんと男を上げているようだ(ご本人は困惑(迷惑?)しているであろうが…)。
朝のワイドショーでも、アナウンサーやコメンテータからの「若いのにできている」「普通じゃ考えられない」などなど…賞賛の嵐である。
これは、理不尽な裁定を受けてもなお前向きに精進し続けようとするアスリートの清々しさに対する「あこがれ」にも似た庶民的感情の現れと見ることもできるだろう。
こうしたアスリートへの暖かいまなざしは、斯界の人間として歓迎すべきことなのかもしれないが、そもそも本来的な意味での「スポーツ」が理解されていないが故のものであると言えなくもない。

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

十九世紀の最後の四半世紀このかた、スポーツ制度の発達をみると、それは、競技がだんだん真面目なものとして受け取られる方向に向かっている。規則は次第に厳重になり、細目にいたるまで考案されるようになった。記録はどんどん高く延びている。(…)
さて、こういうスポーツの組織化と訓練が絶えまなく強化されてゆくとともに、長いあいだには純粋な遊びの内容がそこから失われてゆくのである。(…)そこには自然なもの、気楽な感じが欠けている。こうして現代社会では、スポーツがしだいに純粋な遊び領域から遠ざかってゆき、「それ自体のsui generis」一要素となっている。つまり、それはもはや遊びではないし、それでいて真面目でもないのだ。
(byホイジンガ氏)

改めて言うまでもないが、「トップアスリート」とは、「普通じゃない」が故に「トップアスリート」たり得るのと同時に、我々凡人とさして変わりのない「ひとりの人間存在」でもある。
入江選手の「悔しさもあるが、ゼロからに戻れたことでうれしい部分もある」というコメントは、せっかく完成させたパズルを壊してしまうという過失を犯したにもかかわらず「ごめんごめん。でももう一回できるよ。今度は違うやり方でもっとはやく作ってみたら?」などと無反省な物言いをする愚父(すなわち私)に冷視線を浴びせつつ、ふたたび真剣な面持ちでパズルに興じるいたいけな子どもたちのメンタリティとさほど違わないのではないか。
そこに相違を見るのは、「パズル」は「遊び」だが、「スポーツ(世界記録)」は「遊びとは違う何か」であるとする社会通念(一般常識)であり、実はそれこそが今日的なスポーツの姿を象徴しているともいえる。

そもそもホイジンガが目指した遊びの「定義」の重要性は、その面白さが一つの要素を取り出して理解しようとする理性的なカテゴリーを超えた、非理性的なところにあった。この定義から理解されるのは、面白さを支える「自発的」行為が特定の時空間でしか通用しない規則の拘束(しばり)を受け入れるという、「自由と規律(拘束)」との間にある矛盾である。(…)
しかし、遊びは、そのような論理的矛盾を「面白さ」を支える条件として、いとも簡単に超越してしまう。だから、それは目的が達成されることが喜びなのではなく、その行為自体の中に緊張や喜びが内包されていると考えるのである。目的それ自体が、あるいはそれを達成しようとする過程自体が遊びの内容であるから、目的達成が遊びの1つの過程にしか過ぎず、次々と多様な目的が設定されていくことになる(まるで完成しては崩していくジグソーパズル遊びのように)。
(菊幸一「子どもの遊びとスポーツの違い ─ホイジンガの所論を中心に─」体育の科学 第59巻5号より)

パズルふたたび…
「遊び」は、「遊び」以外の何ものでもなく、「遊びそのもの」の中において完結する自己目的的(自己完結的)なものである。
その「遊びそのもの」の中には、緊張、歓び、面白さなどが含まれるが、とりわけ重要なのは「面白さ」であり、これこそ「遊びの本質」に他ならない。
さらに言えば、「面白さ」とは何かと問う「問い方そのもの」が「遊び」には向いておらず、まさしくそのことにおいて「遊びの本質」が逆説的に示されているのである。
「遊びの面白さは、どんな分析も、どんな論理的解釈も受け入れない(byホイジンガ)」

単純な脳、複雑な「私」

単純な脳、複雑な「私」

人の役に立ったらうれしいし、自分も満足だしということで、だから科学はおもしろいんだ・・・そんなふうに普通の人は考えているかもしれない。
でも、科学の現場にいる人にとっては、そうじゃない。科学の醍醐味は、それだけに尽きるのじゃない。むしろ本当におもしろいのは、事実や真実を解明して知ることよりも、解明していくプロセスにある。
仮説を検証して新しい発見が生まれたら、その発見を、過去に蓄積された知識を通じて解釈して、そして、また新しい発見に挑む。(…)難解なパズルのピースを少しずつ露礁させていくかのような、この謎解きの創出プロセスが一番おもしろい。
(by池谷祐二氏)

おおここにもパズル…
スポーツを扱う研究者のはしくれ、もといタイム職人としては、激しく首肯するところである。
これを「スポーツ実践」に関連づけて読み替えると、以下のような感じになるだろうか。
「人に勝ったり記録がでたらうれしいし、自分も満足だしということで、だからスポーツはおもしろいんだ・・・そんなふうに普通の人は考えているかもしれない。でも、スポーツの現場にいる人にとっては、そうじゃない。スポーツの醍醐味は、それだけに尽きるのじゃない。むしろ本当におもしろいのは、勝利や記録の向上よりも、それを目指してトレーニングしていくプロセスにある。自分のパフォーマンスを検証して新しい発見が生まれたら、その発見を、過去に蓄積された知識を通じて解釈して、そして、また新しい発見(トレーニング)に挑む。(以下同文)」
そういえば、同じようなことを言っている人がスポーツ界にもいたな。

日本人の足を速くする (新潮新書)

日本人の足を速くする (新潮新書)

法政大学入学時代から現在に至るまで、私は一貫してコーチの指導を受ける形をとらず、トレーニングのやり方も量も、すべて自分自身で研究し工夫してきました。もちろん、わからないことがあれば監督やコーチ、諸先輩に教えを乞いますし、客観的なアドバイスも頂きますが、それは私が必要と考えて自ら求めるのであり、待っていて上から降りてくるものではありません。(…)
自分には何が足りないのか。それを解決するためには、何をすればいいのか。
それを自分の脳で突き止めた上で行うトレーニングは、上から降りてきたメニューをこなしている場合とは、効力が雲泥の差になるのです。(…)
私は、自分で考えるという最高に面白い作業を、もったいなくて人に渡したくはないのです。
(by為末大氏)

世界記録かどうかは「歴史」や「他者」が判断することである。
個々のアスリートにとっては、全ての記録が「自己記録」であり、世界記録もその延長線上にあるひとつの点に過ぎない。

このような(※ジグソーパズル遊びのような)行為を支えているのが、時空間の分離を明確化する「これは、遊びである」というメタ意識にほかならないのである。
したがって、メディア(特に視覚を中心とする映像メディア)に取り囲まれた現代の子どもたちは、よほどのメディア・リテラシーを身につけない限り、「これは、スポーツである」というメタ意識をメディア情報が制度化する(しかも刹那的な)スポーツ(たとえば、NBAのバスケットボールのみをスポーツとしてのそれとしてしか認めないような)認識によって侵食され、自ら遊びとスポーツの共通性や連続性を遮断する傾向を生み出す可能性があると考えられよう。
(菊幸一 前出論文より抜粋)

「スポーツ文化」という言葉が、真の意味で成立するのか、はたまたキャッチフレーズに終わるのかは、「これは、スポーツである」というメタ意識の質に左右されるということだろう。
ともあれ、入江選手がローマでさらに難しいパズルを完成させて、にっこりと微笑む姿を楽しみに待つことにしよう。