文武両道の意味

moriyasu11232009-04-10

我が母校は、校訓に「質実剛健」、教育方針として「文武両道」を掲げる県立の男子校である。
実にありきたりな校訓と教育方針である。
そして母校では、この校訓が様々な学校サイドの「言い訳」に用いられていた。
質実剛健」でいえば、まず「学校ジャージ」というものが存在しない(最近のことは知らない)。
ラグビー(冬)の授業の時だけ長袖のラガシャツ着用OKだったが、それ以外はいつでも半袖短パンだった(柔道着は可)。
また、当時の席次は窓際から名字50音順に決められており、最初が「も」の私は毎年のように廊下側に座らされていた。
この席次の理由については諸説あるが、回収物を「あいうえお順」に並べ替える手間が省けることを重視したという説が有力である。
ほかにも、各教室に設置された石油ストーブが冬になってもいっこうに火を入れる気配がないため、廊下側の生徒数名で担任のところに直談判に行ったら「あれは定時制の生徒のためのものなんだよ。お前ら“質実剛健”だろ〜」と一蹴されるなどなど…枚挙にいとまがない(定時制の校訓は「質実剛健」ではないのか?)。
授業中に寝ていると「凍死するぞ」と起こされ(怒られ)たりしていた。
冬は手袋をしたりホッカイロを握りしめたりしながら試験を受けていた。
学業成績が芳しくなかったのは、そのせいであることも否定できない(肯定もできない)。
そして母校は、今や超近代的な学舎(写真参照)に建て替えられ、教室はすべて冷暖房完備だそうである(私の学舎はこのページの写真中央)。
しかし、いまだに校訓は変わっていない(おかしくないか?)。
次に教育方針の「文武両道」について。
1985年3月、志望校合格に浮かれてルンルン気分で行った入学説明会で、日栄社の「1日1題30日完成 英文法(まだあるんだコレ)」という薄い問題集を手渡され「入学後に新入生歓迎のテストをするから勉強してくるように」といわれる。
歓迎するのにテストとはいったいどういうことなのか?
まだ「入学」もしていないのに、もう高校英語を「完成」させるのか?
パラパラとめくってみると、見たこともない単語はもちろん、「仮定法」などという聞いたことのない法則?まであるではないか。
混乱を来した私は、中3の春休みとしては当然のことながら、陸上競技のトレーニング(高校の練習にも参加)以外は完全に遊び呆けてしまった。
おかげで、競技者としてはスムーズに次のステージに移行できたが、歓迎?テストではかろうじて追試(30点以下)を免れたものの、それまで見たことのないような点数を見て愕然とする(じきに慣れる)。
テスト終了後、上位50名くらいの成績優秀者の名前が掲示されたが、99点を筆頭に90点台がゴロゴロいるのを目の当たりにしたとき、自分はスポーツで生きていこうと決心したのである(そして現在に至る)。
と同時に、同じような決心?をした音楽仲間とも親交を深めつつ、バンド活動へも引き込まれていったのである(リーダーはこの人)。
ちなみにこのバンド(その名も「100m」)は、「Hot Wave Festival」でグランプリを獲得する。
いずれにせよ、とても愉しい高校生活であった。
昨今、進学指導に対する保護者や生徒からのリクエストが増長(失礼)し、7時間授業や土曜日授業などによって課外活動が縮小されている学校も少なくないと聞くが、母校の部活動加入率は高く、運動/文化部(この分類もよく分からんが)を問わずそれぞれに歴史と伝統を誇っている。
創部九十有余年の我が陸上競技部も、インターハイ累積得点が156.5点と、埼玉県では1位、全国でも19位にランクインしている(2007年佐賀インターハイ終了時点)。
「文武両道」の校訓を形骸化させないために割く労力は、恐らく並大抵のものではないだろう。
そのことを想像すればなおさら、母校の生徒が課外活動に励みつつ進学実績も残しているということが、大変喜ばしく、また誇りに思えるのである。
校訓や教育方針が同じ学校は、探せばいくらでもある。
しかし「校風」は、それぞれの学校にオリジナルなものである。
それは、具体的な教育プログラムや設備、規則のことではない。
無論、個々の教師の教育理念や教育方法のことでもない。
「校風」とは、それらすべてを包含した、我々が「学校」と呼んでいる「想像の共同体(byアンダーソン)」を生かしているもののことである。
『文武両道は目指すものではなく、日常そのものである(by春高サイト)』
「人生」のパフォーマンスを高めるための「本質」は、まさにここにある。
母校の生徒達が、この共同体に親しみ、安らぎと癒し、そして生きる知恵と力を得んことを祈念する。
閑話休題
母校の自慢話?はこれくらいにして、タイトルにもある「文武両道」とはいかなるものかについて考えてみたい。
辞書には、「文事と武事との両方(大辞泉)」「学問と武芸の両方の面(大辞林)」とあるが、かの養老孟司氏は「文武両道」を以下のように表現している。

江戸時代には、朱子学の後、陽明学が主流になった。陽明学というのは何かといえば、『知行合一』。すなわち、知ることと行うことが一致すべきだ、という考え方です。しかしこれは、『知ったことが出力されないと意味が無い』という意味だと思います。これが『文武両道』の本当の意味ではないか。文と武という別のものが並行していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がグルグル回らなくては意味が無い、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。
(by養老孟司氏)

陽明学」とは、中国明代の王陽明およびその学派の儒教学説である。
王陽明は、当時官学であった「朱子学」の、万物の理を極めてから実践に向かう「知先行後」という考え方に対して、「致良知」「知行合一」などを主要な学説として実践主義的な批判を展開していく。

ち‐りょうち【致良知
 良知を致すこと。良知とは、もと孟子から出た語で、先天的な道徳知をいい、王陽明はこれを借りて、心即理説を致良知説へと展開した。良知は心の本体としての理の発出であり、この良知を物事の上に正しく発揮することによって道理が実践的に成立するとする。

ちこう‐ごういつ‐せつ【知行合一説】
 明の王陽明の学説。朱熹の先知後行説が「致知」の「知」を経験的知識とし、広く知を致して事物の理を究めてこそ、これを実践しうるとしたのに対して、王陽明は「致知」の「知」を「良知」であるとし、知は行のもとであり、行は知の発現であるとし、知と行とを同時一源のものととらえた。
広辞苑 第五版より)

一般に、江戸時代の代表的な陽明学者としては中江藤樹や熊沢蕃山、陽明学に影響を受けた幕末の英傑としては吉田松陰高杉晋作西郷隆盛河井継之助などが挙げられるだろう(他にも数多いるが…)。
陽明学は、個人道徳の問題に偏重する傾向があり、王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれ、体制に反発する者が好む場合が多かった。実際、陽明学徒には、己の正義感に囚われて革命運動に命を賭す人間も少なくない。
上の英傑ラインナップを見ても、そのことはよくわかる。
ここで、山田方谷の登場である。
方谷は、幕末期の儒家陽明学者であり、十万両の借財に苦しむ備中松山藩の財政をわずか8年で立て直し、逆に十万両の蓄財をなし遂げたという「リストラの天才」である。
1805年に備中松山藩の貧しくも教育熱心な農民(元武家)の子として生まれ、5歳から儒学者の私塾に入り朱子学や詩文などを学ぶ。
9歳のとき、塾を訪れた客人の「坊や、何のために学問をするの?」という問いに対して「治国平天下(by四書「大学」)」と答えて度肝をぬかせたという逸話もある。
方谷のすごさは、29歳の京都遊学中に、朱子学陽明学それぞれの「利点」と「欠点」を読み解いたことにある。
その後、30歳のときに江戸に出て、佐藤一斎の塾に入る。
当時の一斎は、幕府の学問所である昌平黌塾長という学界の巨頭であった。したがって、当然のことながら表向きは官学である朱子学者を標榜していたものの、その広い見識は陽明学にまで及び、尊敬をこめて「陽朱陰王」と呼ばれていたといわれている。
2001年5月、衆議院での教育関連法案の審議中に、当時の宰相であった小泉純一郎氏が、一斎の「言志四録(言志晩録)」にある「三学戒」に触れたことから一躍有名になった。

『三学戒』
少にして学べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず
(言志晩録 第60条)

朱子学には、学問の順を追って学べば初心者でも深く学ぶことができるという利点と、自身が得心しているかは問わないという欠点があった。
一方、陽明学には、自身の得心を問いつつ人間性の本質に迫ること、道理を正しく判別して成果をあげることは可能であるが、私欲にかられて行為に及ぶと道理の判断を誤ることが多いという欠点がある。
このことに気づいた方谷は、陽明学を誤って理解すると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解してそれぞれを相対化できる門人にしか陽明学を教授しなかったと伝えられている。
これは、己の心のままに行動してしまいやすい陽明学の欠点を熟知していたからにほかならない。
恐らく方谷は、京都遊学中の「気づき」を一斎との議論によって深め、さらに「陽朱」を「ひとり学際」的な視点で統合しつつ、新たな独自の理論を構築していったに違いない(う〜ん、しびれる…)。
先の小泉某氏は、一斎や方谷が「陽朱」の間で葛藤しつつ紡いだアンビバレントなメッセージの解釈を誤ったのかもしれない。
方谷は、明治維新後は多くの招聘の声をすべて断り、一民間教育者としてこの世を去る。蛇足だが、この時代における志の高い学者の多くが清貧の武家の出であるというのも、現代の「学問」の有り様に対するアンチテーゼを感じてしまう。
「心を鏡のごとく磨け。人は磨き切った己の鏡の心をよりどころとして行動せよ。知っていながら行わないということは、まだ知らないに等しい。(by王陽明)」
陽明学の神髄はここにある。
養老氏の「学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない」を一歩進めれば、「学んだことと行動とが互いに影響しあえばこそ、高いパフォーマンスに行き着くことができる」となるだろうか。
さらに言えば、「文武両道」の本来的な意味は、学んだこと(理論)と行動(実践)の間を架橋し続けようとするトップアスリートの生き様を見ていれば、容易に気づくことなのである。
無論、「理論」と「実践」の間に橋を架けるのは、そう簡単なことではない。
トップアスリートは、同時にその難しさをも、我々に気づかせてくれるのである。