ゼロ・トレランス

moriyasu11232009-04-15

日体大箱根駅伝シード権はく奪へ』
陸上競技部員が大麻問題で退学処分になった日体大が、来年1月の箱根駅伝のシード権をはく奪される見通しになった。同駅伝を主催する関東学生陸上競技連盟の青葉昌幸会長(66)が12日、厳罰を科す方針を示した。既に日体大は4月末までの公式戦出場自粛を決めているが、9月いっぱいまで出場禁止の処分が下される見込み。出雲駅伝(10月)全日本大学駅伝(11月)も出場停止が濃厚になった。13日に予定する同連盟の駅伝対策委員会で結論が出る。
日体大の活動自粛について、青葉会長は報道を通じて知った。「のんきな内容で、びっくりした。考えられません」。処分の甘さに納得できない様子だった。
6日付で関係大学に示した日体大の謝罪文では、4月末まで全部員の公式戦出場禁止、大学周辺の清掃活動、当事者だった棒高跳び三段跳び選手の合宿所の早期廃止など。関東学連では「1年活動停止」の声も挙がっていたほどで、日体大には事前に厳罰を促していたという。
関東学連は13日に駅伝対策委員会を開き、処分を検討の上、正式発表する。青葉会長によると、出場停止は9月末までの6カ月間になり、次回の箱根駅伝のシード権ははく奪される。日体大は今年の箱根駅伝で3位に入り、10位までに与えられるシード権を2年ぶりに獲得した。処分が確定すれば、10月の予選会(立川)から再挑戦しなければならなくなる。
同時に、3大駅伝のうち、残る2つの出雲駅伝全日本大学駅伝は出場できない。箱根駅伝3位の結果で得られるはずの関東学連からの推薦は、取り消される。出場停止期間中に予定する5月の関東学生対校(インカレ)、7月のユニバーシアードなどへの道も閉ざされることになる。
「ルールやマナーを守らないと、スポーツが文化として評価されない」と青葉会長。棒高跳び三段跳びの選手による不祥事だが、世間の注目を浴びやすい駅伝にまで波及する可能性が高くなった。
(2009年4月13日 日刊スポーツ)

この問題については、3月24日にも少し触れたが、当該学生の退学、スタッフの解任、そして部の活動自粛といういつもの「かたち」が、さらなる厳罰化に向かおうとしている(その後の顛末はコチラ)。
大麻は、他の薬物と違って競技力向上に結びつく可能性は低いとされ、長い間その取り扱いが曖昧な形になっていた。IOCは、ようやく2000年シドニー五輪から大麻禁止を決めたが、たとえ競技力向上につながらなくても社会的に問題視されている薬物としてスポーツ界から追放するというのが理由だった。
最近起こったスポーツ界の主な大麻事件としては、大相撲の外国人力士および若麒麟マイケル・フェルプス、そして東芝ラグビー部のロアマヌなどが挙げられる。
この3人に対する処罰は、若麒麟が「解雇」プラス尾車親方の2階級降級、フェルプスは「大会出場停止3ヶ月、その間の強化費支給停止」、ロアマヌは「退部」、ラグビー部監督の謹慎および担当役員の10%報酬返上などとなっている。
フェルプスの処分が軽い理由については様々考えられるが、それに比べて若麒麟ロアマヌの処分はいささか厳しすぎるのではという向きもある。
と同時に、当該者と関係する者が処罰されるのも日本的な「ハビトゥス」といえるだろうか。この「連帯責任」というものの是非についても、十分に吟味されるべき問題であると感じる。

嘘の効用

嘘の効用

責任は、自由の基礎の上に初めて存在する。規則によって人の自由を奪うとき、もはやその人の責任を問うことはできないのです。しかるに、万事を規則ずくめに取り扱う役所なり大会社なりは、使用人の責任までをも規則によって形式的に定めようとします。その結果、責任は硬化し形式化して全く道徳的根拠を失います。
(by末弘嚴太郎氏)

ゼロ・トレランス」という考え方がある。
これは、文字どおり「不寛容の徹底」という、ここ数年、社会の管理・統御技術として注目されている概念である。
この「ゼロ・トレランス」の発想源に「割れ窓理論」がある。
道徳的な乱れ、ルール違反、秩序の乱れがやがて大きな犯罪につながっていく。
「割れた窓」は、まさにその徴候というわけである。
わが国でも、それに近似した政策が次々と現実化している。
たとえば、学校での「いじめ」対策として「ゼロ・トレランス」で対応しようという声があがっている。
「服装や言葉の乱れなど」はレベル1〜2、「喫煙」はレベル3、悪質な暴力行為はレベル4〜5とし、レベルによって担任、生徒指導部長、教頭、校長というように細かく対応する学校が出てきているらしい。
こうした厳罰手法はこれまで、教育方法としても権力的で未熟なやり方であり、指導者側のねらいとは裏腹にかえって厳罰に対する「反発「や「恨み」を買い、意欲の低下や暴力肯定意識の醸成などを引き起こす手法とみなされ否定されつつあった。
しかし、この「包摂型社会」から「排除型社会」へという流れは、もはや世界的な傾向であるいっても過言ではないようである。

『名糖ホームランバー』
名糖ホームランバーは角形のバニラアイスで、棒にささっている。食べ終わった後の棒に「ホームラン」の焼き印が押してあると、もう一本貰える。何度も挑戦するが当たりを引かない。ならば自分で「ホームラン」と書いてしまおう。四歳の浅知恵で、家にあったフェルトペンで棒に「ホームラン」と棒に書き、ドキドキしながらお店に向かった。
不思議なことにお店のおばさんは「当たったね」といってもう一本くれた。私には、してはいけないことをしたという意識があったから、逃げるように裏道に行きあわてて食べた(その結果お腹を壊した)。おばさんが、子どもの稚拙な文字を見逃してしまうほど耄碌していたのか、清濁併せ吞む豪傑だったのかは分からない。その場で叱らなかったり、親に言いつけなかったことの是非はどうだろう。その後、私はこの件でいい気になり、モラルを失った子供になったわけではなかった。昭和四十年代は上手な『逃げ道』をみつけてくれる大人が、まだまだ近所にいたということだろう。
(2000年10月22日 毎日新聞

児童文化研究家の串間努氏が、毎日新聞に寄せたコラムである。
串間氏は、「毎日アイスが食べたかった。お腹を壊すぞと親に叱られながら、どうやって小遣いを工面してアイスを食べるかを考えていた」という。
ホームランバーを毎日食べたいという気持ちは、痛いほどよくわかる。
かくいう私にとっても、ホームランバーと三色トリノは、毎日でも食べたいアイスであった。
当たりが出ると、その場ですぐに交換して友達に一口お裾分けする優越感に浸ったり、保管しておいて懐が寂しいときに利用したりしていた。
三色トリノの、チョコ、バナナ、イチゴの順番が思い出せない。
閑話休題
串間氏は、「分からない」「どうだろう」という言葉を使って、このエピソードに潜む問題の「未確定さ」を暗喩している。
このおばさんがその場で叱ったり、親に言いつけたりしたらどうなっていたかを、我々はもちろん、当のご本人である串間氏も知る由もない。
重要な点は、このとき「上手な『逃げ道』をみつけてくれる大人」に出会った串間氏が、その後「いい気になり、モラルを失った子供になったわけではなかった」ことにある。
当たりを偽造し、本当にお腹を壊してしまった串間氏の「苦い」思い出は、腹痛の記憶とともに身体に「すり込まれている」に違いない。
人間の営みは、「こうすればこうなるという」という単純なものではない。

私の考えによると、従来の「法」と「法学」との根本的欠点は、その対象たる「人間」の研究を怠りつつ、しかもみだりにこれを「或るもの」と仮定した点にある。すなわち本来「未知数」たるものの値を、十分実証的に究めずして軽々しくこれを「既知数」に置き換える点にあるのだと思います。(…)
従来の法学者や経済学者は本来Xたるべき人間をやすやすとAなりBなりに置き換えて、人間は「合理的」なものだとか、「利己的」なものだとか、仮定してしまいます。(…)
しかし人間は、合理的であるが、同時にきわめて不合理な方面をも具えており、また利己的であるが、同時に非利己的な方面をも具えている以上、かくして軽々しく仮定された「人間」を基礎として推論された「結果」が一々個々の場合について具体的妥当性を発揮しうるわけがないのです。
(前掲書「嘘の効用」より抜粋)

オランダは、麻薬に対する政策を検討するために、1970年代に大規模調査を行っている。
その調査とは、高校生を3つの集団にわけて、第一集団には頭ごなしに「麻薬はいけない」という価値の伝達を試み、第二集団には「麻薬がいけない」理由を説明し、第三集団には教師側から結論を与えずにディベートさせて、その後の彼らと麻薬との関わりについて追跡するというものである。
卒業後、麻薬に手を染めた割合が一番多かったのは第一集団(頭ごなし)、次が第二集団(理由の説明)、最も少なかったのは第三集団(ディベート)という結果であった。
オランダは、この「自己決定」こそが、安易な麻薬使用に対する最大かつ最良の歯止めになると考え、一定量の個人所持の非刑罰化(≠合法)や、コーヒーショップやユースセンターでの大麻販売を認めるという「寛容」政策へと舵を切るが、近年は麻薬利用者数が減少しているというエビデンスも示されている。
無論、日本でも大麻を合法にすべきだなどと言いたいわけではない。

はじめての現象学

はじめての現象学

現在、「知」というものはなんともうさん臭いものになっている。わたしは「すべての権力は悪い」と考える反=権力論者ではない。しかし、現在の「知」は、いわば集積されることである種の不要な権力になっている。権力や制度やルールはいつも最小限(ミニマム)であることがいいのである。それはなくてはならないが、なるべく少ない(小さい)ほうがいい。「知」も同じ原理で、生じた問題に対してなるべくミニマムであることが望ましい。
しかしこういう言い方が、反=論理主義や反=知識主義として受け取られるとすれば不本意である。わたしはただ、人間にとって「知」というもののもつ“意味”に注意を促したいだけだ。
(by竹田青嗣氏)

能力上、経験上の未熟さから生じる数々の「失敗」や「過ち」は、それ自体が人間としての特性であり成長に欠かせない「糧」となるものである。
この「寛容さ」が失われたら、人間として成長していく大事な機会を失うことになる。
もちろん「子ども」と「大人(成人)」は違う、という考え方もあるだろう。
しかし、子どもは「不完全な存在」だけれども、大人は「完全な存在」であるという考え方に同意する人はおそらくいないはずである。
そもそも「ルール」とは、何のために存在しているのか。
カイヨワは、あまねく人間文化は、プレイ(遊戯)のなかに、プレイとして発生し、プレイとして展開してきており、それはすべてが「規則の体系」であると指摘する。しかし、ここでいう「規則の体系」とは、プレイをプレイたらしめるために必要なものであり、違反を前提とした規制のためのものではなかったはずである。
起こった事件の「特殊性」に目を向けるやり方の対極に、それらと自身との「同質性」に目を向ける方法がある。
畢竟、それは彼らと自分の同質性について「想像」することである。
勿論、それで何かが解決できるわけではないが、「そこ」を起点に考えなければ、本質的な解決への糸口が見いだせないことだけは確かなように思われるのである。
我々は、フェルプスのコーチであるボブ・バウマン氏の「今回の体験を反省し、学んだことを生かすことで、選手としても、人間としても一回り大きくなる。そのためには、どんなサポートもしたい」という発言の意味について、いま一度問い直す必要があるだろう。
来年の箱根駅伝での日本体育大学の活躍に期待したい(もちろん駅伝以外も…)。