ほんとうに「カロリー」でよいのか?

moriyasu11232008-12-17

『寿命延長の鍵となる遺伝子確認 京大チーム』
老化を抑え、長寿にかかわると考えられる遺伝子を、京都大学生命科学研究科の西田栄介教授(細胞生物学)らの研究チームが、地中生物「線虫」を使った実験で確認、研究成果が15日発行の英科学誌「ネーチャー」に掲載される。同じ遺伝子はヒトにもあり、老化による病気の研究などにもつながる成果という。
この遺伝子は「Rheb(レブ)」と呼ばれ、これまではエネルギーの伝達などにかかわると考えられてきた。
研究チームは、レブの働きを失わせた線虫を作り、2日おきに餌を与えたり、与えなかったりする「断続的飢餓の状態」を作り出す実験を実施。その結果、通常の線虫は、約20日の寿命が10日伸びて約30日になるのに対し、レブの働きを失った線虫は、寿命が伸びないことがわかった。
哺乳(ほにゅう)類でも、食事をとったりとらなかったりする状態にすれば、老化を防ぐ作用があるとされ、動物を使った実験でも確認されているという。
今回の実験結果から、研究チームは、レブが、がんや糖尿病などのうち老化による疾患にかかわっている可能性があると推察。こうした病気の研究につながる成果としている。
(2008年12月15日 産経ニュース)

レブという遺伝子の働きも興味深いが、むしろ「断続的断食が寿命を伸ばす」というサイドラインのほうに引きつけられた。
時折、断食経験者が「断食中に無性に体を動かしたくなった」と回顧しているのを目(耳)にすることがある。
妥当性の程は定かではないが、空腹時に餌を探して徘徊する野生動物や狩猟民族の遺伝子が、断食中の身体活動を動機づけるのではないかという指摘もある。
確かに、エネルギーの節約という観点でみればじっとしている方が理にかなっているが、それは時間が経過すれば確実に次の餌が目の前に現れる場合に限られる。
そういえば、うちの子どもたちも、腹が減ると家中を徘徊して食物を探しているな。
線虫の活動量は測ってないのだろうか。
閑話休題
狩猟民族の末裔?といわれるアフリカンランナーに関する興味深い研究テーマのひとつとして、彼らのエネルギー摂取(食事や水分補給)の習慣がある。
彼らは、強化トレーニング中でも消費と摂取のカロリーバランスがイコールではない、すなわちネガティブエナジーバランス(消費カロリーより摂取カロリーが少ない)であるとか、水分もあまり摂らないというデータを示した論文も散見される。
「ケニア!彼らはなぜ速いのか」の著者である忠鉢氏の話でも、ケニアのキャンプではトレーニング中に選手はほとんど水分補給しないし、朝練20km走後の朝食もトースト1枚とミルクティー程度で済ませていたそうである。
かつてスズキの陸上競技部で活躍したルーシー・ワゴイ氏曰く…

ケニア! 彼らはなぜ速いのか

ケニア! 彼らはなぜ速いのか

日本人の方に細かい問題がいくつかあると思います。たとえば自分の身体が練習をやりたがっていないときに走って、走りを悪くしています。疲れているということは身体に休みが必要だということです。練習を少なくしたときには、食べる量も少なくしないといけません。練習しないで身体を休めているときは、たくさん食べる必要はないでしょう。日本人は練習が少ないときにもたくさん食べています。食事の前におやつを食べているのもよくないですね。日本人のランナーは、私からみたら少し太りすぎのように見えます。

卑近な話で恐縮だが、2年ほど前から基本的に昼食を摂らないという生活を続けている。
それでも全然平気である。
体調もすこぶる良い。
脳も軽快に働いている(ような気がするがエビデンスはない)。
久しぶりに会う人に「やせた?」と聞かれるので頷くと「ダイエット?」と言われるのが常だが、時には「大丈夫?」と心配そうに顔をのぞき込まれたりもする。
別に病気じゃないので心配しないでね(してないか)。
もともと「飢餓感」の効能には興味があった。
千日回峰行などに代表される荒行は、飢餓感を越えた極限状態における修行によって「身体の悟り」を引き出そうというものであるし、群馬サファリパークの動物が野生動物と呼ぶにはほど遠いほど怠惰なのは、安全と食事が与えられているからに違いない(群馬以外のことは知らない)。
そんなこんなで、少しでもヒトという動物としての「肉体」を取り戻し、仕事や学習の効率を上げることを目的に始めた「プチファスティング」だったが、結果的にはダイエット効果が最も大きかったようである。
ランチを抜き始めて約半年で…
体重:約71㎏ → 65〜66㎏
体脂肪率:約21% → 15〜16%
BMI:21.7(標準) → 19.8(標準)
という変化が見られた(以降、1年半以上にわたって維持)。
タ○タ製の安価なヘルスメーターなので正確さの程は定かでないが、この2年は保育園までの道のりで長男長女と行う朝ダッシュ以外は特別なトレーニングをしていないので、ほぼ脂肪(と水分?)が減ったと考えてよいだろう(計算も合う)。
唐突だが、消化管は「ちくわの穴」のようなものであるという。

できそこないの男たち (光文社新書)

できそこないの男たち (光文社新書)

口、食道、胃、小腸、大腸、肛門と連なるのは、身体の中心を突き抜ける中空の穴である。空間的には外部とつながっている。私たちが食べたものは、口から入り胃や腸に達するが、この時点ではまだ本当の意味では、食物は身体の『内部』に入ったわけではない。外部である消化管内で消化され、低分子化された栄養素が消化管壁を透過して体内の血液中に入ったとき、初めて食べ物は身体の『内部』、すなわちチクワの身の部分に入ったことになる。
(by福岡伸一氏)

実は医学的にも、皮膚や粘膜を「突き破らないで」到達する部位は「体外」、皮膚や粘膜を「突き破って」到達する部位は「体内」と定義されている。
つまり、消化管(口腔・咽頭・食道・胃・小腸・大腸)や膀胱は、すべて「体外」なのである。
食べ物は、口から入れたらそれで「終わり」ではない。
口から入れた食物はいわば「原油」のようなもので、それを蒸留してガソリンにし(消化)、それをどれだけ体内に取り込むことができるか(吸収)は、すべて消化管の性能如何に関わっているのである。

運動をするにはエネルギーが必要であり、エネルギーは食事から吸収された栄養成分から生成されることから、競技力を発揮したり、向上させたりするには、栄養成分をしっかり吸収しなければなりません。大量に食べても、吸収されなければ意味はないのです。(…)消化吸収がしっかり行われているかどうかは、便の量やにおいから判断することができます。吸収がうまく行われていないときは、便の量が増えたり、未消化のタンパク質が腐敗してにおいが強くなったりします。
鈴木志保子「食べ物がうんちになるまで(コーチングクリニック2009年1月号)」より抜粋)

なかなか的確なご指摘ではあるが、実際に消化吸収を高めるというところで「消化吸収の良いものを摂る」「よく咀嚼する」といったごくごく一般的な示唆しかなされていないのは残念である。
消化・吸収の機能は、はたして鍛えることが可能なのだろうか?
仏教文化の中に「精進料理」というものがある。
日本でこの料理が発展したのは、禅宗が伝えられた鎌倉時代にさかのぼるらしいが、昔の僧は戒律五戒で殺生(肉食)が禁じられており、野菜や豆類、穀類を工夫して調理した、いわゆるベジタリアン料理を食すのが専らであった。

中でも際だって特徴的なのが曹洞宗の精進料理である。大本山永平寺の開祖、道元禅師は、それまで雑事と考えられてきた食事や調理を、修行の域まで高めたことで有名である。道元禅師は、読経や座禅などを行じている時だけがいわば修行ONで、それ以外は修行OFFであるという考えを否定する。すなわち、掃除や洗濯、入浴など一切の日常行為が座禅と同価値の尊い修行であり、私たちの一挙手一投足がそのまま修行であると説く。そこにおいて、釈尊の教えが現実世界とはかけ離れた観念的な空論ではなく、私たちのありふれた日々の生活や職務において実戦可能な生きた教えとなりうるのである。
曹洞宗永福時住職・高梨尚之「精進料理の心にみる合理性」 第62回日本体力医学会大会予稿集より)

高梨氏は、この学会シンポジウムにおいて、便の無臭化、脳のすっきり感、身体の軽快感etc…3ヶ月にわたる修行中の様々な変化について回顧するともに、修行中のエネルギー出納の調査を行った栄養士が「これで生きていられるのはおかしい…」とつぶやいたというエピソードを紹介していた。
栄養士諸氏は、自らの常識やカロリー計算の方法を疑うのが先ではないのか?(じっさい死んでないし…)
おそらくその栄養士は、成人男性に必要とされる摂取カロリーの半分にも満たない精進料理と過酷な修行とのアンバランスに混乱を来したのであろうが、それは「成人男性に必要とされる摂取カロリー」という「常識」への信憑を前提にしているからである。
「成人男性に必要とされる摂取カロリー」を導き出す計算方法が「正しい」という保証はどこにもない。
そもそも、修行によって「身体の悟り」をひらいた人間の(消化吸収を含めた)身体能力が、一般人と同じであると考えることのほうが無理筋である。
従来の理論では説明できないが,その存在を仮定しないと「辻褄が合わない」現象に遭遇した場合には,その存在を仮説的に想定し「辻褄が合わなくなる」まで使い続ける。
このような態度のことを、本来は「科学的(態度)」と呼ぶのである。
カロリー計算だけが「科学」ではない。
アフリカンランナーや僧侶の「食」に対する態度は、「鍛錬(トレーニング)」というものの本質について考える機会を与えてくれる。
我々は「身体の声」にもっと敏感になる必要がある。